益田孝
益田孝(ますだたかし)
明治から昭和期の実業家
茶人
男爵
号 鈍(鈍翁 )、観濤、雲外、宗利
- 三井物産の設立者、茶人。
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概要
- 佐渡奉行下役益田鷹之助孝義の子として、嘉永元年(1848年)10月17日新潟県佐渡市相川に生まれる。
- 幼名徳之進。
父:鷹之助
- 父の鷹之助は佐渡奉行下役であったが、安政元年(1854年)孝が8歳の時に幕府が函館奉行所を設けると箱館奉行支配調べ役に取り立てられ、安政2年(1855年)一家は函館に移住する。
この時徳之進は、箱館奉行支配調役下役格の名村五八郎より英語を教授されたメンバーに名前を連ねている。「函館市史」通説編1 3編5章13節1-2
- 安政6年(1859年)には父の鷹之助が江戸詰の外国奉行支配定役を拝命し、江戸へ移った。
幕臣として
- ここで徳之進(益田孝)は外国語修習見習生となっている。
- 14歳で支配通弁御用出役(通訳官)として任官し、微禄ながら幕臣に取り立てられる。麻布善福寺のアメリカ領事館勤務を命ぜられ、実地に英語を習いながら間近に初代公使のタウンゼント・ハリスに接する機会を得る。英語の師はヘボン式ローマ字のアメリカ人医師、ジェームス・カーティス・ヘボン博士の婦人クララ・メアリー・リートであった。
この夫妻が開いていたヘボン塾は、大村益次郎、原田一道らを始め、高橋是清、鈴木六三郎、林董、佐藤百太郎、沼間守一、服部綾雄、石本三十郎、益田孝、三宅秀らが学んだ。のちに明治学院やフェリス女学院の源流となっており、明治学院は開学をヘボン塾の開校の年(1863年)にしている。
- 文久3年(1863年)幕府はフランスに横浜鎖港談判使節団(第2回遣欧使節)を派遣することになり、父鷹之助もメンバーに加えられた。この時16歳の徳之進も同行するが、当時親子が共に渡航することが禁じられていたために、徳之進は「益田進」と名を変え、父鷹之助の家来の名目で通弁御用当分御雇としてメンバーに加わっている。
- 帰国後、徳之進は横浜の運上所勤務を願い出、また騎兵隊に入隊し、慶応4年(1868年)1月には慶喜より直々に騎兵指図頭並取勤方に命じられている。
(慶応4年正月)廿八日 御役替。
一 八ッ半時五寸廻り。御座間御上段 御着座。老中例席江着在。
(略)
騎兵頭並 小十人格 騎兵差圖役頭取勤方
益田徳之進
(続徳川実紀)
商人・大蔵省入り
- 同年4月に江戸城が開城されると、多くの幕臣は慶喜に従い静岡に移住するが、徳之進は武士をやめ商人になる決意をする。この頃、益田孝は「中屋徳兵衛」を名乗っている。
- 明治2年(1869年)に横浜に移住すると、通訳としてウォルシュ・ホール商会に務め、この頃に大蔵大輔であった井上馨の面識を得る。
ウォルシュホール商会はのち神戸で製紙工場(神戸製紙所)を建設するが、のち創業者のトーマス・ウォルシュが事業を岩崎久弥に譲渡したため現在の三菱製紙の前身企業となった。
- 明治5年(1872年)4月、益田は井上から大蔵省の四等出仕(造幣局権頭)を命じられて役人となり、大阪造幣寮に赴任している。この頃「孝」へと改名している。
- しかしまもなく司法省の江藤新平らと対立した井上が下野すると益田も辞職し、明治7年(1874年)井上が設立した先収会社の頭取(副社長)となる。
三井
- 井上は明治8年(1875年)に政界に返り咲くが、先収会社は大隈重信の依頼により事業継続することとなり、益田孝が社長となった。これが旧三井物産である。
しかしこの時、三井は資金を拠出せず、名前だけを貸した形であった。旧三井物産は三井家に対する益田の請負事業として始まり、当時の三井の中で「いわば継子的な存在として発足した」という。のち財閥解体の一環で解散するが、その後、現在の三井物産株式会社として復活する。
