愛染国俊
愛染国俊(あいぜんくにとし)
- 享保名物帳所載
愛染国俊 長九寸五分 代三千貫 松平加賀守殿
秀吉公の御物なり森美作守殿拝領其後御遺物として家光公より加州御家へ下さる利綱公御目見のとき拝領と云、表裏棒樋并添樋、忠表に愛染の彫物あり- 「長二尺五寸九分半」とするのは詳註刀剣名物帳の誤り
- 平造、庵棟。表に素剣、裏には棒樋と腰樋の彫り物。
- なかご生ぶ、鑢目切る。目釘孔の上に愛染明王の毛彫り。目釘孔下に「國俊」の二字銘が入る。
- 俗にいう二字国俊(来国俊)の作であり、在銘の短刀は稀有とされる。
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由来
- 名は、なかごの表、國俊銘の上に刻まれた愛染明王の彫り物による。
- ※愛染明王については後述
来歴
秀吉→家康
- もとは秀吉が所持したが、その後家康に渡る。
森忠政
- 元和2年(1616年)に大坂の役で戦功のあった森美作守忠政に下賜されたと伝わる。
森忠政美作守、元和二年、東照宮より、愛染國俊の御脇差をたまはり、そののち青木肩衝の茶壺、また銀つくりの鉄砲二挺をたまふ
(寛政重脩諸家譜)
池田忠継が5歳で備前岡山城主となり、後見を頼まれた際に拝領したものとも伝わる。池田忠継の母は家康の次女督姫で家康の外孫。忠継は森忠政の娘と婚約していた。慶長19年(1614年)に父輝政が死ぬと家督を継ぎ大阪冬の陣にも参加するが、帰城後発病し翌年17歳で死去。
- いっぽうで作州拝領後ともいう。
一、作州御拝領後一ニ大坂陣以後云々備中一国可被下との御内証有之(略)東照宮より愛染国俊の小脇差九寸五分細直焼、鎺の上に愛染明王切付有之、并碾茶壺号青木肩衝二品御拝領也
- しかし、「本阿弥光温押形」や「本阿弥光柴押形」では「森右近殿有之」と書かれており、さらに「本阿弥光瑳名物刀記」では「美作侍従殿」と変る。これは元和2年以前(恐らく天正15年以前)に森家に伝わったことを示しているように思われる。
- 【天正12年(1584年)】:兄の森長可が討ち死にしたことにより美濃金山7万石を継いだ。
- 【天正13年(1585年)10月】:森忠政、従五位下・右近丞に叙任
十三年十月六日従五位下に叙し、右近太夫と稱す。
※”森右近殿有之”記載の「光温押形」「光柴押形」この叙任時期以後、次の叙任時期以前か同年(天正十三年)十月六日口宣宣旨左之通
上卿 柳原大納言
天正十三年十月六日 宣旨
從五位下豊臣一重(森忠政)
宣任右近丞
藏人左少辯藤原宣光奉
上卿 柳原大納言
天正十三年十月六日 宣旨
豊臣一重(森忠政)
宣敍從五位下
藏人左少辯藤原宣光奉
同日、多数の武将が叙任されている。「秀吉・羽柴秀長・同秀次・徳川秀康・宇喜多秀家・丹羽長重・長岡忠興等参内す、又、長岡玄旨幽斎を法印に叙し、片桐直盛直勝且元を東市正に、稲葉典通を侍従に、森一重忠政を右近丞に、澤井雄重を修理亮に任ず、」 - 【天正15年(1587年)2月】:森忠政、従四位下・侍従に任じられる。羽柴姓を授けられ羽柴金山侍従と称する。
十五年二月六日従四位下に昇り、侍従にすゝみ、羽柴の稱號あたへらる。
六日乙丑秀吉参朝、白鳥及ヒ太刀馬代ヲ献ス。秀次モ亦刀馬資ヲ献シ。参議ニ任スルヲ謝ス。是日森忠政ヲ以テ侍従ニ任シ、従四位下ニ叙ス。秀吉之羽柴氏ヲ授ク。
- 【天正16年(1588年)】4月:後陽成天皇が秀吉の聚楽第に行幸している。「聚楽行幸記」では”金山侍従豊臣忠政”と表記される。
- 【慶長3年(1598年)】8月:秀吉薨去時には「金山侍従」と記される。贈られたのは「行秀」
- 【慶長5年(1600年)2月】:信州川中島転封
- 【慶長8年(1603年)】2月:美作一国支配(津山藩)
※”美作侍従殿”記載の「光瑳刀記」この時期以降八年二月六日信濃國の領知をあらためられ、美作一國をたまはり、十八萬六千五百石餘を領し、あらたに津山城を築て住す。のち美作守にあらたむ。
