水戸徳川家の江戸藩邸

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水戸徳川家の江戸藩邸  

  • 水戸藩は江戸定府。
Table of Contents

松原小路上屋敷  

麹町口内
元和2年(1616年)9月~明暦3年(1657年)

  • 慶長8年(1603年)8月10日、家康の11子鶴松(頼房)伏見城で生まれる。

    家康の第十一子鶴松、伏見城に生る、後、頼房と名け、側室太田氏をして之を養はしむ、

  • 慶長10年(1605年)鶴松(頼房)、常陸下妻十万石を拝領する。

    家康、第十一子鶴千代「頼房」に、常陸下妻の地十万石を与ふ、

  • 慶長14年(1609年)12月、鶴松(頼房)水戸25万石を拝領する。

    家康、常陸水戸城主徳川頼将「頼宣、」を駿河遠江五十万石に封じ、安藤直次を以て傅と為し、又、同国下妻城主徳川鶴松「頼房、」に水戸城二十五万石を授く、

  • 慶長16年(1611年)3月20日鶴松(頼房)は従四位下・右近衛権少将に叙任される。

    家康の子義利「義直、」頼将「頼宣、」を、並に右近衛権中将参議に、頼房「鶴松、」を従四位下右近衛権少将に、松平忠直を従四位上左近衛権少将に叙位す、

  • 元和2年(1616年)4月17日家康薨去。駿府御分物として下記拝領。
    記載名分与名物名物
    備考
    【中之御腰物】
    左文字水戸羽柴左衛門督(滝川雄利)
    物おちさたさね水戸
    次直水戸
    かうさいなかミつ水戸名物 香西長光大坂物本阿弥より
    桝屋かう水戸名物 桝屋江大坂物之内
    【中之御脇指】
    行光水戸越前中納言様
    正宗水戸加藤肥後
    光包水戸松平下総(忠明

「中之御腰物」および「中之御脇指」のみを記す。全体は「駿府御分物刀剣元帳」の項を参照のこと。

  • 元和2年(1616年)9月、徳川頼房に松原小路の邸地を賜う。

    水戸城主徳川右近衛少将「徳川頼房」に、邸地を松原小路に賜ふ、

  • 元和5年(1619年)10月頼房、はじめての帰国。12月江戸参府。

    常陸水戸城主徳川頼房、始めて国に帰る、

    常陸水戸城主徳川頼房、江戸に参勤す、

  • 元和6年(1620年)2月秀忠御成。

    秀忠、徳川頼房の第に臨む、

    春二月、公饗台徳公於松原小路邸。

  • 元和6年(1620年)9月8日頼房、正四位下・参議に叙任され、左近衛権中将を兼ねる。

    勅使傳奏廣橋兼勝、三条西實條、徳川頼房の第に臨み、正四位下参議兼左近衛権中将の位記宣旨を授く

    従四位下右近衛権少将徳川頼房を正四位下に叙し、参議に任じ、左近衛権中将を兼ねしむ、

  • 元和6年(1620年)閏12月。

    徳川義利「義直、」同頼信、「頼宣、」同頼房の江戸城内の第宅成る、

    尾張殿、紀伊殿、江戸御城中之御屋形御普請出来、御兩所當年より御参覲、尾張殿ハ左、中ハ水戸殿、其次紀伊殿御屋敷、各美麗之御成御門被立、

  • 元和7年(1621年)9月28日、頼房江戸参覲。

    常陸水戸城主徳川頼房、江戸に参覲す、是日、出羽久保田城主佐竹義宣、頼房を訪ふ、

  • 元和8年(1622年)3月28日頼房帰国。

    幕府、常陸水戸城主徳川頼房に帰国の暇を与ふ、明日、頼房、江戸を発す、

  • 元和8年(1622年)4月17日日光東照宮での家安七回忌に参列する。

    幕府、下野日光山東照社に於て、徳川家康の七回忌祭儀を修す、奉幣使参議西洞院時慶・宣命使同柳原業光及び公家衆・門跡等、之に臨む、秀忠並に尾張名古屋城主徳川義直・常陸水戸城主同頼房も亦、之に列す、