- また明治9年(1876年)には中外物価新報を創刊する。
これは後に1889年に中外商業新報と改称、主幹の野崎廣太(幻庵)が個人事業として中外商業新報社として株式会社に改組、戦後昭和21年(1946年)に日本経済新聞社となる。
- その後、官営三池鉱山(三池炭鉱)の買収に成功した益田は、三井のなかで発言力を増し、中上川彦次郎の死後は三井での実権を握り、経営方針を改めて行った。
- 明治25年(1892年)には渋沢栄一と共に東京市区改正臨時委員に任命されている。変貌 - 33.渋沢栄一・益田孝を市区改正臨時委員に任命:国立公文書館
- 明治26年(1893年)三井物産合名会社理事。
- 明治35年(1902年)には三井家同族会事務局管理部の専務理事に就任し、実質上の主催者となっている。
- 大正2年(1913年)、三井合名理事長に團琢磨を推薦し、同社相談役に退いている。
- 大正5年(1916年)の時事新報によれば、その財産は五百万円であるとする。
当時、徳川家達公爵が百五十万円、徳川義親侯爵(尾張家)で四百万円、島津忠重侯爵家で千五百万円、伊達宗基伯爵家で百五十万円、三井一族、岩崎久弥・小弥太氏がそれぞれ二億円以上となっている。岩崎久弥は岩崎弥太郎の長男、小弥太は弥太郎の弟である弥之助の長男。
- 大正7年(1918年)男爵に叙爵される。
鈍翁
- 引退後、益田孝は「鈍」と号し、茶器の蒐集に明け暮れた。
- 茶の湯を始めたのは明治14年(1881年)頃とされ、それは実弟の益田克徳の影響であったという。
- 中でも明治40年(1907年)に入手した表千家6代原叟宗左(覚々斎)手握ねの楽焼茶碗「
鈍太郎 」をこよなく愛し、自ら「鈍」と号した。周囲はこれに翁を付けて「鈍翁」と呼んだという。
「鈍太郎」は、享保6年(1721年)に表千家4代江岑宗左の50回忌に50個だけ作陶したうちの最上とされ、所望者が多かったために籤引きをしたところ名古屋の高田源郎(通称、鈍太郎)が入手する。その後、京都の栗田天竺、尾張の岡谷家、名古屋の横井敬甫と伝わり、益田孝が購入する。益田は嬉しさの余り、茶室太郎庵を新築し、「鈍太郎」を用いた茶会を開き、その時より「鈍」と号したという。
- 廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる中、茶道に仏教美術を取り入れることでそれを保護し、またそのサロンには多くの財界人が訪れ昭和初期の古美術界をリードした人物であった。
- 明治39年(1906年)に小田原の板橋に掃雲台を造営し、そこで数多くの茶席を建てている。このことが後に、近代茶人が小田原・箱根に集まる初めとなっている。益田鈍翁(益田孝)、野崎幻庵(野崎廣太)、松永耳庵(松永安左エ門)の3人をさして「近代小田原三茶人」と呼ぶ。
- 明治31年(1898年)9月に茶器蒐集の目利きとして付き合いのあった柏木貨一郎(探古)が事故死すると、弟の英作を介し明治33年(1900年)ごろに貨一郎の養子・柏木祐三郎から「源氏物語絵巻(「隆能源氏」蜂須賀家本)」と「地獄草紙」、「猿面硯」を引き受けている。このうち「地獄草紙」は英作所有となっている。
- 昭和13年(1938年)12月に風邪をひき28日に没、91歳。
鈍翁のコレクション
- 益田孝は膨大な数の美術品を収集したが、その死後、さらに昭和20年(1945年)の第二次大戦敗戦後、財産税導入、嗣子益田太郎の死去(1953年)などを経て次第に売り払われていった。
益田太郎が引き継いだ財産は、純資産額2012万円、財産税額は1672万円(税率83%)、うち美術品は800万円と申告されたという。鈍翁の死後に数十点、敗戦後には589点、財産税公布後に1129点もの美術品が売却された。
- これらは主に瀬津雅陶堂が売買を担い、年4回益田家の蔵から運び続けること15年間に及んだという。
