薬研藤四郎
薬研藤四郎(やげんとうしろう)
短刀
薬研通吉光
八寸三分
- 享保名物帳所載(ヤケ)
薬研藤四郎 長八寸三分 無代 信長公御物
畠山尾張守政長所持、居城河内国正覚寺へ細川政元、同義豊(畠山)責寄せ候時に明応九年四月九日(明応2年閏4月25日)政長生害の節、此短刀にて腹切むと三度まで突立けれども通らず、名作とて持傳へたれど無益の道具かな迚(とて)擲すてければ、傍らに有之ける薬研へ突立、表裏二重に貫き通す、主の別を思ふ故か、丹下備前守、信国鵜首造りの脇指にて我腹を二度まで突き、刄味よし是にて遊ばされ候へ迚出す、其にて腹切る夜るの事なり、元亀四年正月十日松永弾正親子尾州岐阜へ参向の刻、信長公へ上る京都本能寺にて焼る。
- 平造り、刃紋は直刃、鋩子は小丸。うぶ中心で目釘孔1個。吉光の二字銘。
由来
- 「藤四郎吉光の短刀は、切れ味は抜群だが主人の腹は切らない」という言い伝えがある。
- これは、明応2年(1493年)の明応の政変で河内正覚寺城を包囲された畠山政長が、我が子尚順を逃した後この薬研藤四郎で自害しようとした際に、何度やっても腹に刺さらず腹を立てた政長が投げつけたところ薬研に表裏を貫いて突き刺さったことからこの名がついたという。そこで家来の丹下備後守が自分の差料信国で自分の膝を二度刺した後、政長に差出し、それで腹を十文字に掻き切って果てたという。
薬研(やげん)とは、漢方薬などを作る際に薬種(草・根・木あるいは動・鉱物質)を細かくするのに使う道具。
明應二年四月九日ノ夜ニ入テ。政長今ハ心ヤスシトテ。葉室大納言光忠卿以下籠城ノ人々最後盃シテ。ナミ居テ腹ヲ切玉フ政長藤四郎ノ刀ニテ腹ヲ三度マデ引玉ヘドモ。曾而キレザリシカバ。ナゲヤリ玉ヘバソバナルヤケンニアタリ。ヤケンヲバウラヲモテ二重トヲシケル。扨コソヤケン藤四郎トモ申ケル。扨テハ重代ノ刀ニテ。上ヲ惜ミケルゾヤ。イカヾスベキト宣フ處ニ。
(畠山記)
伝来
足利将軍家
- 元は足利義満の佩刀。
足利重代の薬研徹し(やげんとおし)。これが薬研藤四郎と同物とされる。
- 明徳の乱(1391年)直後の成立と見られる「明徳記」では足利義満所持と伝える。
御所様(義満)其日の御装束は態と御小袖をばめされず、ふすべ革の御腹巻の中二通り黒皮にて威したるを召し同毛の五枚甲の緒をしめ、累代御重宝と聞へし篠作と云御佩刀に二銘と云御太刀二振そへてはかせ給ふ、薬研通しと云御腰の物をさゝせたもう云々
(明徳記)
「畠山記」では明応の政変時の畠山政長によるエピソードと号の由来を伝え、それが世に広く流布されているが、それより100年「前」の成立と見られている「明徳記」の明徳二年(1391年)12月の項に登場している。
いずれが正しいのかについてはよくわからないが、「詳註刀剣名物帳」では下記のように足利家伝来と断定している。この場合、足利将軍家ですでに「薬研通しと云」と薬研通しの名がついているため、号の由来は政長が投げた所突き刺さったためということではなくなってしまい、由来がわからなくなる。右の説明(政長が放り投げると薬研に刺さった云々)は「畠山記」に記す処に拠りたるものなり、この小刀もとは足利家の物なり、「明徳記」に(上述引用につき略)とあれば、足利家の物たるは明かなり
畠山家
- 「畠山記」の記述が正しいとすれば、政長の時には畠山家にあったが、その後は将軍家に戻ったことになる。
足利将軍家・松永弾正
織田信長
- 一般に信長への献上は元亀4年(1573年)とされる。※「日本刀大百科事典」ほか。
- 永禄12年(1569年)正月、松永弾正は岐阜城を訪れ、「不動国行」を献上している。本刀もおそらく同じタイミングで献上されたもの
と思われる 。