  • 元和9年(1623年)正月28日秀忠御成。2月27日家光御成。

    秀忠、常陸水戸城主徳川頼房の江戸の亭に臨む、

    秀忠の世子家光、常陸水戸城主徳川頼房の江戸の亭に臨む、

  • 寛永元年(1624年)2月6日に大御所秀忠御成。10日將軍家光御成。

    大御所けふ水戸宰相頼房卿の邸へ臨駕し給ふ。頼房卿に守家の御太刀。郷の御刀。上野国次の御脇差を給はり。英勝院尼に金廿枚。越前綿二百把ください。卿よりは二字国俊太刀行光の刀。堀尾正宗の脇差を奉らる。

    御相伴衆(秀忠)
    松平甲斐中納言忠長、丹羽長重、朽木卜斎
    贈答刀剣
    守家の御太刀、郷の御刀、上野國次の御脇差を給はり。卿よりは二字国俊太刀行光の刀、堀尾正宗の脇差を奉らる。
    御相伴衆(家光)
    松平甲斐中納言忠長、丹羽長重、朽木元綱入道牧斎
  • 寛永元年(1624年)4月19日~11月3日までの間、江戸城西の丸の修築を行い、その間家光はこの水戸藩邸に逗留していた。

    廿九日こたび 大御所西城に隠退し給ひ。 御所西城より本城御遷徒あるにより先西城修理加へらる。其間 御所は水戸宰相頼房卿の邸へ。かりにうつらせたまふにより。頼房卿は襲封せらる。

    (九月八日)このときいまだ水戸の邸に御やどりなり。

    (九月廿二日)西城搆造成功しければ。午刻 大御所御遷徒あり。御供の輩みな半袴を着す。

    (九月廿六日) 大御所西城移徙を賀して。一万石以上太刀馬代を献じ拝謁す。在封のともがらは使もて献ず。

    (十一月三日)巳刻 御所水戸の邸より。本城へ移らせ給ふ。御供の輩長袴を着す。

    (十一月五日)群臣本城へまうのぼり御移徙を賀し。三千石以上太刀折紙を献ず。

    (十二月四日)御移徙の御祝とて。 大御所本城にならせ給ふ。御相伴にはするが中納言忠長卿。水戸宰相頼房卿。並に東堂和泉守高虎をめさる。

  • 明暦の大火後、大名藩邸の移動があり、上屋敷は小石川邸へと移った。※小石川邸の明暦3年を参照。

小石川邸  

小石川
7万6689歩(のち9万9753坪)
寛永6年(1629年)閏2月1日~

  • 現在の小石川後楽園、東京ドーム、後楽園遊園地。
  • 寛永6年(1629年)閏2月1日

    水戸城主徳川頼房、宅地を小石川に賜ふ、其地七萬六千六百八十九歩。

  • 元は小石川本妙寺、諏訪山吉祥寺があった場所で、それぞれ丸山、駒込へと移した。
    曹洞宗寺院の諏訪山吉祥寺は、もと太田道灌が江戸城を築城した際に、和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌を請じて西の丸に建立したことに始まる。山号はこの地が諏訪神社の社地であったことによる。家康の関東乳びに伴い駿河台(本郷元町)へと移り、さらに明暦の大火で現在の本駒込へと移った。
     大火ののち、門前町の町人たちを武蔵野台地(現在の吉祥寺駅付近)へと移住させたが、かつての門前町に愛着を持っていた町人たちは、同地に”吉祥寺”の名を付けたという。
  • 寛永6年(1629年)年7月18日添地を賜う。
  • 同年9月28日、増築完成。藩主頼房が移徒。
  • この小石川の庭園は、作庭家である徳大寺左兵衛に命じて山水にふさわしい土地を選ばせ、それにより幕府に請うて小石川後を拝領したという。のち朱舜水に依頼して「後楽園」と名付けられ、天下の名園と称された。