瀬津雅陶堂は東京日本橋の古美術商。当時の当主は瀬津伊之助氏で、明治29年(1896年)大津市堅田の生まれ。内貴清兵衛、魯山人らの知己を得のち古美術商となる。昭和44年(1969年)没。益田家の古美術が売りに出されだした頃に幾つか入手し、のち益田義信氏と面会する機会を得てその後は瀬津が一手に引き受けることとなった。
佐竹本三十六歌仙絵巻
- 佐竹本三十六歌仙絵巻の売立に際しては、一人で買い取れる人物が出なかったために分割することを提案し、歌仙一人づつを入札とした。
- 自らは「斎宮女御」を入手しているが、実際には鈍翁自身は斎宮女御ではなく僧侶の絵を引いたのだという逸話が伝わっている。斎宮女御を狙っていた鈍翁はみるみる不機嫌になり、周りに当たり散らしてしまう。これを見た出席者が額を寄せて相談し、結局斎宮女御を引いていた土橋嘉兵衛と交換することで鈍翁が入手したという。
- 入札当日に用いられた「籤筒」は、土橋が当日の朝に鷹ヶ峰の青竹を切って持参したものであったが、益田はこの籤筒に「籤引き竹」と記した上で、次のような礼状を付けて土橋に贈っている。
小生には貴君の勇断に依り歌仙中の最大美人を嫁せられ、老人の喜びたとふるにものなし
- 土橋はこの籤筒を長く花入れとして用いたという。
なお土橋嘉兵衛はその後、佐竹本三十六歌仙絵のうち、平兼盛、素性、興風を手に入れている。
系譜
次弟:益田克徳(こくとく)
- 号 非黙、無為庵、止点庵
- 嘉永5年(1852年)1月5日生まれ。
- 幼名、荘作
- 道具目利きとして長じ、茶事、作陶、作庭などで知られる。
- 山県有朋邸(小田原)、渋沢栄一邸(飛鳥山)などの作庭を手がけた。
- 一時期、名村五八郎の養子となっており、「名村一郎」を名乗っている。
- 明治維新後、明治2年(1869年)高松藩に預けられ、慶應義塾に入り福澤諭吉に学ぶ。卒業後に高松藩の教育掛となる。
- 明治4年(1871年)に山田顕義と欧米を視察し、司法省に出仕して検事(司法省八等出仕)となる。明治5年(1872年)6月19日岩倉使節団の追加メンバーとして派遣され翌年に帰国する。
- 明治7年(1874年)に前島密と共に海上保険例を作成。
- 明治12年(1879年)東京海上保険会社勤務となり支配人となる。東京米穀取引所、王子製紙、明治生命、石川島造船所の取締役を歴任した。
- 明治36年(1903年)4月8日没。平瀬亀之助の売立の下見に向かう途中に脳溢血で倒れたという。
末弟:益田英作
- 号 白鷺、紅艶(こうえん)
- 元治2年(1865年)3月3日生まれ
- 益田三兄弟の末弟で、長兄の孝は17歳年長にあたる。
- 明治10年(1877年)13歳で渡仏し、英米仏滞在後に明治15年(1882年)に帰国して三井物産に入社。重役を務めた後に明治26年(1893年)に三井を退社、明治38年(1905年)に古美術商となる。
- 明治39年(1906年)日本橋仲通りに古美術商「多聞店」を開き、鈍翁の蒐集と茶事を助けた。
- 多聞店は、日露戦争を機に奈良興福寺が寺院修復の資金を得るために破損仏などを払い下げした際に三井系の財界人が引き受けたことに始まる。
当時の興福寺管長は大西良慶師で、都筑馨六(井上馨の女婿)と朝吹英二、益田英作らが仲介し、益田孝に77点を3万5千円で売却することとなる。しかし77点すべてを収蔵するわけにもいかず、益田はこのうち持国天ほか17点を選り抜き、韋駄天は朝吹氏、増長天は都筑氏、英作へは多聞天と乾漆梵天帝釈を贈っている。店名はこの多聞天にちなむ。
- 瀧泉寺(目黒不動)の隣に別邸を設け、滝からの水を邸内に引き込み、霊水庵と名付けたという。
- 新橋の料亭「浜の家」の女将・内田はなの養女となっていた林きむ子(日向きん子)を見初め、浜町にあった自宅へと引き取って育てたが、のちきむ子は自ら飛び出して「浜の家」へと逃げ帰ったという逸話が残る。
この林きむ子は、日本画家・鏑木清方に“日本一の美女”と讃えられたこともある。※一般的に大正三美人は九条武子(大谷光尊の二女)、柳原白蓮、江木欣々を指す。
