大久保一翁


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大久保一翁  

幕臣、政治家。東京府知事、元老院議官
従二位、勲二等子爵
三四郎忠正、後に忠寛

  • 高名な「一翁」は隠居後に称した。

生涯  

旗本大久保家  

  • 文化14年(1817年)11月29日、旗本の大久保忠尚の子として生まれる。
    【大久保】  (旗本大久保氏)
    宇津忠茂─┬大久保忠俊…………忠尚──忠寛一翁
         │
         │           〔小田原藩〕
         ├大久保忠員─┬忠世──忠隣─┬忠常──忠職━━忠朝─┬忠増
         │      │       │           ├宇津教信
         │      │       │〔佐倉藩、膳所藩〕  └教寛〔荻野山中藩〕
         │      │       ├石川忠総
         │      │       ├幸信〔旗本寄合〕
         │      │       └教隆〔旗本〕──忠朝
         │      │〔沼津藩〕
         │      ├忠佐──忠兼(改易)
         │      │
         │      │〔烏山藩〕
         │      ├忠為─┬忠知
         │      │   └忠舊━忠直─┬忠寛
         │      │          └深徳院(9代家重母)
         │      ├彦左衛門忠教
         │      └忠元
         │
         │(菓子司主水家)
         └大久保主水忠行━忠元
    
    旗本大久保家の先は、三河の松平氏家臣で蟹江七本槍の一人の大久保忠俊。忠俊の庶子の大久保忠安が別家を起こし、旗本となった。
     大久保忠俊の弟が大久保忠員で、子に大久保忠世、大久保忠佐などがいる。大久保忠隣が老中になるも罷免されるが、のち許され嫡流の大久保加賀守家が小田原藩主となっている。
  • 文政10年(1827年)将軍徳川家斉に初めて拝謁を許される。
  • 第11代将軍・徳川家斉の小姓を勤め、天保13年(1842年)に家督を相続する。老中の阿部正弘に早くから見出されて安政元年(1854年)に目付・海防掛に任じられた。
  • 安政3年(1856年)には軍制改正用掛・外国貿易取調掛・蕃書調所頭取などを歴任し、駿府町奉行・京都町奉行なども務めた。
  • 安政3年(1857年)の阿部正弘没後に大老となった井伊直弼より、いわゆる安政の大獄で志士の逮捕を命じられるがこれに反対し、奉行職を罷免される。

要職歴任  

  • 直弼没後の文久元年(1861年)、幕府より復帰を許されて再び幕政に参与する。そして外国奉行・大目付・御側御用取次などの要職を歴任した。
  • 政事総裁職となった松平慶永らとも交友し、第14代将軍・徳川家茂にも仕え、幕府が進める長州征伐(幕長戦争)に反対し、政権を朝廷に返還することを提案している。第15代将軍となった徳川慶喜にも大政奉還と、諸大名、特に雄藩を中心とした議会政治や公武合体を推進した。
  • 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、若年寄・会計総裁に選出された。その後、新政府軍が江戸に向かって進撃してくると、勝海舟や山岡鉄舟らと共に江戸城の無血開城に尽力した。その後、徳川家達に従って駿河に移住し、駿府藩の藩政を担当した。

明治新政府  

  • 明治政府では東京府の第5代知事、並びに政府の議会政治樹立などに協力した。
  • 明治21年(1888年)7月31日に死去。享年72。

刀剣  

  • 生来の愛刀家で、遂には邸宅などを売り払ってまで刀剣を購入したという。

    生来の刀剣嗜好は兪々向上して、遂には麻布市兵衛町の邸宅(日下住友男爵邸)其他の地面迄賣拂って刀剣に代へられたと云ふ様に刀剣に取りまして忘るべかざる愛好家であります。御蔵刀には必ず拵を付けられまして、拵の形式は所謂旗本流の御拵で、半太刀風の物が多く一ツ帯取付で割れる様になり(略)

  • 虎徹の価値を認めた人物として名高い。相場よりも高値で買い取ったために一時虎徹が市場から消えたという。

    尚ほ大久保一翁先生に就きまして忘るべからざる事は、虎徹の刀を二束三文の中より百金の價格に位附けられた事であります。先生は申す迄もなく江戸兒で御旗本出身でありますので、殊に江戸鍛冶の大家たる虎徹には特殊の御嗜好がありましたものか、盛んに同作を百金、二百金を惜まず集められましたもので、虎徹の名作は悉く蒐集されましたかの感がありました。其の頃の百金は實に大金でありまして、一文字・長光等の名作もそれ以下で手に入ると言ふ時代でありました。何時の時代にも高く買ふ人があれば名品が出るのは、ちょうど大正八年頃の上景気時代、入札會に澤山の名器が出ましたのと同じ道理であります。大久保先生が熱心に御集めになりました結果、虎徹が拂底になりまして遂に百金の相場に位附けられるに至りましたのであります。