    水戸城主徳川頼房小石川邸地を賜はる。徳川頼房のち館第を起し、林泉を築造す。子徳川光圀これを大成し、号して後楽園という。

  • 寛永7年(1630年)9月11日火災。

    水戸城主徳川頼房小石川新邸焼く。12月八丁堀辺火有り禰宜町・富澤町・長谷川町・吉原町類焼す。

  • 寛永8年(1631年)4月21日修築成る。
  • 寛永9年(1632年)正月、秀忠薨去時の形見分け。

    この日御遺物とて、尾邸へ会津正宗の御刀並一休面壁の掛幅、水邸へ切刃貞宗の御さしぞへ、俊成定家両筆の掛幅を賜ふ

    この「切刃貞宗」は、のち高松藩へと伝わった。

  • 寛永13年(1636年)9月、將軍家光御成。

    十三年九月饗大猷公于小石川邸

  • 万治元年(1658年)12月13日、水戸公及び世子、駒込から小石川邸に移る。
  • 明暦3年(1657年)明暦の大火により、1月23日大名公邸を郊外に移す計画が出される。

    和歌山城主徳川頼宣・水戸城主徳川頼房・名古屋城主徳川光友、営に登る。老中旨を伝へて其甲第を場外に転せしむ。大災復旧計画に基く也 

    一、水戸中納言殿、上屋敷爲代地ヱサシ町ニて被遣旨、松平因幡守被仰渡。

  • これ以後、小石川邸が上屋敷となった。
  • 寛文12年(1672年)、駒込にあった史館を小石川邸へ移し、「彰考館」とした。

    城主徳川光圀、駒込別荘の史館を小石川邸に移し、自書扁額を掲げて彰考館と曰ふ 

  • 天和2年(1682年)2月1日宍戸藩成立。同月10日藩邸地拝領、16日移徒。

    水戸城主徳川光圀の弟、松平頼雄(頼房の七男。宍戸藩初代)、常陸国茨城郡宍戸一萬石を賜ひ、勝山邑主忠国返上する所の小石川邸を賜ふ 

    10日水戸殿御舎弟一學被爲召之、新知一万石被下之、并小石川酒井大和守忠國上ヶ屋敷被下之旨、老中列座、被仰渡之。

  • 元禄13年(1700年)9月25日、將軍綱吉御成。

    将軍綱吉、水戸城主徳川綱條(宰相)邸に臨み、叔父小川邑主松平頼隆(播磨守)・従弟森山邑主松平頼貞(大学頭)に、各封地二万石を賜ふ 

    今已上刻、水戸殿に被爲成候。
       被遣物之次第
    一、眞御太刀備前周宗代金拾枚  水戸宰相殿(徳川綱條)に
    御盃之時
    御腰物長光代千貫
    御盃之時
    御脇差吉光代金三百枚
    一、御脇刀光包代金百枚  水戸中納言殿(徳川光圀)へ
    金参拾枚
    一、眞御太刀青江正恒代百五十貫  水戸少将殿(徳川吉孚。綱條世子)へ
     
       献上物之次第
     眞御刀備前國長光代七拾五兩
     御盃之節、御刀長圓代金百枚
     御脇指相州正宗代百五拾枚
    右       水戸宰相殿ゟ
     眞御太刀備前國秀助代金五枚
     御刀来国俊代金五拾枚
    右       水戸中納言ゟ
     眞御太刀備前友成代金五枚
     御盃之節城州國行代金百枚
    右       水戸少将殿ゟ

贈答刀剣
朱銘藤四郎」を拝領。

「水戸少将殿」こと徳川吉孚は、水戸藩3代徳川綱條の世子であった人物。正室は將軍綱吉養女で鷹司輔信の娘の八重姫。将来を嘱望されたが、宝永6年(1709年)に父に先立って25歳で早世。綱條は、甥の讃岐高松藩主・松平頼豊の長男軽千代(宗堯)を養嗣子に迎えた。遺児である美代姫(長松院、のち泰受院)は4代宗堯の正室となり、駒込邸(中屋敷)から小石川邸(上屋敷)に入輿、5代藩主徳川宗翰を産んだ。
 しかしその2年後には4代藩主の宗堯も26歳で急死してしまう。この時、宗堯は毒殺されたとの風聞があり、附家老の中山信昌が「自分が再び来るまでは、鶴千代(後の宗翰)に何も食べさせてはならず、誰の手にも渡してはならない」といって美代姫に鶴千代を抱かせたという逸話が残る。

