長谷川江
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長谷川江(はせがわごう)
短刀
無銘 義弘
名物 長谷川江
長八寸
- 享保名物帳所載
長谷川郷 無銘長八寸 代金百枚 溝口信濃守殿
長谷川式部所持、裏棒樋有之、後ち溝口出雲守所持
- 刃長八寸、真の棟、光柴押形では彫物はなかったが、その後差し裏に棒樋を彫っている。
- 中心はうぶ、目釘孔2個、無銘。
由来
- 長谷川式部所持にちなむというが、「詳註刀剣名物帳」ではこの長谷川式部は不明としている。
- 信長、秀吉に仕えた長谷川守知という武将がおり、この長谷川守知は従五位下式部大輔に叙任されている。長谷川家については後述。
なお長谷川竹丸(長谷川与次。長谷川秀一の父)の所持ともいうが、これでは溝口家への伝来が説明しづらい。
来歴
長谷川式部
- 長谷川式部(守知)は寛永9年(1633年)没。
- 守知の嗣子、長谷川正尚の妻は溝口伯耆守宣勝(越後新発田藩2代藩主)の娘・林清院であった。これに子がなく、正尚が正保元年(1644年)に没すると弟の長谷川守俊(守知の四男)が家督を相続する。
森川重俊娘 堀秀政──長寿院 ├──信濃守重雄──伯耆守重元──信濃守直治 ├──┬─溝口出雲守宣直 溝口伯耆守宣勝 └─林清院 │ 長谷川宗仁──守知─┬─長谷川正尚━━守俊 ├─守勝 └─守俊
溝口家
- この長谷川守俊も二年後正保3年(1646年)に早世したため御家断絶となり、林清院は郷義弘の短刀を抱えて実家の溝口家(越後新発田藩)に戻る。
溝口宣勝は寛永5年(1628年)没。嫡子の宣直(林清院の兄)が3代藩主となっている。溝口宣勝の正室は堀秀政の娘(長寿院)。また溝口宣直の正室は稲葉一通の娘だが、死別しており継室は森川重俊の娘。
- 享保名物帳編纂時には溝口直治(越後国新発田藩6代藩主、従五位下・信濃守。伯耆守宣勝の玄孫)のもとにあったとする。
つまり、長谷川守知、嫡子正尚、正尚の妻が実家の溝口家にという流れとなる
- 今村長賀によれば、明治18年(1885年)に星ヶ岡茶寮で行われた日本刀展覧会に出品されたという。
星ヶ岡茶寮は千代田区永田町(溜池山王)にあった北大路魯山人ゆかりの料亭。元は日枝神社の境内にあった小高い丘で、星がよく見えたことから「星ヶ岡」と呼ばれていた。明治維新後に氏子が減少したことにより社域維持が困難になった同社はこの一帯を東京府に寄付。当初東京府では公園にする予定であったが、風光明媚な場所であることから「星岡茶寮」とすることを三野村利助・奥八郎兵衛・小野善右衛門らが提案し、上級階級の社交場としての体裁を整えた。展覧会が行われたのはこの頃である。
大正時代に経営不振に陥るが関東大震災後に北大路魯山人と便利堂主人の中村竹四郎に貸し出され、大正14年(1925年)に中村・魯山人が主宰する美食倶楽部の会員制料亭となった。昭和20年(1945年)空襲により焼失。のち東急グループの所有となり、東京ヒルトンホテル(後のキャピトル東急ホテル、現在は東急キャピトルタワー)となった。
- 大正10年(1921年)に遊就館に出陳されている。
短刀 無銘 名物長谷川江 伯爵 溝口直亮
異説
- これが事実であるとすると、信長は義元左文字は自らの差料としたが、松倉江については長谷川式部へと与えたということになる。長谷川式部こと長谷川守知は、京都の町衆長谷川宗仁の子で、元亀元年(1570年)以後に父宗仁と共に奉行衆として信長に仕えたという。
- ただし、「松倉江」と呼ばれる所以は、明らかではないものの他の刀には入らない「越中國
松倉住 」と入ることによるとの説が有力であり、一方の長谷川江はうぶ無銘であるため矛盾する。
長谷川家
京都 長谷川家
- 長谷川守知の父は、武将・茶人・画家の長谷川宗仁。
長谷川宗仁(はせがわ そうにん)
- 従五位下、刑部卿。
- 出自は京都の有力町衆であった長谷川宗昧の一族と考えられる。
- 永禄12年(1569年)から元亀元年(1570年)の間、堺の今井宗久と組んで織田信長に働きかけている。
- のち奉行衆として信長に仕え、天正6年(1578年)元旦に、信長が家臣12名を呼び主催した茶会の中に織田信忠・細川藤孝・明智光秀・羽柴秀吉・丹羽長秀ら織田家の要人と共に名を連ねている。さらに1月4日に万見重元(仙千代)邸で行われた名物茶器の披露会の参加者9人の中にも宗仁の名前が見える。
- 本能寺の変で信長が横死すると、当時本能寺の近くに住居を構えていた宗仁がすぐに飛脚を仕立て、備中に布陣していた秀吉に知らせている。