永禄11年(1568年)に信長が上洛し10月2日に摂津芥川に陣を進めた際、松永久秀(弾正)や堺の町人が戦勝祝いに駆けつけている。この際に松永久秀より献上されたものを「天下無双の吉光の脇指」とする書があり、これが薬研藤四郎の可能性も十分ある。「甫庵信長記」、「足利李世記」など。ただし「原本信長記」などではこの時の献上物を「九十九髪茄子」であるとする。
この芥川での会見で大和一国の切取次第を許された久秀は、織田軍の助けを得ながら大和の支配を強めた。その御礼として、同年末に不動国行をはじめとした名物を携えて年賀挨拶のために岐阜へ出立している。こうした流れから、芥川では茶器を、そして大和切取後に名物刀剣を献上したのではないかと考えられる。いずれにしろ、薬研藤四郎、不動国行ともに永禄11年(1568年)10月~永禄12年(1569年)正月の間の僅かな期間に献上されたと見ていいのではないかと思われる。
- 天正8年(1580年)、信長が津田宗及に披露した脇指(短刀14口)および腰物(刀8口)の中にこれが含まれている。
同二月廿二日 上様御前ニて 於京都
御脇指 十四腰 御腰物 八腰
薬研透吉光 ※本文注「薬研透シハ足利義満所持ノ名刀」 (薬研藤四郎)
(天王寺屋会記)
豊臣秀吉
- その後、本能寺の変の際に安土城より持ち出されていたが、坂本城に包囲された明智左馬助が、不動国行の太刀、二字国俊とともに天守から投げ下ろして堀秀政(名人久太郎)に託したという。
左馬助は光秀安土の城より取来る不動国行の太刀、二字国俊の刀、薬研藤四郎の脇指、ならしばの肩衝、乙御前の釜、餌ふごの水さし、虚堂の墨跡等を唐織の夜衣に包、女の尺の帯にて結付、殿守の武者走へ持出
(武辺咄聞書)この薬研藤四郎、本能寺にて焼たるのち太閤の手に入りしなるべし「難波戦記」に「秀頼卿最後の時、薬研藤四郎と云刀と骨喰と云刀焼失たりと云り」と記せり
(詳註刀剣名物帳)
- 後に豊臣秀吉に献上され、秀頼が秘蔵したという。
- 「太閤御物刀絵図」にも記載がある。石田本はこの薬研藤四郎で始まっており、埋忠本でも記載が確認できる。
やけん、はたしんなり、口伝在之 (薬研藤四郎、肌しんなり、口伝これあり)
御物 薬研藤四郎 八寸
徳川将軍家
- 元和元年(1615年)5月、大坂落城後に行方がわからなくなっていたが、河内の農民が拾い本阿弥又三郞が入手し、金百両にて家康に献上している。
廿九日秀頼祕藏せし藥研藤四郎吉光骨喰の名付たる太刀を。河州の農民拾ひ得しとて。本阿彌又三郎二條城へ進覽せしかば。又三郎に返し下されしに。又三郎これを伏見城に持参して獻ず。よて金百兩下さる。
(徳川実紀)
- ただしこの実紀が引いている書物を見ると、次のようになっている。
廿九日秀頼所持之骨喰刀吉光一尺九寸五分本阿弥又三郎尋出献 御前處則被下□本阿弥然所本阿弥将軍家差上ル則黄金十枚賜之云
(駿府記)同月二十八日 秀頼所持藥研藤四郎吉光の太刀、骨喰と號して長さ一尺九寸五分あり。河州の農民拾ひ得て、本阿彌又三郎に見せしむ。是に依て、本阿彌又即ち大神君に獻ず。御覧の後、又三郎に返し下さる。後日に秀忠公進上し、御受納あつて黄金五百兩、白銀二千枚を本阿彌に給ふ
(關難間記)
- かなりブレはあるが両者ともに共通しているのが刀長で、いずれも一尺九寸五分としている。「薬研藤四郎」であれば八寸三分近くのはずであり、さらに「骨喰藤四郎」は太閤御物刀絵図でも一尺九寸五分半としている。藤四郎吉光作ということで、骨喰と薬研を混同した可能性が高い。
- 一説に、家康より秀忠に相伝された「御譲の七宝」に本刀が含まれるという。これら「御譲の七宝」は、秀忠崩御の日の昼七つ時に家光に譲ったという。
捨子
ヤゲン藤四郎
義元左文字三好宗三所持故、宗三左文字トモ云
投頭巾
エンザ
圓悟
チスイホ子ハサミ御チイサ刀 ※武功雑記などではチスイホネハミ
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