  • 元禄16年(1703年)11月29日焼失。

    水戸城主徳川綱條(中納言)、小石川邸火を失し、本郷・下谷・神田・伝馬町・小舟町辺を焼き、延て本所・深川に及ぶ 

  • 慶応4年(1868年)4月11日、江戸城明け渡しに伴い、将軍慶喜の正室一条美賀子が小石川藩邸に移徙。

    徳川慶喜夫人一条氏・小石川水戸藩邸に移る、

  • 明治4年(1871年)6月、収公。

    明治4年6月より翌明治4年7月に及び、小石川水戸藩邸をはじめ旧大名邸の兵部省其他官用地として上地替を命ぜられるもの少なからず、 

    舊藩邸官用地トシテ上地替
    四年六月小石川水戸藩邸ヲ兵部省ヘ交付ス。
     兵部省達
    小石川水戸藩邸其省ヘ相渡候條、東京府ヨリ受取可申事。
     但、水戸藩へ金三萬兩御下渡ニ相成ニ付、内壹萬兩其省定額ヨリ可差出事。
     東京府ヘ達
    小石川水戸藩邸兵部省御用相成候條、受取渡片於其府可取計事。
     但、水戸藩ヘ金三萬兩御下渡相成候間、大藏省申談渡片可取計事。
     兵部省上申辨官宛

駒込下屋敷  

駒込
5万4200歩
元和8年(1622年)8月4日~明治2年(1869年)

  • 神田下屋敷。
  • 駒込邸、駒込別荘。元禄6年(1693年)より中屋敷。
  • 元和8年(1622年)8月4日、水戸頼房に駒込別荘地を賜う。

    幕府、常陸水戸城主徳川頼房に、武蔵駒込の地を与へ、別亭を営ましむ、

    元和八年八月、神田御下屋敷御拝領、其歳ゟ御普請始る、

    八月四日、台徳公、別荘を駒籠に賜ふ、其地五萬四千二百歩

  • 明暦の大火後に史館が置かれていた。寛文12年(1672年)に小石川邸へ移し、彰考館と変わった。

    城主徳川光圀、駒込別荘の史館を小石川邸に移し、自書扁額を掲げて彰考館と曰ふ 

  • 保護していた朱舜水の屋敷が置かれていた。現在東大農学部には、「朱舜水先生終焉之地」の碑が残る。

    水戸義公に聘せられまして、江戸へ参りました朱舜水先生が、終焉の時まで、丁度十五年間居住して居られましたのは、本郷駒込に在りました水戸の中屋敷でございます。水戸の中屋敷で、本郷に在りましたのは、申すまでもなく今日の第一高等學校になつて居ります箇所が、即ち其遺蹟でございます。

    舜水先生の病に臥して居られたのも、駒込の屋敷でございます。さうして亡くなられたのも、矢張此屋敷であつたのです。先生の病に罹られたのは、貞享八年、即ち先生が八十一歳になられた時の事です。咳血を患へられたとか申すことで、翌年の天和元年には、衰弱を酷くなりまして、二年の四月十七日に歿せられたのです。

    朱舜水は明の儒学者。明朝滅亡後には鄭成功などを支援するが、南京攻略戦の敗退後の万治2年(1659年)冬に復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命を希望する。書で交流をしていた柳川藩の安東省菴に連絡を取り、長崎へ移住。さらに寛文5年(1665年)には水戸光圀が彰考館へ招聘し、同年7月に江戸へ移住した。寛文8年(1668年)に駒込に新しく造られた住居に入っている。寛文9年(1669年)には70歳の寿を祝うため、小石川本邸の後楽園で催されている。水戸学への思想的影響を与えた。天和2年(1682年)4月17日没。

  • 元禄6年(1693年)下屋敷から中屋敷に変更。
  • 宝永3年(1706年)、東側の一部を上地。
  • 天保6年(1835年)、北に隣接する安志藩下屋敷を相対替で取得。抱屋敷地も入手した。

明治後  

  • 明治2年(1869年)に収公。
  • 明治6年(1873年)に陸軍省用地。
  • 一帯は向ヶ丘弥生町と町名変更。
  • 東京第一高等学校。
  • 現在は東京大学本郷キャンパス弥生地区

