小狐丸
小狐丸(こぎつねまる)
能の「小鍛冶」に歌われる伝説の剣
- それによると、第66代一条帝がある夜、夢で三条宗近に剣を打たせよとのお告げを受けたという。直ちに橘道成を使者に立て、勅命を三条小鍛冶宗近に伝えた。
- 帝の守り刀という重大な仕事に対して、仕事に見合った相槌を振るう弟子がいないためいったんは断ろうとしたのだが、家向かいになる合槌稲荷神社(正一位合槌稲荷大明神)に一生一代の大仕事の大成を祈願し、満願に近い夜に、稲荷明神の狐が化身した男が現れ共鎚(合槌)を振り、打ち上げた刀という展開となっている。
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同名の刀
- 能にも謡われた伝説の名刀であるが、同名の刀が複数伝わっている。
- このうち現存する2刀(石上神宮「義憲作」、石切剣箭神社「小狐丸」)と、複数の公卿日記に記録される摂関家の「小狐」の実在は間違いない。
- 「小狐丸影」については、怪しい点があったが、明治10年に九条家に買い戻された経緯が確かに確認できる。由来はどうあれ、明治期にはこれが九条家の小狐丸となった。
- 保元物語における信西入道の「小狐丸」佩用伝説は、能「小鍛冶」の影響を受けたものという指摘がなされている。
- むろん能「小鍛治」(室町時代中期成立)よりも先に摂関家の相伝がある。すでに1200年頃には、藤原摂関家相伝の儀仗刀と一条帝勅命の守刀の伝承が混合していたものと思われる。
九条家伝来「小狐」
- 初見は藤原忠通のもので、その後の公家日記にも登場する。
- 「殿暦」 元永元年(1118年)10月26日条 【藤原忠通】
野剣、九条殿、世人云小狐、無文帯、笏等用之
- 「台記別記」「知信記」長承4年(1135年)2月8日条
御剣一腰納錦袋 小狐歟
- 「台記」保延二年(1136年)12月18日条 【藤原頼長】
白衣二 帯剣 正笏 剣は小狐也
- 「兵範記」仁平2年(1152年)正月19日条 【藤原師長】
白単帯野剱 小狐
- 「台記別記」「兵範記」仁平3年(1153年)11月26日条
不帯剱不執笏 但野剱小狐
衣冠出掛令帯小狐云々 - 「宇槐記抄」仁平3年閏12月28日条 【藤原兼長】
紅打出衣、帯野剣、小狐
- 「台記」久寿元年(1154年)11月25日条【藤原師長】
紅打出衣、帯野剣、小狐
- 「玉葉」文治4年(1188年)正月27日条【九条兼実】
出紅打衣(但不入綿)帯海浦野劒、件劒自故殿所賜也、先例必用小狐、当時在前摂政(近衛基通)家、仍勿論又持笏
- 「猪隈関白記」建久8年(1197年)2月7日条【近衛家実】
紅単衣、紅下袴、着野剣、〈小狐、〉取笏
建久9年正月28日、正治元年7月4日、正治2年2月3日、建永元年11月5日 - 建久9年(1198年)1月28日
紅出打衣也、帯野剣〈小狐、〉持笏
- 正治元年(1199年)7月4日
帯野剣【件剣小狐也】持笏
- 正治2年(1200年)2月3日
着野剣、件剣小狐也、持笏
- 建永元年(1206年)11月5日
着野剣、革緒也、件剣小狐也、無文帯、持笏
- 「岡屋関白記」嘉禄元年(1225年)正月27日条【近衛基通】
委細見御記、帯剣、其名号小狐、慶笏也
- 「民経記」寛喜3年(1231年)5月20日条
伝聞、今日右大臣殿御直衣始云々、依先例無御参内、唯御参鷹司院云々、御直衣、〈御笏、御剣、【小狐、】〉
- 「後照念院装束抄」卷第百十五 装束部四【鷹司冬平】(紛失)
螺鈿野帯野劒事。
行幸時四位将用之。五位入尻鞘。遠所行幸時。大将并公卿将或用之。蒔絵野劒。執聟之時被用。是又紛失。仰小狐事。 - 「後愚昧記」応安三年(1370年)8月15日条 【九条経教】
應安三年八月十五日、今日未終刻雷雨、後聞、雷落九条前関白(九条経教)亭二階件日為賞良辰、於二階有連哥会之最中霹靂云々、青侍為雷公被震死了、八条中将李興朝臣同接此席、雖不入死門病悩云々、雷公落人家事、希有事也、可恐々々、後聞前関白白抜太刀<名小狐、名誉物也>、打佛雷公云々依之無別事由風聞、此説大略為実事欤
- 醍醐天皇のころ、菅原道真の祟りで京に稲妻が落ちた際、宮中に一匹の白狐が現れて授けた刀という。
