源頼光
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源頼光(みなもとのよりみつ)
- 頼光は有職読みで"らいこう"とも呼ばれる。「頼光さん」
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生涯
- 父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。
- 生年は天暦2年(948年)とされるが不詳。幼名は文殊丸。
- 寛和2年(986年)頃、居貞親王(三条天皇)が皇太子となった際に春宮権大進に任じられており、狐を射る話が今昔物語に載る。
春宮大進源頼光朝臣射狐語第六
今昔、三條院ノ天皇ノ春宮ニテ御坐ケル時、東三條ニ御坐ケルニ、寝殿ノ南面ニ春宮行カセ給ヒケルニ、西ノ透渡殿ニ殿上人ニ三人計候ケリ、而ル間、辰巳ノ方ナル御堂ノ西ノ櫓ニ狐ノ出來テ臥セリケルニ、源頼光朝臣ノ、春宮大進ニ候ケルニ、此レハ多田ノ満仲入道ノ子ニテ、極タル兵也ケレハ、公モ其道ニ仕ハセ給ヒ、世ニモ被恐テ士有ケル、其レカ其ノ時ニ候ケルニ、春宮御弓トヒキメトヲ給ヒテ、彼ノ辰巳ノ櫓ニ有ル狐ヲ射ヨト仰セ給ケレハ、(略)箭ヲ放タレハ、箭ノ行モ暗リテ不見エヌ程ニ、卽チ狐ノ胸ニ射宛テツ、狐頭ヲ立テ轉テ逆様ニ池ニ落入ヌ、
(今昔物語集 巻25)
- 正暦元年(990年)、関白兼家の葬儀に際して藤原道長の振る舞いに感心して側近として従うようになったという。
- 正暦3年(992年)には備前守。長保3年(1001年)には美濃守を兼任し、その後、但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。
- 受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれてその側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え武勇に優れた弟の頼信と共に、後の清和源氏の興隆の礎を築く。
源頼光朝臣家今按、在一條、此家後世爲右大将通綱卿家事、見野府記、載左
(山城名勝志)
- 治安元年(1021年)7月19日没。没年齢は、68あるいは74とされる。
十九日、攝津守正四位下源頼光卒す、
活躍譚
武人として
- 死後、坂上田村麻呂・藤原利仁・藤原保昌とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されるようになる。
我朝則、
田村 ・利仁 ・頼光 ・保昌 等也、
(異制庭訓往来)一、昔ハ公家爲一統、武家無政務、(略)一條院ハ頼光攝津守・保昌丹後守朝家ヲ奉守護トイヘトモ、更に政務ヲ無綺、只勇愖輩以國務朝恩トス、
(源威集)
源氏伝承の太刀
- 「平家物語 剣巻」では、髭切・膝丸伝承のくだりにおいて、頼光の代にも不思議のことが起こったと記される。そこでは、四天王の話や、一条戻橋での話(鬼切安綱)などが載る。※髭切→鬼丸、膝丸→蜘蛛切
- また「太平記」の「直冬上洛附鬼丸鬼切事」においても、「鬼切」の由来を源頼光所持の太刀にもとめている。
頼光四天王
- 頼光四天王や藤原保昌など多数の強者を従えたといい、頼光四天王を率いての活躍譚が多数存在する。
- 建暦2年(1212年)~建保3年(1215年)成立の「古事談」には次のように載る。
頼光朝臣 遣四天王等打清監之時 (大宰少監清原致信)、清少納言同宿ニテアリケルカ、依似法師欲殺之間、爲尼之由云エントテ、忽出開云々、
- 寛仁元年(1018年)3月に大江山夷賊追討の勅命を賜り頼光四天王らとともに6人で摂津国大江山へ向かい夷賊(酒呑童子)討伐を行う。
- 成相寺(京都府宮津市)には、頼光が自らしたためたと伝わる追討祈願文書がある。
ただし、日付が「寛仁元年三月十一日」と実在しない年月日であり、偽文書とされている。※寛仁への改元は、長和6年(1016年)4月23日。
参考系図
【嵯峨源氏】 嵯峨天皇─┬大納言源定──右大弁源唱──源俊──源満仲室 └仁明天皇───文徳天皇┐ ┃ │ ┠─源頼光…(摂津源氏の祖) ┌────────────────┘ ┠─源頼平…(柏原氏・檜坂氏・匂当氏など) │ 【清和源氏】 ┃ └─清和天皇───貞純親王───経基王─────源満仲(多田満仲) (六孫王源経基) ┃ ┠─源頼親…(大和源氏の祖) ┠─源頼信…(河内源氏の祖) 【南家巨勢麻呂流】 ┃ 参議藤原菅根──藤原元方──藤原致忠─┬─娘 ├─藤原保昌 └─藤原保輔
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