矢島中屋敷  

浅草矢島
寛永元年(1624年)11月~元禄6年(1693年)7月23日

  • 浜屋敷、浜町屋敷とも。中屋敷として使われた。
  • 寛永元年(1624年)11月

    水戸城主徳川頼房に倉廩の地を谷島に与ふ、

    寛永元年(1624年)甲子十一月賜、別荘矢島以置倉庫

    往古江戸繪圖谷藏ニ「水戸様御藏やしき」ト有り。稲葉丹後守藏屋敷ニ隣ル。

  • 蔵の普請は翌年。

    十一月御藏屋敷御拝領。翌年寅ノ年ゟ御普請有。

  • 元禄6年(1693年)7月23日上地。

    水戸城主徳川綱條の浜屋鋪を収めて、替地を小梅村に給す

  • 元禄6年(1693年)8月5日に西葛西小梅の替地を拝領。

小梅下屋敷  

西葛西小梅(向島)
1万8500坪
元禄6年(1693年)7月23日~

  • 小梅邸。向島下屋敷。
  • 元禄6年(1693年)7月23日拝領。水戸藩では倉庫を置いた。

    水戸城主徳川綱條の浜屋鋪を収めて、替地を小梅村に給す

    水戸中将殿の濱屋敷御用地にあがり、本庄にて替地を進ぜらるゝ由、是は浅草川橋。水戸の濱屋敷へかゝるなるべし。水戸御替地小梅村三廻稲荷南にて三万坪渡る。

  • 嘉永7年(1854年)2月20日類焼。※安政元年火災

    南伝馬町出火、具足町・金六町・水谷町等焼く。6月11日淀橋火薬製造所爆発す、附近被害少なからず。7月7日本材木町河岸火を失し、延焼有り。11月5日浅草聖天町火有り、猿若町三劇場を始め、附近の寺院数宇を焼き、対岸本所小梅水戸邸に及ぶ。安政元年12月20日、深川雲光院焼く。28日多町火を失し、内神田大半および日本橋北部に延焼す。町数百余其害を被る。

  • 嘉永元年(1848年)3月11日、後の慶篤夫人(有栖川宮幟仁親王第一王女の幟子女王)観桜。

    水戸城主徳川慶篤夫人徳川氏隅田堤の花を観る。

    有栖川宮幟子女王(たかこじょおう)
    天保6年(1835年)誕生。異母兄に有栖川宮熾仁親王。異母弟に有栖川宮威仁親王。弘化3年(1846年)に將軍家慶養女となり、嘉永3年(1850年)に大奥入り、11月23日慶篤と婚約。嘉永4年(1851年)11月22日に納采し、嘉永5年(1852年)12月14日婚儀が行われ水戸藩邸に輿入れした。嘉永7年(1854年)閏7月5日に長女随姫(蜂須賀茂韶の正室蜂須賀随子)を産む。安政3年(1856年)11月7日に死去、享年22。たいへんな美人であったとされ、自殺であるとの風説が流れた。

  • 嘉永3年(1850年)11月23日徳川慶篤と有栖川宮幟子女王との婚姻。

    (11月23日)辛亥、将軍家慶、養女線姫を以て、水戸城主徳川慶篤に嫁す、

    (12月15日)辛卯、家慶、養女線姫を以て水戸城主徳川慶篤に嫁す、是日、婚を成す、

  • 元治元年(1864年)小梅鋳銭所。

    徳川慶篤於小梅下屋鋪、小銭吹立之儀之願相済、小屋取建候に付、表柵塀補理、通用門一ヶ所、詰候運送口一ヶ所、并源兵衞堀築留際へ物揚一ヶ所出来、同所左右へ傍示杭相建候積に有之、 

明治後  

  • 明治新政府により収公。のち水戸藩廃止により水戸家の本邸が置かれた。
  • 10代藩主であった徳川慶篤(15代将軍慶喜の同母兄)がここに住んでいた。また慶篤の同母弟の慶喜、異母弟で11代藩主の昭武らも度々ここを訪れており、小梅邸やサッポロビール園や墨堤での花見の様子などを撮影した。
    徳川慶篤(とくがわ よしあつ)
    水戸斉昭の長男として誕生。父が蟄居引退を命じられたため弘化元年(1844年)に家督相続。慶応4年(1868年)3月に水戸入りするが、当時すでに体調は思わしくなく4月5日に水戸城にて死去、享年37。異母弟で清水家当主となっていた昭武が11代藩主となった。なお昭武は当時慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣されており、同年11月3日の帰国後、翌年に家督を相続した。
  • 明治19年(1886年)12月13日、新小梅町本邸で徳川圀順誕生。父は侯爵徳川篤敬。母は伯爵松平頼聰の長女・聰子。
  • 明治30年(1897年)5月31日、徳川宗敬誕生。父母おなじ。
  • 水戸昭武邸

