蒲生氏郷

蒲生氏郷(がもううじさと)  

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将
従四位下侍従、正四位下左近衛少将、従三位参議
忠三郎
飛騨守、琉球守
松ヶ島侍従、松坂少将

生涯  

  • 六角氏の重臣、蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代。

織田家  

  • 父蒲生賢秀は六角氏が観音寺城を攻め落とされた後も抵抗するが、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、永禄11年(1568年)賢秀は降伏した。蒲生賢秀は、嫡男鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出し信長の家臣となり、柴田勝家の与力となる。

    永禄十一年戊辰氏郷十三歳、鶴千代ト申時、信長公得父蒲生兵衛大夫為證人、岐阜得被相越

  • 信長は賢秀・鶴千代父子を気に入り、永禄12年(1569年)の大河内城の戦い後、鶴千代に次女の冬姫を嫁がせて娘婿に迎えている。

    蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん。

    冬姫は氏郷との間に、蒲生秀行と娘籍姫(前田利政の正室)をもうけた。結果的に蒲生家は寛永11年(1634年)に無嗣断絶となり、冬姫は京都嵯峨で晩年を過ごした。寛永18年(1641年)81歳で死去。

  • 信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀(ますひで)と名乗り、織田氏の一門として手厚く迎えられた。

勝家与力  

  • その後氏郷は父同様に柴田勝家の与力として各地で転戦する。なお柴田勝家の北陸移封後は近江に残り独立した軍団を形成している。
  • 天正10年(1582年)信長が本能寺の変で自刃すると、氏郷は安土城にいた父賢秀と連絡し、城内にいた信長の一族を保護し、賢秀と共に居城・日野城(中野城)へ走って手勢500騎、輿50丁、馬100頭、駄馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した。
  • 本能寺の変ののち、しばらくして父より家督を譲られている。父の賢秀は天正12年(1584年)4月に死去。享年51。

秀吉家臣  

  • のち秀吉に仕え、天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦い後に亀山城を与えられる。この時は与力となっていた関盛信を城代に送っている。
  • さらに天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い後には伊勢松ヶ島12万石に加増転封されている。この頃、名乗りを賦秀から氏郷に改めている。
  • 天正14年(1586年)、従四位下・侍従。天正16年(1588年)には正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓(本姓)を下賜されている。
  • 天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され、42万石を領する。さらにのち、検地加増により92万石の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。

会津入封  

  • 氏郷は会津黒川の地名を若松と改め、7層の天守を持つ鶴ヶ城を築城する。「若松」とは出身地である日野城に近い馬見岡綿向神社の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、また「鶴ヶ城」は、蒲生家の舞鶴の家紋と幼名鶴千代に由来するという。
    鶴ヶ城は一般には「会津若松城」と呼ばれており、戊辰戦争の際には会津戦争の舞台となり、1ヶ月もの間新政府軍の猛攻に持ちこたえた。現在復元されている5層天守は寛永年間に改築されたものを元にしている。
  • 文禄元年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣している。しかしこの陣中にて体調を崩した氏郷は文禄2年(1593年)11月に会津に帰国するが病状が悪化。
  • 文禄4年(1595年)2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40。
  • 辞世の句は自らの早世を嘆いたものである。

    かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風
    (花の一生は短く風が吹かぬとも散るものである。それなのになぜ春の山風は短気に花を散らしてしまうのだろうか。)

  • 墓所は京都大徳寺 黄梅院にある。近年墓を発掘したところ、刀を抱いた姿で埋葬されていたという。また福島県会津若松市の興徳寺にも墓があり、こちらには遺髪が納められている。
    黄梅院は元は永禄5年(1562年)に織田信長が父・信秀の追善供養のために大徳寺98世の春林宗俶を迎えて創建した「黄梅庵」に始まる。本能寺の変ののち信長の葬儀は大徳寺で行われたが、墓所として狭いという理由で大徳寺山内に新たに総見院が創建され信長の墓所はそちらに作られた。その後黄梅庵は、春林の法嗣の玉仲宗琇(大徳寺112世)が入寺し小早川隆景の帰依を受け堂宇が整備され、黄梅院と改められる。近世を通じて小早川家・毛利家の保護を受け、院内には毛利家、織田家の墓所のほか、小早川隆景、蒲生氏郷などの墓塔がある(非公開)。