- その後は秀吉に側近として仕え、伏見の代官を務めている。またフィリピン侵攻を建言し、フィリピン総督と交渉すべく自らマニラに渡航もしている。名護屋城築城にあたっては本丸数寄屋や旅館などの作事奉行を担当し、文禄2年(1593年)5月23日には明からの使者の饗応役を務め、慶長3年(1598年)の醍醐の花見の際にも秀吉の側に従じた。
- 関ヶ原では西軍に与し、細川幽斎の篭る田辺城包囲の軍に参加していた(田辺城の戦い)が、戦後に所領に手を付けられる事無く赦されている。以後、豊臣家を離れ徳川家康に仕え、北政所の番を務めた。慶長11年(1606年)2月9日没。享年68。
- 武野紹鴎に師事して茶の湯を学び、「古瀬戸肩衝茶入」(長谷川肩衝)を所持した。また今井宗久とは懇意の仲であり、津田宗及の日記にも度々名が見える。
元亀二年
同三月五日 長谷川宗任會 設 及
本文注:任ハ仁ノ宛字通稱源三郎、信長ノ近侍ニシテ功臣十人ノ一ナリ、後秀吉ニ仕ヘ一萬石ヲ食ミ法印ニ叙シ式部少輔ト稱ス
- 画家としても評価を受けており、「法眼」の叙任されている。天正9年(1581年)11月3日に行われた松井友閑邸の茶会では宗仁作の絵が床の間に飾られており、また名護屋城本丸の障壁画は狩野光信と宗仁が共同で手がけた作品である。
長谷川守知(はせがわ もりとも)
- 長谷川宗仁の子。
- 父宗仁と共に織田信長、豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586年)に従五位下、式部大輔に叙任される。
- 文禄3年(1594年)には伏見城工事で功績を挙げたため、美濃国内に1万石を与えられた。
- 慶長3年(1598年)に秀吉が没した際には遺品である国光の脇差を賜っている。
長谷川右兵衛尉守知 国光
- 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、京極高次の要請を受け大坂よりの増援として石田三成の居城である佐和山城に入る。この時長谷川守知は京極同様に東軍に内応しており、その証として京極高次に義弘の脇差を贈っている。
- 9月15日の本戦では、三成ら本隊が壊滅し小早川秀秋ら東軍に寝返った部隊が攻め寄せてくると守知は秀秋と内通して裏切り、秀秋の軍勢を三の丸に引き入れて早期に陥落させ、石田一族を自刃に追い込んだ。
- この功績により戦後は所領を安堵された。その後は大坂の陣でも武功を挙げ、美濃長谷川藩の藩主となった。
- 長谷川守知は寛永9年(1632年)11月26日、64歳で死去。
- 跡を継いだ子の正尚は、弟の長谷川守勝に3110石ほどを分与したため、長谷川家は2家に分かれていずれも旗本になり、美濃長谷川藩は消滅して旗本領となった。
- さらに正尚の弟で養子となって跡を継いだ長谷川守俊も二年後正保3年(1646年)に早世したため御家断絶することになり、本刀「長谷川江」が溝口家に伝わったのだと思われる。
- なお弟の長谷川守勝の家系は存続し、旗本寄合席に名を連ねた。
長谷川竹
- 他に信長麾下の長谷川姓で有名なのは、長谷川与次(可竹、嘉竹)とその子長谷川秀一がいる。
長谷川与次(はせがわ よじ)
- 長谷川与次は信長に重用され、12人の重臣を招いた天正6年の茶会でも信忠、光秀、秀吉、長秀らに混じって参加している。また同年万見重元(仙千代)邸で行われた茶会での9人にも名を連ねている。天正9年に秀吉を招いて開いた茶会にも竹は呼ばれて同伴している。長谷川丹波守。弟に長谷川橋介右近。
長谷川秀一(はせがわ ひでかず)
- 子の秀一は竹の愛称で信長に可愛がられ、男色相手もしている。天正6年(1578年)12月に万見が死ぬと、長谷川秀一は旧万見邸を与えられ奉行衆筆頭として重要な役目を与えられていく。その後は菅屋長頼・堀秀政と並んで饗応役や馬廻り・小姓衆を率いての行動が目立つ。
- 本能寺の変の際には信長から家康の饗応役を命じられており、家康一行と堺にいた。6月1日には堺の津田宗及宅の茶会に家康・穴山梅雪と共に参加している。
- 変の一報は茶屋四郎次郎により届けられ、秀一は土地勘に乏しい一行の案内を買って出て、河内国から山城国、近江国を経て伊賀国へと抜ける道のりを同行し、尾張熱田まで逃げている。
- のち秀吉配下として天正11年(1583年)には近江肥田城主となり、小牧・長久手の戦いでも兵を率いて出兵している。天正13年(1585年)3月、紀州征伐でも功があり、越前東郷15万石の領主となる。羽柴姓を与えられ、羽柴東郷侍従と称する。
- 文禄の役でも出兵しているが、文禄3年(1594年)2月、当地で病を得てそのまま亡くなったとされる。
- 長谷川家は断絶したとされるが、慶長3年(1598年)8月の秀吉公御遺物では父の長谷川与次に分与されている。
長谷河可竹(長谷川与次) しつかけ
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