    舊水戸藩主徳川氏の下屋敷にて、維新後も此處に住居せられ、明治八年四月四日太政官正院の御歸途に御臨幸あらせられ、祖先の功を賞し給ひて御製を賜ふ。同十五年十一月二十一日隅田川にて海軍水兵競漕展覧のため行幸あらせられし際、御休息遊ばさる。同十六年六月三日行幸、海軍水兵端艇春季競漕、水雷火展覧の砌も御臨幸あらせらる。又同十七年四月二日篤敬の代にも皇后宮御同列にて海軍端艇競漕展覧に行幸遊ばさる。同二十九年十二月十八日の海軍短艇競漕會にも行幸あらせられ、何れも御小休あらせ給ふ。
     當時の建造物は大正大震災の時類焼し、その後この邸阯は東京市公園地となり、昭和五年三月侯爵徳川圀順はこの聖蹟を後世に傳へんと碑を建て、明治八年行幸の砌り賜はりし御製を謹刻せり。
     此場所は現今文部省の史蹟保存指定地となり、又全面の隅田川のほとりに「展覧海艇競漕玉座阯」の標識が東京府にて建てり。

  • 大正名器鑑」を著した箒庵高橋義雄は水戸藩士の生まれであり、明治25年(1892年)以後水戸徳川家の評議員となっている。

    水戸徳川家は維新後小石川の本邸を政府に返納し、自ら好んで向島の下屋敷に住居する事となつたのであるが、此の下屋敷は大川の水を邸内に引入れて鴨猟場と爲つてゐたので固より大名住宅の組織でなく、倉庫と云へば數棟の籾蔵ある位で、貴重の道具を保藏するに適せず先年取敢へず煉瓦造の倉庫一棟を建築したとは云へ諸道具の如き多くは相變らず籾蔵に納めて、蟲干さへも手廻り兼ぬる様な次第であつたから、今日の如く成金が大名氣分を催して、蒔繪物等に羽が生えて飛び行く時節に、不用に属する大名道具其他主侯に格別の嗜好がなくて、手入れの行届き兼ぬる茶器類を處分するが得策ならんと云ふのであつた。
    然るに當主圀順侯及び家令福原修氏等も皆な之を賛成したので、兪々藏品入札の準備を整へ、(大正7年(1918年))十月二十七日兩國美術倶楽部で開札に先ち向島徳川邸に於て世上の數寄者に展観せしめたが、精々宣傳に勉めたのと名家の肩書が幅を利かしたのとで、豫想以上の好結果を呈したのは、徳川家に取りて誠に祝着の至りであつた。殊に後年より振返つて見れば若し此時に道具處分を爲さゞるに於ては、大正十二年の大震火災に今度賣却した道具の大半は焼失すべき筈であつたのに、偶然にも震災に先つて道具を處分したのは一擧兩得以上の成功と云つても宜からう、而して其重立ちたる入札品は左の通りであつた。

      品目      價格      落札者
    圓悟墨跡 金十四萬二千圓  林、山中、高山中
    名物井戸茶碗老僧 金九萬千百圓 戸田
    大内香木(百七十匁) 金七萬千百圓 戸田、林
    曜變天目茶碗 金五萬三千八百圓 山中、高山中 ※藤田美術館蔵「水戸天目

  • 高橋箒庵の勧めもあり、茶器書画の類は多くが売却されたが、残っていた刀剣類については多くが関東大震災で罹災した。

    同家は宝蔵一棟助かりて書画茶器の類は幸に無事なりしが、他の一棟に於て刀剣の全部を焼燬(しょうき)したり、その総数約一百六十餘口、拵の小道具類全部約二千點と註せらる、刀剣被害の大なるは同家を以て最となす、

  • 現在は隅田公園となっている。

その他  

大塚吹上
寛文元年(1661年)、兄光圀から額田領を与えられ、常陸額田藩の初代藩主となった。それに先立ち万治2年(1659年)に大塚吹上に屋敷地を拝領している。庭園を「占春園」と称する。現在は筑波大学東京キャンパスとなっている。子の松平頼貞の時に守山藩となった。この守山藩松平家の10代当主を継いだのが松平頼平である。文京区 占春園(せんしゅんえん)

