長享銘尽


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る

 長享銘尽(ちょうきょうめいづくし)

  • 長享2年(1488年)ごろに書かれたとされる刀剣書。
  • 長享2年の根拠として、本文中に「今長享二年迄」と書かれるところによる。

    自神武天王八十二代後鳥羽院御宇結番ノ鍛冶次㐧後鳥羽院ハ元暦元年甲辰八月廿三日ニ御即位也扠元暦ヨリ今ノ長享二年迄三百五十年也

    川瀬一馬の奥書には「今長享三年迄」と書かれる。

Table of Contents

 概要

  • 元は「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」の書写紙の裏に書かれていたものを古書店で見つけ、楮紙を表裏二つに分離した上で両方共を安田文庫に収蔵したという。
    なお表に書かれていた経典については、応永12年(1405年)に俊祐なる者が書写したものを、さらに永享2年(1430年)に賢栄(金剛佛子賢榮)が写したものであるという。「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」の巻五には「愛染明王」が説かれている。
  • その後鹿島則泰に話した所、「観智院本銘尽」に次ぐ資料であると教えられ、「長享銘尽」として昭和8年(1933年)に自ら創刊した「書誌学」に掲載して学界に発表したものである。
  • 昭和15年(1940年)に麹池三吉が写本したものを帝国図書館に収蔵した所、高橋司書官より一言書くように依頼されて後書きを記したという経緯になる。
  1. 応永12年(1405年):俊祐が「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」を写経
  2. 永享2年(1430年)5月19日:賢栄がさらに写す
  3. 長享2年(1488年)ごろ?:2の裏紙に銘尽が記される
  4. 昭和初期:古書店で発見し、安田文庫に収蔵
  5. 昭和8年(1933年)1月:雑誌「書誌学」で紹介
  6. 昭和15年(1940年)1月:麹池三吉写本
  7. 昭和15年(1940年)3月21日:川瀬一馬後書


 奥書

昭和拾五年正月
  瑞蕐麹池三吉冩之

本書ハもと永享二年の書冩にかかる金剛峯楼一切瑜伽衹の紙背に書かれたるを予某古書肆にて見出で表裏共に生かさんが為に厚からざる楮帋を熟達工匠に命じて二帋に分離せしめ、冩経と併せて安田文庫に収蔵するに至りたるものなり。後之を鹿島則泰翁に示したるに帝国図書館に蔵せらるゝ観智院舊蔵の古鈔本所謂正和銘盡に次ぐ好資料なりとて、巻中に「今長享三年迄云々」と長享を逆算の基準とせる文句あるを以て、之を長享銘盡と稱すべしとなし、昭和八年一月雑誌書誌學創刊號に紹介せられて、はじめて學界に知らるるに至れり。もと表の冩経は應永十二年俊祐なる者が冩せるを永享二年に傳冩せるものにして、巻末に左の書冩識語あり。
 山田永享二年庚戌五月十九日於豊前国下毛郡山田
 多志多村永住坊雖日本第一悪筆結句老眼之或
 恥入者也雖然貴命与結縁勿恥後輩云々
   主金剛佛子賢榮敬白
    (後の別筆)授与良印
 
而してもと帋背たりし本書ハ前述の如くあるによりて長享時の華冩と確認せらるゝなり。今茲に安田文庫の原本によりて帝国図書館に臨模の一本を留めらるゝに當り、高橋司書官より後日の為関係者として一言すべき由を命ぜられしかバ、また先人の言に恥づといへども敢て禿筆を染むる事已上の如し。
皇紀二千六百年三月二十一日彼岸會之中日
               川瀬一馬謹識

 内容

  • 便宜上、見出し部分を目次化したもの。
    ()内はコマ番号。あくまで閲覧上の便宜を図るために一覧化したものであり、正確ではないので注意。
  1. 諸国著名鍛冶
    1. 天国(10)
    2. 藤戸(10)
    3. 實次(10)
    4. 神息(11)
    5. 武保(11)
    6. 宗仲(11):備前國住天暦元年
    7. 宗近(12):三条小鍛冶
    8. 助包(12):備前
    9. 友行(12)
    10. 武得(12)
    11. 行忍(13)
    12. 正国(13)
    13. 友成(13)
    14. 外藤(13)
    15. 番鍛冶(14)
    16. 御製作(14)
    17. 吉家(15)
    18. 包平(15)
    19. 正恒(16)
    20. 信房(16)
    21. 宗景・則宗・助宗・則助(16)
    22. 劍ヲ造鍛冶前後不同(16)
    23. 行平(17)
    24. 高平(17)
    25. 助平(17)
    26. 定秀(18)
  2. 山城國ニ京中ノ鍛冶 平安城粟田口京中前後不同(18)
  3. 大和國鍛冶(20)
  4. 備前國鍛冶前後不同(23)
  5. 系図次第(25)
  6. 備中國鍛冶次第前後不同(26)
  7. 陸奥國鍛冶次第(28)
  8. 伯耆國鍛冶次第(29)
  9. 河内・播磨國鍛冶次第(30)
  10. 越前國相模國(31)
  11. 近代鎌倉物前後不同(31)
  12. 摂津國・加賀國(32)
  13. 三河・讃岐・信濃・美濃・越前・駿河・備後・和泉・伊賀・因幡・出雲(33)
  14. 不知鍛冶(33)
  15. 筑紫鍛冶之事(34)
  16. 劍ヲ見ル作法(37)

