天下五剣


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天下五剣(てんかごけん)  

Table of Contents

概要  

  • 「天下五剣」とは、次の五口の刀を指す。
号(名前)指定種類サイズ
鬼丸(おにまる)御物太刀國綱刃長78.2cm・反り3.2cm
三日月宗近(みかづきむねちか)国宝太刀三条刃長80cm・反り2.7cm
童子切(どうじぎり)国宝太刀安綱刃長79.9cm・反り2.7cm
大典太(おおてんた)国宝太刀光世作刃長65.75cm・反り2.7cm
数珠丸(じゅずまる)重文太刀恒次刃長81.1cm・反り3.0cm

並びは諸本により異動があり、この表での並びも特別の意味はない。ただし「諸家名剣集」では、鬼丸国綱を「右五振之内随一と申也」と記す。

由来  

  • 室町時代にはすでに天下五剣として選ばれていたが、選定者は不明である。恐らく由緒や伝来を加味したものが広く一般に膾炙したものであると考えられる。
    明和6年(1769年)成立の「名劔伝」に写されている本阿彌扣帳の内容を考慮すると、遅くとも江戸時代初期には選定されていたことがわかる。

    Wikipediaでは、天下三名槍と合わせて明治以降に呼ばれるようになったものとしているが、もしそうであれば「天下」を”てんが”と濁音読みするのは違和感が残る。

書物での天下五剣  

「名劔伝」  

  • この「名劒傳」は、寛文年間の「本阿弥家極メ置扣ヱ帳(いわゆる本阿彌家の名物扣帳)」から写したものであるという。

        名劒傳 寛文年中本阿弥家極メ置扣ヱ帳ノ寫シ也
    三日月 鎬作宗近太刀 貳尺四寸六分半 御物
    鬼丸 國綱太刀 二尺五寸八分 本阿弥
    数珠丸 恒次太刀 身延山
    大傳多 樋作三池太刀 二尺一寸七分 松平加賀守藏
    童子切 安綱太刀 二尺六寸六分 松平越後守藏
    観世 正宗刀 二尺一寸三分 代三百五十枚 御物
    會津 正宗刀 二尺一寸一分 尾州
    (後略)

    「名劔伝」は、1.後鳥羽院御番鍛冶から始まる諸国鍛冶銘鑑、2.名劒傳、3.絵師・狩野派の系図、4.彫金の後藤四郎兵衛家系図を何らかの書籍から写したものの集合であり、2の名劒傳がそのまま書名「名劔伝」となっている。

    同書名劒傳では、例えば「中務正宗」は「甲府中納言殿藏」となっているが、同家にあったのは家綱薨去後の延宝8年(1680年)から家宣が6代将軍となった宝永6年(1709年)までの間である。また「会津正宗」が「尾州」となっているが、これも寛永9年(1632年)に形見分けされてから元禄6年(1693年)に献上するまでの間であり、時期がかなり限定される。寛文年間(1661-1673年)成立のものに書き足された内容を元に写したのではないかと推測できるが、時代はさほど下らないと思われる。いずれも享保名物帳では「御物」表記である。
  • さらに東博所蔵本では、五口の刀名の右肩に、朱書きで「五振ノ内」と注記が入っており、ページ下にも「天下出群ノ名□五振ノ内ノモノ 諸家名劒集ニ同し」とこれも朱書きされている。東博所蔵本は、明和6年本を安政4年(1857年)に写したものだが、後述するように「諸家名剣集」の奥書を考えると、この朱書きはおそらく写した際(あるいはそれ以降)のものではないかと思われる。
  • ただし、わざわざ将軍御物正宗を含むすべての名物刀の前に五口を記載したということは、この五口が少なくとも寛文年間に刀剣の世界で特別の存在であったことを示していることは間違いない。
    なおこの「名劒傳」においては、藤四郎吉光が、正宗郷義弘、左文字、宗近、来国俊、包永、一文字、長船鍛冶、青江、志津らの後に記載されており(さらに吉光の後に残りの正宗などが続くかなり変則的な構成)、本阿弥での名物三作成立前のものを元にした可能性が高い。

    朱書きはその他に中務正宗桑名江篭手切江圧切庖丁正宗岡本正宗塩河来国光稲葉志津などの右肩に丸印を付けているが、共通項がなくその意味するところはよくわからない(あるいは朱書き者が実見したものか)。寄贈者の徳川宗敬の可能性もある。
  • なお同書の「名劒傳」の後には、「一条院四劒」、「後鳥羽院八劒」も記載されている。
    詳細を表示