エピソード  

  • 氏郷には逸話が多い。

100万石の才  

  • 幼少の頃、美濃三人衆の一人である稲葉一鉄が信長と小姓たちに戦話をしていた時、夜も更けてきて他の小姓たちが居眠りをし始めている中、氏郷だけは目を輝かせて一鉄の話を真剣に聞いていた。信長と一鉄は、「この子は将来、100万の大名になるだろう」と感服したが、後に氏郷は実際に陸奥92万石を与えられ、それに近い石高を得ている。
    • この時点での92万石は徳川・毛利につぐ大領で、上杉・前田よりも大きい。
  • しかし会津転封が命ぜられた日の夜、氏郷は城の柱に寄りかかり涙ぐんでいたという。それを見ていた家臣の山崎家勝は感涙だと勘違いし、「恐れながら我が君にはご落涙遊ばされたように見受けましたが、42万石の大領を被けられし故の感涙に御座すか」と問うと、氏郷は右近を見返して首を振り、小さな声で「たとえ大領であっても、奥羽のような田舎にあっては本望を遂げることなどできぬ。小身であっても、都に近ければこそ天下をうかがうことができるのだ。結局私はここで朽ち果てるのかと思うと、不覚にも涙が出てきたのだ。」と激しく嘆いたとされる逸話が記されている。

    氏郷小声に成「左様にてなし。小身にても都辺に居は一度天下の大功望成事也。何程大身にても雲を隔海山越て遠国に罷在ては何の望も不叶。最早我等は捨りたると存候得は、不覚の涙こほれ候」と被申しとそ。

  • ある時秀吉が、近習たちにふざけ半分で「わしが100万もの大軍の采配をさせたいと思っている武将は誰か?遠慮なく言ってみよ。」と言った。近習達は当時の豊臣政権において大きな力を持っていた前田利家、徳川家康などの名を口にしたが、秀吉は頭を横に振って、「違う。松島侍従(蒲生氏郷)である。」と答えたという。ただし秀吉自身は氏郷の器量を恐れているところもあり、会津に移した際、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ。だから奥州に封じるのだ」と近習に漏らしたと伝わる。(100万の大軍の話は大谷形部少輔吉継にもある。ただし吉継の場合、後段の恐れていた云々はつかない。)

先駆け  

  • 氏郷は「合戦のとき指揮者・武将だからといって後方にいて家臣に命令を出すだけでは駄目である。自分が真っ先に敵陣に入って安全だからわしについて来いと言う。そうすれば家臣はついてくるものだ」という信念を持っていたという。
  • さらに、新参の者には「わが旗本に銀の鯰尾の兜をかぶり先陣するものがいれば、そいつに負けぬ働きをせよ」と激励したという。その銀の鯰尾の兜をかぶるものとは、もちろん氏郷自身のことである。

蒲生風呂  

  • 手柄を立てた家臣がおり、その家臣の手柄が俸禄だけで優遇できなくなると、氏郷は休日にその家臣を自らの屋敷に呼んでご馳走と風呂でもてなした。
  • 当時風呂は贅沢であり、しかも氏郷自らが煤で真っ黒になりながら薪をくべるほどの律儀さであった。この時、風呂に入っている家臣に「命がけの働きに褒美を出してやれなくてすまない、こんなことしかできないが許してくれ」と言ったという。家臣達は氏郷の部下想いに改めて涙を流したという。又、秀吉の御伽衆になった元主君の六角義賢にも分け隔てなくこの風呂に入れたという。
  • この風呂は「蒲生風呂」といわれ、この逸話は蒲生家に限らず、他家の間でも語り草にもなった。家臣達は皆、自分も蒲生風呂に入れてもらおうと大いに忠義を尽くしたとされる。

