師匠坊肩衝
師匠坊肩衝(ししょうぼうかたつき)
唐物肩衝茶入
銘 師匠坊
大名物
出光美術館所蔵
- 「師匠坊肩衝」、「四聖坊肩衝」
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由来
- 東大寺の四聖坊所蔵にちなむことから、正しくは「四聖坊肩衝」だが現在では「師匠坊肩衝の名で知られる。
奈良東大寺内四聖坊の什物なりしを以て此名あり。四聖坊は元正倉院境内に在り東大寺建立の聖武天皇、良辨僧正、行基菩薩、菩提僊那の四聖像を安置せし寺院なれば、四聖と云ふが正しけれども、古來師匠若くは師聖と書きて通用せり。
来歴
東大寺四聖坊
- かつては四聖坊の所蔵であった。
志しやう坊 奈良東大寺師聖坊にあり
永禄四年庚申年十月、四聖坊栄助茶湯初に
円順 壽𤪙 宗林 紹佐 松與七 久政
一、床 牧渓 瓜の繪
一、肩衝袋白地金襴
一、夕陽 天目
- 様々な茶会記に載り、天正の頃までは四聖坊にあったと思われる。
- 永禄3年(1560年):松屋
- 永禄4年(1561年):松屋
- 天正4年(1576年):宗及
- 天正13年(1585年):宗久
- 天正15年(1587年):宗湛
豊臣秀長→小早川秀秋
- 天正18年(1590年)には豊臣秀長の所有。聚楽第での茶会記録が残る。
- 慶長4年(1599年)には小早川秀秋の所有となっており、茶会での使用歴がある。
慶長四年後三月九日晝 伏見にて
筑前中納言様御會 宗湛 一人
四畳敷ゐろり床に肩衝(四聖坊)袋に入れ四方盆にすゑて云々
肩衝は四聖坊より参候也、藥は浅くしてはげ高に懸る肩と口付との間に筋一つあり、帯はなし、口付の筋もなし肩張るなり、土赤めなり、底絲切なり
家康
- 家康の所有となる。
山内一豊
- 慶長8年(1603年)に山内一豊へこの肩衝を与えている。
慶長八年三月廿五日、從四位下に叙し、土佐守にあらたむ、この年師聖坊の茶入をたまふ
- 慶長10年(1605年)、山内忠義が跡を継いだ際に、遺物として献上。
慶長十年十一月十三日遺領を繼、父が遺物師聖坊の茶入を獻ず
藤堂高虎
- 元和2年(1616年)、家康の遺命により藤堂高虎に下賜。
元和ニ年二月、東照宮不豫、高虎駿河に参り、晝夜病床に侍す、此時の仰に、若し國家に大事あらんには、一の先手には高虎ニの先手には井伊直孝と定め云々。今は名殘と思しめさるゝなりとて、御盃を賜ふ、此時高虎が手を取らせられ、こまごまと仰あり薨御の後、豫め御遺命ありしにより、師聖坊の茶入をたまふ
- 元和9年(1623年)、高虎は「遅桜肩衝」などと共に披露している。
元和五年九月二十三日晝
藤堂和泉守様 關才次の所にて
客 中坊左近様 二人
床に
遲櫻肩衝 佐伯肩衝 四聖坊肩衝
上に
瀬戸肩衝
右四つ飾にて御茶被下候
家光
- 元和7年(1621年)10月、子の藤堂高次はこれを将軍家光に献上した。
元和七年十月、大猷院殿に父の遺物師聖坊肩衝、貞宗の脇差輝東洋の懸幅を獻ず
酒井忠勝
家綱
- 酒井家より幕府に献上したのか、家綱の代に度々使用されている。
- 寛文10年(1670年)
- 延宝2年(1674年)
- 延宝5年(1677年)
紀州徳川家
- 延宝7年(1679年)3月に、家綱はこれを紀州徳川家2代光貞に下賜。
延宝七未年三月二十八日
御黑書院西湖之間にて、紀伊中納言殿へ御料理被進之、酒井雅樂頭御老中御挨拶以後、於表御圍御花手前被爲遊、御前御圍にて師匠坊御茶入拝見之節、則御茶入御茶共に被進之、御頂戴被成候
- 元禄11年(1698年)4月、光貞隠居の際に献上。
加賀前田家
- 元禄15年(1702年)4月、綱吉が前田綱紀邸に臨んだ際に下賜。
元禄十五年四月二十六日、將軍綱吉、前田綱紀が邸に渡御ありて經書を講じさせたまひ、男吉徳及一族御前に候し、家臣等も之を拝聴す。此日國宗の御太刀、正宗の御刀、吉光の御脇差、及師匠坊の御茶入、(略)を恩賜せらる
けふの賜物、綱紀に備前國宗の御太刀・銀三千枚・時服百・繻珍百卷・天鵞絨五十卷、御盃のとき島津正宗の御刀・吉光の御さしぞへ、内々より師匠坊肩衝の茶入、又左衞門(前田吉徳)に備前長光の御太刀・令五十枚・時服五十、御盃のとき貞宗の御刀、(略)
献物は、綱紀より備前長光の太刀・鞍馬一疋・金三百疋・時服百・緞子五十卷 いろ繻子五十卷・猩々緋三十間・綿五百把、御さかづきのとき郷の刀(村雲江)、新藤五國光のさしぞへ、内々より茶壺[きつや 肩衝]・徐熈の畫幅・箱肴、又左衞門より助長の太刀・銀三百枚・羽二重百疋、御さかづきのとき左文字のかたな、
- 以後代々加賀藩前田家に伝来した。
- 大正8年(1919年)、高橋義雄が前田邸で実見している。
- 現存し、出光美術館所蔵。
- 唐物肩衝茶入 銘 師匠坊|収蔵品の紹介「出光コレクション」|出光美術館
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