林きむ子は、のち代議士の日向輝武と結婚して6人の子を成すが、大浦事件によって輝武が狂死。その後、詩人の林柳波と結婚したことがスキャンダルとして大きな話題になった。
林きむ子の母は女義太夫の初代竹本素行(本名:市川はな、後名:竹本瓢)で、きむ子の異父弟に曾我廼家弁天、藤間林太郎がいる。この藤間林太郎の次男が俳優の藤田まことである。
- 「佐竹本三十六歌仙切」の「坂上是則」を所有する。
- 大正10年(1921年)2月2日没。
長男:益田太郎
- 益田太郎冠者。母は富永えい
- 明治8年(1875年)9月25日生まれ。
- 太郎の上に男子(象)が生まれているが夭折していたため、長男として届けている。
- ケンブリッジ中学、ベルギーの大学に学ぶ。
- 台湾製糖、千代田火災、森永製菓などの重役を歴任する。
- のち文芸趣味が高じて劇作家となっている。
孫:益田義信
- この益田太郎の長男が洋画家の益田義信。妻は、板倉勝全子爵の娘貞。
- 益田義信は日本自動車連盟(JAF)の創立時の理事で、JAFのマークは益田義信がデザインしたもの。
JAF カラーとして親しまれた紺色をベースとしたそのマークは、創立当時にJAF の理事を務めていた、日本美術家連盟理事長の益田義信がデザインを手掛けたもの。文字の形はフランスの 「アモーレット」 という書体を組み合わせ、オリジナリティがありながら格調の高さを感じさせるマークを完成させた。
JAFマーク | 始まりといま | JAFのあゆみ
- この益田義信が、祖父益田鈍翁の蒐集について語った文章がある。
日支事変(支那事変)が始まった頃だった。板橋(小田原)の小山を利して造った庭の中には勿論崖があった。祖父はそこを利用して、美術品用の横穴を掘らせた。そして乾燥機まで設置した。
「何故あの穴を掘らせたのですか?」と、私はきいた。
「もし戦争が激しくなって、飛行機が日本の空を自由に飛ぶようになって、何かの間違いで爆弾をポツンと落としたら、蔵のものは全部無くなるからね」という答えだった。
これが米英を敵としての戦争の前だった。私はまさかそうはならぬだろうと思って、心の中で笑った。しかし考えてみると、全く、その通りになってしまった。実際小田原にも爆弾は落とされた。駅のそばの百軒位が焼かれてしまった。私も知人の家に防火にかけつけて、夜が明けたら、その日の昼頃終戦の詔勅をラジオできいた。東京方面を爆撃したB29が、爆弾が余ったので海に出る前に棄てたという話だった。祖父の遠謀は、美術品にも、実業界にも役立ったことと思う。
次男:益田信世
- 吉田信世、益田信世。母は吉田多喜(たき)
- 明治18年(1885年)8月5日生まれ。
- 益田孝が、吉田屋の老松(吉田多喜)を落籍して妾とし、生ませた子供。明治31年(1898年)に認知を受けて益田姓を名乗る。この時に母の吉田多喜も信世の戸籍に入り、益田多喜となる。
吉田多喜も茶道を能くし、紫明と号した。軽井沢の別荘に茶室・無塵庵を持っていた。鈍翁肝いりで品川御殿山紅葉谷の田舎家を移築したもので、庵号は高橋義雄の提案により王維の詩から名付け、さらに扁額も高橋によるものだという。
吉田多喜の姉もまた芸者で、吉田貞。吉田貞は山県有朋の後妻となっている。姉妹の父は日本橋に店を開いていた豪商吉田家佐兵衛で、日本橋の芸者歌吉に入れ込んで家産を溶かしてしまいついには心中(歌吉心中)したという。山縣と益田の間柄は非常に親密なもので、当時邸宅も隣り合わせに持っていた。
- 益田信世は、三井本店、三井造船などで勤務し、のち初代小田原市長となっている。「佐竹本三十六歌仙切」の「大中臣頼基」を所有するも大正13年(1924年)10月27日には売却している。
関連項目
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