倶利伽羅郷
倶利伽羅郷(くりからごう)
短刀
在銘
九寸三分
- 郷義弘の作
- 差表に太い樋のなかに真の倶利伽羅が浮き彫りにされている。裏は不明。
- 平造り。生ぶなかご、目釘孔1個。
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由来
- 差表に倶利伽羅が浮き彫りにされていることから号された。
来歴
越前朝倉家
- 越前朝倉家所蔵。
- 天正元年(1573年)信長による侵攻を受け戦国大名朝倉氏は滅ぶ。
明智光秀
- のち明智光秀が入手し秘蔵する。朝倉家の御物奉行が腰に指して持ち出したものを光秀が聞き出し密かに入手したという。
越前の國破候時に、朝倉殿御物奉行はだにさして出候を、後に日向守ひそかに聞出し、是をもとめ被置候
- 本能寺の変の後、山崎の戦いで敗れた明智左馬助(秀満、光春)は坂本城へ入る。
明智左馬助の出自には諸説あり、三宅弥平次と称した人物が後に明智姓を与えられたとする説が有力。
- 坂本城が秀吉軍に包囲されると、明智左馬助は名宝が失われることを惜しみ、「不動国行」や二字国俊、「薬研藤四郎」、虚堂の墨跡を寝具に包んだ上で投げ下ろし、堀秀政(名人久太郎)配下の堀監物(堀直政、奥田直政)に託している。
- この時高名な「倶利伽羅郷」がなかったため堀監物がこれについて問いただしたところ、「郷の刀は日向守(光秀)存生中常々命もろともと秘蔵致したる道具なれば、吾等腰にさし死出の山にて日向守へ相渡し申すべし」といい、そのまま天守に火を掛けて自害したという。
一、城中には彌平次を見付、上下に至までいさみ悦び申事かぎりなし、それより役所くばりあらゝ仕候へと、人數丈夫には無之候、去ながらそこゝへはめ、申候其後ゆつけを取よせゆるゝと食して殿主へ鐵砲の藥をあげさせ殿主より寄手を見渡せば、はや城を半分程は取巻なり、寄手は堀久太郎殿なり、彌平次殿主よりおり塀廻をかけまはり、自身あそこ爰にて鐵砲を討城を持かためたる様に敵に見せかけ又殿主へ取て返し道具ども取出し、あら身國行(不動国行)の刀、吉光の脇指、きたふの墨跡(虚堂の墨跡)、是を夜の物に包み、目録を添、いかに寄手の人ゝへ申候、堀監物殿へ是を被渡よ、此道具は私ならぬ事天下の道具なれば、是にてめつし候事は彌平次傍若無人と可思召候間、相渡し申候とて、殿主より下へおとし申候事
一、稍有て堀監物返事には、如御目録少しも無相違請取申候、申度子細の候ぞや、日向殿内々御祕藏被成候しんの倶利伽羅の吉廣江(義弘郷)の御脇指はいかにと尋申候處に、彌平次返事には右の道具は上様より日向守拝領被仕候御道具なり、祕藏の吉廣江の脇ざしは、久太郎殿其外の大名衆如御存越前の國破候時に、朝倉殿御物奉行はだにさして出候を、後に日向守ひそかに聞出し、是をもとめ被置候、相渡可申候得ども、光秀命もろともと内々祕藏被仕候間、我等腰に指、日向守にしでの山にて相渡可申ためたり、其分可被成御心得候、堀監物と申は只今の丹後守殿(堀直寄)親の事にて候
(略)
一、彌平次しんの倶利伽羅のきり物の有之、吉廣江言葉をたがへす其時失にけり
一、時刻移りなば敵亂入候はゞ、外聞見ぐるしかるべきと覺悟相定め、日向守殿御前所其身の内儀、彌平次手に掛けひたゝと指殺し、其脇指取出し殿主の戸を開き寄手の人ゝ御覧候へ、彌平次自害の様子見習手本にせよとて腹十文字にかき切伏ざまに鐵砲の藥に火をかけければ煙となり一天の空へあがるとかや
一、後に焼たる跡の灰をさがし見せけるに、殘りの刀脇ざし其外道具の形はありけれども、吉廣江の脇指なかりけり、後にふる井戸より取出し候へども、はやくさり其形も不見分定めて吉廣江にてあるかと人々推量計と聞え申候、松永殿(松永弾正)頸とひらぐもの釜(平蜘蛛の釜)不見と、此脇指のおさめ様よく似たりと人々申あへると承候事
- 城が焼け落ちた後に城中を捜索したが、「倶利伽羅郷」の刀はとうとう見つからなかったという。
- 「川角太閤記」では、古井戸から見つかったが「はや腐り其形も不見分」ため、これが倶利伽羅郷ではないかと人々は推量するしかなかったという。
後にふる井戸より取出し候へども、はやくさり其形も不見分定めて吉廣江にてあるかと人々推量計と聞え申候
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