水戸城主徳川頼房の四子松平頼元邸地を大塚吹上に賜いてこれに移る。邸に園池有り、占春園と号す。

松原小路蔵屋敷
江戸初期に蔵屋敷としていた。のち正保ごろから元禄まで、濱町安藤対馬守屋敷。

水戸徳川家系図  

            鷹司輔信──八重姫
水戸頼房─┬松平頼重─┬水戸綱方    ├───美代姫
     │     ├水戸綱條──徳川吉孚    ├───水戸宗翰──┬水戸治保────┬水戸治紀────┬水戸斉脩
     │     ├松平頼剛          │         ├松平頼図    ├松平義和(高須)├水戸斉昭────┬水戸慶篤
     │     ├松平頼侯──松平頼豊─┬水戸宗堯──松平頼順  ├松平頼救(宍戸)└土屋彦直    └松平頼筠(宍戸)├池田慶徳
     │     │           │            ├松平保受──山野辺義質               ├徳川慶喜
     │     │           └松平頼治        ├松平保福                      ├松平直侯(越前・前橋)
     │     │                        └中山信敬                      ├池田茂政
     │     │                                                   ├喜連川縄氏
     │     │                                                   ├松平昭訓
     │     │                                                   ├土屋挙直
     │     │                                                   ├清水・水戸昭武
     │     │                                                   ├松平喜徳(会津・守山)
     │     │                                                   └松平頼之(守山)
     │     │【松平大膳家】
     │     └松平頼芳──松平頼煕─┬松平頼桓━━松平頼恭
     │                 ├蜂須賀宗鎮
     │                 └蜂須賀至央
     │      【高松松平家】
     ├水戸光圀──松平頼常──┬松平頼泰
     │            ├松平久松
     │            ┗松平頼豊(大膳)──松平頼治━━頼恭(守山)─┬松平頼真
     │                                    └松平頼起
     │【守山藩】
     ├松平頼元─┬松平頼貞──┬松平頼尚
     │     └本多忠国  ├松平頼寛──松平頼亮
     │            ├松平定賢(越後高田藩)
     │            ├松平頼恭(高松松平家)──┬松平頼真──松平頼儀───┬松平頼該
     │            └松平頼済(府中松平家)  ├松平頼起         ├松平頼胤
     │                          ├松平頼昌(大膳家)    ├松平頼顕
     │                          └松平頼裕         ├本多忠民
     │                                        ┗松平頼恕──頼聰
     ├松平頼隆【府中】
     ├松平頼利──宍戸頼道──宍戸頼慶──宍戸頼多━━頼救(水戸宗翰六男)──┬松平頼敬━━頼筠(水戸治紀四男)
     ├松平頼雄【宍戸】━━松平頼道                      └松平頼位──┬松平頼徳
     ├松平頼泰【長倉】                                   ├松平頼安
     ├松平頼以                                       └松平頼平(守山)
     ├松平房時
     └鈴木重義

【有栖川宮家】
有栖川宮織仁親王──┬有栖川宮韶仁親王─┬有栖川宮幟仁親王──┬有栖川宮熾仁親王
          ├尊超入道親王   └韶子女王      ├幟子女王(徳川慶篤室)
          ├喬子女王(浄観院。12代将軍家慶正室) └有栖川宮威仁親王 
          ├織子女王(広島藩浅野斉賢正室)       ├──徳川實枝子
          ├幸子女王(長州藩毛利斉房正室) 前田慶寧─慰子    ├────┬徳川慶子
          └登美宮吉子女王                    │    ├徳川慶光
 【水戸徳川家】     ├──────┬徳川慶篤〔10代〕        │    └喜久子(高松宮宣仁親王妃)
   徳川治紀───┬徳川斉昭〔9代〕 ├二郎麿              │
   〔7代〕   ├徳川斉脩〔8代〕 └徳川慶喜───────────徳川慶久
          ├松平頼恕(高松藩主)
          ├松平頼筠(宍戸藩主)
          └徳川従子
             ├──┬二条広子(幟仁親王妃)
           二条斉信 └二条斉敬

関連項目