- また南北朝のころ、九条経教が外出中に稲妻が落ちてきたときに、腰に差していた小狐丸を抜き払うことで稲妻の軌道を変え、経教は助かったという。(後愚昧記)
天正期
- 天正のころも九条家に相伝。
- 当時二条昭実と近衛信輔の間で、関白の地位を巡る争い(関白相論)が起こっており、結果的に漁夫の利を得る形で秀吉は近衛家の猶子となり関白に就任する。この時に反対の声を上げたのが九条稙通で、そこで九条家と近衛家との間で藤氏嫡流の争論が起こってしまう。ここで九条家は次の三宝が九条家に伝わっていることから正当性を論じた。
天子にハ三種の神器有、臣家にハ三宝あり、三宝と申ハ、一には大織冠の御影、二は恵亮和尚のあそハされし紺紙金泥の法華経、三には小狐の太刀なり、此小狐の太刀と申ハ、菅丞相百千の雷となり朝廷をうらみ奉り、本院の時平公を殺し、畫夜雨風やます、(略)この三宝当家に今に所持するところなり(稙通公記別記)
- この「小狐の太刀」というのが摂関家に伝わっていた小狐丸であり、それが伝来していることで正当性を証明するという主張である。
- 藤原北家御堂流~九条家が相伝していたが、鎌倉頃に行方不明となる。
明治期に買い戻した話
- すでに鎌倉頃には「小狐丸」は九条家から失われて、同家では代わりに打たせたものを使っていたという。
- 明治維新の後、松平春嶽(16代越前福井藩主)の手を介し、元の「小狐丸」を
安波賀 春日神社の神主吉田氏から買い戻したという。この間の詳しい話は松平春嶽の「眞雪草紙 」の小狐丸刀の項に書かれている。- 詳細は「小狐丸影」の項を参照のこと。
春日明神社「小狐丸影」
- 享保4年(1719年)将軍吉宗は小狐丸の調査を命じ、その結果、越前福井藩の春日明神社に「小狐丸影」なる刀が見つかる。
- 吉宗はこれを取寄せた上で実見するが、戻させている。
- 明治になってこれを九条家当主が耳にすると買い戻したいという話になり、松平春嶽が仲介して「小狐丸影」は九条家の所蔵となった。
- 詳細は「小狐丸影」の項を参照のこと。
少納言信西入道「子狐」
- 平安時代末の保元の乱を描いた「保元物語」に登場する。
※保元物語は1220年ごろの成立とみられる(諸説あり)。また作者についても諸説ある。
- 藤原信西は、乱の密議をした際に「家ニ伝タル子狐ト云ムク鞘ノ太刀ヲ帯」びていたとされる。
少納言入道(藤原信西)ハ、薄墨染ノ直垂ニ小狐ト云太刀ハキタリ(半井本)
内裡高松殿には、主上南殿に出御なりて、公卿僉議あり。少納言入道信西末座に候うぬ。袖すこしき浄衣に、家につたひたる、小狐といふ木工ざやの太刀を帯たりける。(金毘羅本)
主上三條殿に行幸南殿へ出御公卿僉議あつて藤原信西末座に候ず薄墨色の直垂に家に伝へたる子狐という太刀を帯び御前の簀子に候て源義朝を召す
"家"がどれを指すのかが不明だが、信西は藤原南家貞嗣流の生まれであり、この「子狐」が実家藤原南家、または養子に入った高階氏に伝わったものならば、摂関家の子狐とは別物ということになる。
- 「本朝鍛冶考」では、少納言入道信西(藤原通憲、藤原南家貞嗣流藤原実兼の子)が愛用していた名剣「小狐丸」が宗近の作とする。
宗近一條宇、永延三条小鍛冶と号す、少納言入道信西、蝉丸或は小狐丸とも、則ち此の作也
石上神宮所蔵「小狐丸」
太刀
銘 義憲作
号 小狐丸(こぎつねまる)
刃長二尺六寸一分(79.1cm)、反り八分三厘(2.5cm)
奈良県指定文化財
石上神宮所蔵(いそのかみじんぐう、奈良県天理市)
石切剣箭神社所蔵「小狐丸」
太刀
銘 宗近
小狐丸
石切剣箭神社所蔵(いしきりつるぎやじんじゃ、大阪府東大阪市)
江草子狐(えぐさこぎつね)
- 甲斐武田氏第13代武田信満(~応永24年。信玄より7代前)の長男武田信重は、「楯無の鎧」、三男の信康(江草兵庫介)が「小狐丸」を相伝したという。
- ただしこちらは長三尺もの大太刀であり、摂関家伝来の小狐丸とはまったくの別物ということになる。
- 詳細は「江草子狐」の項参照
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