小牧長久手の戦いの後、家康が上方に上ったのが天正14年(1586年)10月末、この時はすぐに三河に帰国し、再び上洛するのは翌年8月である。「元和2年」が誤りとしても、この時期までに秀吉から家康を介して森家に伝来するというのは考えにくい。恐らく天正年間に秀吉から直接森忠政に伝わったのではないか。
将軍家
- 寛永11年(1634年)7月7日の美作守森忠政の死後、遺物として将軍家光に献上される
忠政君遺物、愛染国俊の小脇差、青木肩衝茶入、北澗墨跡、右三品将軍家へ献上也
前田光高
- 家光はのち、前田光高に嫁いでいた大姫(水戸頼房娘、家光養女)が、出産した長男綱紀を伴い正保元年(1645年)2月に登城した際に、この「愛染国俊」を贈っている。
(正保元年二月)十二日大姫の御方。犬千代丸(後の前田綱紀)をともなひてまうのぼり給ふ。犬千代丸誕生の後はじめてまうのぼりければ。愛染國俊の御刀をたまはり。若君より包家の御刀給はる。犬千代丸より太刀。銀三百枚。小袖三十。三種三荷。若君へは太刀。銀二百枚。小袖十。三種二荷献ず。父の松平筑前守光高は御座所にて拝謁し御盃下され。太刀。銀二百枚。錦百把献ず。
前田綱紀
- 承応3年(1654年)正月12日、綱紀は11歳で正四位下・左近衛権少将・加賀守に叙任される。その際に祖父利常より太郎作正宗と本刀を贈られる。※父の光高は正保2年(1645年)に急死したため利常が後見した。
神田の御屋敷へ入らせられ、(略)其の時分太郎作正宗の御腰物、愛染国俊の御脇指を、岡田将監披露にて御頂戴被成
- 以後前田家に伝来する
御拝領名物 愛染国俊 銘有 九寸五分 百枚代付
- 昭和40年頃には大野達氏蔵
愛染明王(あいぜんみょうおう)
- 愛染明王は、密教特有の憤怒相を主とする尊格である明王の一つ。
- 梵語(サンスクリット語)で「ラーガ・ラージャ」とされ、愛欲や欲望・執着という煩悩を悟りに変え、菩提心へと導く存在である。
本来、愛欲などの煩悩は悟りへと至る修行を妨げるものであり忌避される。しかし密教を始めとする大乗仏教においては、宇宙のあらゆる存在現象は大日如来から生じており、また大日如来に帰一すると考えられた。ここから、衆生は何らかの欲求をもって生きているものであり、煩悩を完全に滅することは不可能という考えが生まれる。さらに、煩悩があるからこそ悟りを求めようとし菩提心も生まれると考えられるようになった。つまり煩悩は悟りと同じであると考え、これを「煩悩即菩提」(ぼんのう そく ぼだい)という。
- 愛染明王は平安時代に日本へと伝えられ、鎌倉時代になると煩悩即菩提を実現してくれる明王として信仰を集めるようになる。愛染を「藍に染める」と読み、染色業で信仰されてきた歴史があり、また愛を否定しないことから縁結びや家庭円満を司る仏尊とされ、遊女にも信仰されてきた。
- 上杉家に仕えた名家老直江兼続が、この愛染明王を信仰し、自らの兜の前立てに「愛」の字をあしらったことが夙に知られる。
- 愛染明王の尊容は、憤怒相の特徴である真紅の肌色をしており、顔は1つ・目は3つ・手は6本の一面三目六臂像が一般的である。頭上に獅子冠を頂いているのが特徴で、獅子の頭からは天帯と呼ばれる長い紐を左右の耳の後ろに垂らしている。宝瓶の上に咲いた蓮華座の上に結跏趺坐で座る(立像は造られない)。
- 持物は一定していないが、一般には、左の第一手に金鈴を持ち、第二手は弓を持ち、第三手は拳を握っている。さらに右の第一手は五鈷杵、第二手は矢、第三手に蓮華を持っている。なお中央の手に持っている弓矢を天に向け番えている姿の天弓愛染と呼ばれる明王像も多く作られる。
大名物「青木肩衝」
- 本刀「愛染国俊」と同時に拝領し再度献上されている「青木肩衝」は茶器の名物で、元は青木民部法印浄憲が所持していたもの。後に明智光秀が所有し、その後徳川家康の手に入り美作守忠政が愛染国俊と同時に拝領する。
- 将軍家に戻った後に後藤庄三郎が拝領し、最終的には播磨姫路酒井家(酒井雅楽頭家の宗家)へと下賜された。
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