    一条院四劒
     三条宗近 小狐丸又蝶丸トモ云
     河内有成
     備前宗安
     
    後鳥羽院八劒
     大和力王 元暦比
     青江貞次 同比
     青江恒次 同比
     同次家 同比
     豊後行平 同比
     備前宗吉 同比
     備前行國 同比
     粟田口國友

    前者は四劒といいながら何故か3人の刀工しか記載されていない。

「諸家名剣集」  

  • 文政11年(1828年)に中村覚太夫が享保名物帳を写した「諸家名剣集」(東博所蔵、御物 厚藤四郎」から始まる正本系の名物帳写本)には、五剣それぞれの説明書きに「天下出群之名剣」「五振之内也」などの記載があり、少なくともこの時期までには「天下」で抜きん出た「五振」の「名剣」であったことがわかる。
    ※ただしすべての名物刀に先んじて特記されていた「名劒傳」とは異なり、あくまで享保期での評価順(藤四郎吉光、五郎正宗郷義弘の三作を優先する)に劣後する評価軸となっている。天下五剣に三作は含まれないため、三作や貞宗の次の「宗近之部」にようやく三日月宗近が、さらに鬼丸以下については「諸国名作之部」に国別順で登場する。
    1. 三日月宗近25/62

      右五振ノ内也

    2. 鬼丸国綱33/62

      右五振之内随一と申也

    3. 童子切安綱33/62

      天下出群之名刀ニ而右五振之内也

    4. 数珠丸恒次38/62

      天下出群之名劒にて右五振ノ内也

    5. 大典太光世42/62

      是又天下出群之名剣五振之内也

※数字は東京国立博物館デジタルライブラリー / 諸家名剣集でのコマ数。なおこの「諸家名剣集」(東博所蔵)も徳川宗敬による寄贈である。詳細は「享保名物帳」の項を参照。

国宝重要文化財指定  

選定理由  

  • なぜこの五口が天下五剣(あるいはその元となった「天下出群之名剣五振」)と呼ばれるに至ったのかについて、具体的に記した書物は見つかっていない。選定者も選定時期も不明である。
  • また「天下五振」を言い換えたものと思しき「天下五剣(、、、、)」の名称は明治以降の刀剣書籍において散見され、語呂の良さや厨二病的なネーミングから近年刊行される日本刀に関する書籍では必ずといっていいほど取り扱われるが、この「天下五剣」の命名者についても不明なままである。
    わかりやすく整理すると次のようになる。
    1.寛文年間(1661-1673年)に5口のセットが特別な存在であったことは、「名劔伝」によりわかる。
    2.それらが「天下出群之名剣五振」であったことは「諸家名剣集」によりわかる。

    これによりこの5口が、遅くとも江戸時代までに天下でずば抜けた5口の名剣であったことがわかるが、それに対して現代広く親しまれる「天下五剣」の四文字で呼んだ人物については不明である。
  • 由来名刀と呼ばれるものは、単純に姿かたちや斬れ味だけではなく、その刀を所持した人物であったり、または刀に付随する伝承が重視される。天下五剣は室町期には成立していたとされ、いずれの刀もその当時までに喧伝されるにふさわしい伝承を持っていたことが選定理由として大きいといわれている。
    なお一部でそれほどの伝承がないのではとの指摘があるが、現在すでに失われている来歴・伝承が存在する(した)ことを考慮に入れる必要がある。特に足利時代の来歴・伝承についてはほぼ失われている(あるいは見つかっていない)。そうしたものが失われても、これら五剣が天下の名剣であることだけが伝わったのだと思われる。
  • その為、たとえば室町末期以降に急速に名前が売れ出し江戸期には「名物三作」とまで評価された藤四郎吉光、五郎正宗郷義弘は選定されていない。源氏や平氏の伝説の名剣が含まれないことや、相州伝が一口も選定されていない点も注意が必要だと思われる。
    このことと、五剣がすべて太刀である点も合わせて、”五剣”の選定時期が室町時代末より前と分かる。

    なお「数珠丸恒次」については、明治維新後、大正9年(1920年)10月に杉原祥造氏が華族の競売から発見するまで行方不明になっている。
  • 時代とともに必要とされる刀は変遷し、その需要の変化とともに価値も変わったが、戦国期以前に評価の固まっていた天下五剣の評価は下がることがなく、むしろ名刀に求められるものを姿、伝承、伝来ともに満たすという意味で名刀の中の名刀であり続けたといえる。

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