安東省菴
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安東省菴(あんどうせいあん)
江戸時代初期の儒学者
柳河藩立花氏の家臣
諱は親善。のち守約、守正
省菴、恥斎と号す
生涯
- 立花道雪の重臣・安東家忠の曾孫にあたり、安東親清の次男として元和8年(1622年)に生まれた。
- 幼名四郎、助四郎。
安東家忠は立花四天王のひとりで道雪七家老の第四座。立花道雪の姉にあたる戸次親家の娘を娶る。その子連直のときに立花家は改易され、安東連直は一時加藤清正の家臣となっている。その子親清の時には柳川藩主となった立花家に戻り、五百石を給せられた。
- 省菴は次男であったが、聡明で好学心が高く器量があったため、寛永11年(1634年)に立花宗茂より分家の内意書を与えられる。
- 立花忠茂の時代には江戸に呼び寄せられて近侍する。
- 寛永14年(1637年)に島原の乱が起こり、柳河藩も江戸幕府より乱鎮圧を命じられると、省菴は14歳で病身(小瘡)ながら従軍している。
- 21歳まで江戸で滞在した後、省菴は柳川に戻り、28歳のとき京都に出て儒学者松永
尺五 に師事する。
松永尺五は松永久秀の曾孫。藤原惺窩の門人で、林羅山・那波活所・堀杏庵とともに窩門四天王の一人。
摂津高槻城主であった入江政重の子が7歳で東福寺の喝食となる。政重の母は松永久秀の伯祖母にあたる。のち還俗し松永久秀の養子(松永永種)となり連歌師として知られた。この永種の子が、俳人・国学者の松永貞徳であり、貞門俳諧の祖となった。貞徳の子が松永尺五となる。┌冷泉為勝 【下冷泉家】 ├冷泉為将 冷泉為孝─┬冷泉為豊──冷泉為純─┴藤原惺窩─冷泉為景 │ 宇野妙重 └妙忍 ├──松永貞徳──松永尺五 入江盛重 ├──┰松永永種 ├─入江政重 ┃ ┌松永妙精 ┃ └○─○┬松永久秀━┛ │ ├───松永久通 │広橋保子 │ └松永長頼(内藤宗勝) ├──┬内藤如安 内藤国貞娘└内藤ジュリア
- 安東省菴は承応2年(1653年)32歳の時に柳川に戻り、長崎へ病気の治療にでかけた際に明出身の医師頴川入徳(陳明徳)と出会い、入徳を通じて朱舜水との知己を得た。
- 省菴は立花宗茂、忠茂、鑑虎、鑑任の4代にわたって仕え、元禄14年(1701年)に79歳で没した。
- 明治44年(1911年)に従四位を追贈された。
朱舜水
- 安東省菴の名は、万治2年(1659年)に当時日本に亡命していた明の儒学者、
朱舜水 を経済的に援助し、師弟の交わりを結んだことで知られる。
- 安東は朱舜水が日本に留住できるよう長崎奉行に働きかけ、6年間もの間、少ない自分の俸禄(200石だが実質は80石)の半分を朱舜水のために贈ったという。※舜水が中国にいる孫に送った手紙による。
- 安東省菴は長崎に住んでいた朱舜水と手紙で頻繁に交流を続け、途中で文が紛失して届かない場合に備えて、杜子春の詩の一字を文に連番記号として記すことでやり取りを行ったという。
- 朱舜水はのち寛文5年(1665年)6月に水戸藩主である徳川光圀の招きに応じ、同年7月には江戸に移住する。途中柳川の省菴宅にも立ち寄っている。
- 光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。
- 舜水は後になっても長崎での省菴の友誼と恩を忘れず、ある時省菴に宛てて金子と反物等を送っているが、省菴は反物だけを受け取り金子については返送してしまう。省菴は頑として金子を受け取らなかったため、以後、舜水は反物だけを送るようになったという。
- 天和2年(1682年)4月17日、朱舜水は水戸藩の駒込屋敷において83歳で死去した。
関連項目
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