その他の逸話  

  • 天正17年(1589年)の方広寺大仏殿の石組工事で、五条橋大門角石用の二間四方の石を近江大津の園城寺の上から切り出し、重臣達が笛や太鼓で拍子を取って京都まで運んだ。その石は、諸大名が運んだものの中で最大だったという。
  • また天正18年(1590年)の小田原征伐の際、大坂を発ったのち居城である松阪城に立ち寄り、綾の小袖を着、扇子をもった姿で影像(肖像画)を描かせたという。これは死を覚悟してのもので、まだ幼い嫡男秀行に父の姿を見せるためであったという。
  • 戦国武将としては珍しく側室をおかず、またキリシタン大名でもあった。天正13年(1585年)に洗礼を受けており、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。
  • 茶の湯にも造詣が深く、千利休に師事し利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられている。利休七哲の中でも特に細川忠興と高山右近とは仲が良く、小田原征伐の陣中で右近が用意した牛鍋を三人一緒に食べたという話がある。その後、忠興と共に度々牛鍋を食べに寄ったという。なお右近は、氏郷が床で息絶えるまで側に付き添ったという。

氏郷死後  

  • 氏郷が40歳で死んだ時、嫡男の秀行は13歳であった。関東の家康、仙台の伊達の押さえとして会津92万石に封じた秀吉としてはその意味がなくなるため減封を企図する。しかし秀行の正室には家康の三女である振姫(正清院)を迎えており、また氏郷の長女籍姫は前田利政(利家次男)に嫁いでおり、徳川前田両家にとっても減封は認めがたく反対の立場を取る。
  • その後、御家騒動(蒲生騒動)が起こったことで慶長3年(1598年)には秀吉の命により宇都宮18万石に転封され、代わって会津には上杉景勝が120万石で入封することになる。
  • これらの経緯から関ヶ原の戦いでは蒲生家は東軍に所属する。戦後、上杉家は改易は免れたものの出羽米沢30万石に厳封され、会津には舅である家康の意向により60万石で蒲生秀行が再度入封する。
  • 秀行も30歳の若さで死亡し、あとを振媛(家康娘)との間に生まれた忠郷が継ぐ。寛永元年4月、忠郷邸に大御所が御成になっている。

    此時忠郷より刀劒を獻じ。其御盃をかへし奉り。かさねて高虎にたまはり。饗宴はてゝ還御なる。忠郷は御跡よりまうのぼり謝し奉る。けふ賜物は國俊御太刀。新藤五の御脇差。一文字御刀。こは上杉中納言景勝遺物に獻ぜし所とぞ。其外八丈紬二百端に小袖百そへらる。(略)献物は行平太刀貞宗の脇差。長光刀(銘銫切といふ)

  • しかしこの忠郷も25歳の若さで死亡する。忠郷には子がおらず会津蒲生家は改易となるところであったが、母振媛が家康娘であったために、同母弟で出羽上山藩主の忠知を当主として伊予松山へ24万石に減封されるも蒲生家の存続は許された。しかしこの忠知も参勤交代の途上、京都の藩邸で31歳で急死し、嗣子がなかったために蒲生氏は断絶した。
  • 蒲生家の後には加藤嘉明が40万石で入封するが、子の代に御家騒動(会津騒動)が起こり会津40万石を返上する。
  • その後、23万石で保科正之(徳川秀忠の四男、家光異母弟)が入封し、以後会津藩は会津松平家(保科家)の支配で幕末を迎える。会津藩は23万石とはいえ実入りが豊かで、幕末までに内高は40万石を突破しており軍事力は御三家の水戸家を超えていたともいわれる。
  • この軍事力を評価され、幕末志士たちにより荒れた京都の押さえとして松平容保が京都守護職に任命される。京都所司代・京都町奉行・京都見廻役を傘下に置き、見廻役配下で幕臣により結成された京都見廻組も支配下となったが、それでも手が回りきれず、後に結成されたのが「会津中将様御支配 新選組」である。

関連項目