太刀
銘「来国俊 元応元年八月日」長二尺四寸八分半。生ぶ中心。のち赤星家。重要文化財
短刀
銘「備前国福岡左兵衛尉長則/正安二年八月日」重要美術品
銘「長舟助入造」
短刀
銘「山城国西陣住人埋忠明寿/慶長拾三年八月吉日 所持新蔵重代」不動、龍の彫物。のち古河家。重要文化財
短刀
銘「山城国西陣住人埋忠明寿/慶長拾二年三月吉日 所持埋忠彦五郎重代」不動、龍の彫物。のち古河家。上の「新蔵重代」と同型同寸。のち加藤正義から伊東巳代治重要美術品
脇指
銘「住東叡山忍岡辺長曾祢興里作」。長一尺七寸三分半。のち古河家に移るが、関東大震災で焼失
銘「住東叡山忍岡辺長曾祢虎入道/延宝五年二月日」ハネ虎。長二尺一寸五分。 ※山田浅右衛門押形「丑五月十四日大久保右近将監様より」。一翁は天正12年に右近衛将監に転任している。
銘「住東叡山忍岡辺長曾祢虎興里作 寛文拾弐年八月吉祥日」長二尺四寸八分半。益田鈍翁(益田孝)から杉山其日庵(杉山茂丸)。関東大震災で焼失
銘「長曾祢興里入道乕徹」長二尺一寸一分。なかご裏に「神妙々一翁愛品」と金象嵌。
太刀
正恒。古備前。長二尺四寸七分。二字銘。のち水町家で笹丸太刀拵えを付けた。
太刀
伯耆大原真守
三条宗近 長二尺五寸程。鎬造り小鋒。生ぶ中心二字銘
粟田口国安 二字銘
肥後大掾貞国 大平造り
古備前長船助久
筑後三池 無銘。田中伯爵。
備前畠田守家。光村家から根津家。
山城五条兼永 本阿弥光甫金粉銘
古備前成高。高島義恭。
美濃外藤
一文字吉包
三条吉則 在銘
野田繁慶 菖蒲正宗写し。光村家から根津家。
大和当麻 大磨上無銘古折紙
越中佐伯則重
肥前陸奥守忠吉
初代山城大掾国包 保昌系。黒田家伝来。朱鞘拵付。のち17円で売ったものを70円で転売されている。
短刀
加州真景 貞治年紀銘
短刀
福岡一文字長則
短刀
来国長
短刀
江州甘露俊長 平造り
  • 一翁の死後、これらの刀は千駄ヶ谷の徳川家へお預けとなった。その後明治36年(1903年)頃に依託を受け網屋が周旋し、ほとんどの遺品は和田維四郎が購入したが、これらはさらに古河家に移った。
    和田維四郎(つなしろう)は鉱物学者、貴族院議員。若狭小浜藩士和田耘甫の三男。本草学の域を出なかったわが国の鉱物学を近代鉱物学に改変させた功労者。岩崎久弥と久原房之助の財政支援により古書籍を蒐集、研究し、大著『訪書余録』などを著わす。和田維四郎が蒐集した古書籍の内、三菱財閥の岩崎久弥へ引き渡された5291部2万7077冊は、今日東洋文庫に収められている。また久原財閥の久原房之助へ引き渡された1万8千点以上の古書籍は、今日五島美術館の大東急記念文庫の中核をなしている。
     古河市兵衛は、久根鉱山に関する和田の報告書を見て鉱山の購入を決めたといい、それにより繋がりが生まれたものと思われる。その後、和田は官営八幡製鉄所の第2代長官に就任し建設計画および拡張計画を取りまとめ、操業開始までこぎつけている。
     この和田維四郎の曾孫(ひ孫)が、株式会社ニトロプラスの取締役、虚淵玄である。
  • 大久保家には「由起布(ゆきふ)かき山もか寿()みて本能ゝ(ほのほの)()あけ(ゆく)春乃()きまちのそ()」と自詠の歌と「一翁」二文字を金象嵌で入れた当麻の刀(重要文化財)と、九字銘の虎徹(銘「長曽祢興里入道乕徹/金象嵌 神妙々一翁愛品」)、則重の短刀、陸奥守忠吉の刀のみが残ったという。
無銘 伝 當麻。重要美術品。殊の外愛蔵という。中心に「由起布かき山もか寿みて本能ゝ登とあけ行春乃多きまちのそ良 一翁」と金象嵌。長二尺一寸四分五厘(大磨上)、反り六分五厘。鎬造り、庵棟、鎬幅広く、鎬高い。なかご大磨上。目釘孔2個。當麻正真、二尺一寸四分半、代千貫の本阿弥光忠折紙
短刀
有栖川宮家より拝領の則重
銘「長曽祢興里入道乕徹/金象嵌 神妙々一翁愛品」虎徹九字銘に、「神妙々一翁愛品(”神妙々一翁帯”とも)」と金象嵌を入れたもの。

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