 劍ヲ造鍛冶前後不同

長圓
ウスミトリヲ作(薄緑
真守
抜丸ヲ作
国永
菊丸作
諷誦
□隕切作
定秀
三目ユイ 五リン丸作
助包
横丸作(猫丸?
宗近
寺丸、三日月丸(三日月宗近)、鵜丸
助平
保昌懐太刀
国安
水毛作(水毛剣
神息
ヲトナシヲ作
国友
乙丸?作
国綱
鬼丸
国吉
住吉劍作
友成
能登殿サゝ丸作(能登守平教経の笹丸
助宗
日切丸作
信房
トヲカリ作(遠雁丸
国行
カンナ丸作(鉋丸)、チツキ丸作 ※来国行
国光
鎌倉八幡御剣作
治間
エミクリ丸ヲ作(笑栗
国弘
悪源太義平ノ青ミトリ作
高平
畠山蛇切丸
国宗
九郎判官御剣作
安綱
鬼丸作(鬼切安綱
包平
釜歯作
正恒
鬼切
匡房
ハツ丸作
宗吉
小美女、櫻丸作
助宗
菊丸作 後鳥羽院御剣
我里馬
烏丸作 ※「宗近」が奥州鍛冶我里馬(かりま)の和名という説がある
天国
小烏丸作(小鴉丸
久国
粟田口大隅権守


 系統本

  • 原本:不明
  • 写本:安田本
  • 写本:直江本

 安田本

  • 「金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経」の書写紙の裏に書かれていたもので、川瀬一馬が古本屋から見つけ出し、表裏二つに分離した上で両方共を安田文庫に収蔵した。
  • 安田文庫所蔵の原本は消失してしまったが、原本を接写した写真が残っておりそれを元に昭和15年(1940年)に麹池三吉が原本に忠実に筆写したものが国会図書館に納められた。

 直江本

  • 長享2年(1488年)の写本。
  • 安田本よりも詳細に記述している部分がある。
  • 与板城主直江家に伝来した。

    皆天文廿二年癸巳五月吉日 此本与板直江入道殿ヨリ相伝ス 越後國住人

    越後國住人某が天文22年(1553年)に与板城主直江入道殿に許可を得て写したものという。この直江入道は直江大和守景綱(実綱)であるとされる。ただし直江氏については景綱(実綱)以前はよくわかっておらず、どういう経緯で長享銘尽が伝来したのかは不明。

  • 奥書

    本云此内ノカチワ天下ノ重宝トサタメヲカレシ山門ヨリ内ノホウサウニコメラレ、シンピノメイツクシノヨシ云
    □□院サマ是ヲメシ出シ御ヒケンヤカテヲカレヌ時ニ薗賀殿御所望アルケリ、然ニ不思議ノエンヲモツテ、モトメテ是ヲカキウツス物也、次ニ時ノ筆者中河武繁□ニ□銘尽ニハ昔中比之カチ斗ニテ近比ノ著名物ノ品タリトイヘトモ本ニ云ニ是ヲノセス隆□イノクマ下向之時名物□共仁ニ見ハンタンニ及ブ、口伝又之手間分少シシルス物也

    天下の重宝と定めおいた山門の内の宝蔵に籠められていたシンピの銘尽で、のち□□院様(鹿苑院、足利義満であるとする)が取り寄せて被見した上で手元に置かれたものである。のち薗賀殿が所望して不思議の縁があって書写し、さらに中河武繁が書写したものである。古作を中心に記した銘尽であり、近頃(当時)の作や、名物だが取り上げていないものもある。

  • 直江本は、のち剣掃文庫(村上孝介氏)所蔵となり、現在は刀剣博物館所蔵
    村上孝介は本阿彌光遜の高弟で高名な刀剣研究家。刀苑社を主催し、所蔵本は剣掃文庫と称される。昭和53年(1978年)没。著書に「昭和刀剣名物帳」ほかがある。




 川瀬一馬(かわせかずま)

昭和時代の書誌学者、日本文化史家
号 柚廼舎(ゆずのや)

  • 明治39年(1906年)生まれ、平成11年(1999年)没。
  • 父方の先祖は伊勢で米商を営んだ家柄。父母を失ったために進学の道を絶たれ、東京市役所に給仕として勤める。
  • 小学校の旧師の尽力により成蹊実務学校に入学し、中村春二の薫陶を受ける。日本史専攻の志を立て東京高等師範学校文科に入学、ついで東京文理科大学へ進み国文研究室初代助手となるが、2年あまりで職を解かれる。以後は公職に就かず研究活動を続ける。
  • 2代目安田善次郎の知遇を受け、安田文庫の典籍蒐集に助力する。昭和25年(1950年)から昭和49年(1974年)まで青山学院女子短期大学国文科主任となり、同時に昭和40年(1965年)から文化財保護審議会専門委員に任命され81歳まで務めている。
  • 著作に「日本書誌学之研究」、「古辞書之研究」、「足利学校の研究」他多数。
  • 昭和初年に国文学界で古典の批判的研究が流行したのに伴い、昭和6年(1931年)長澤規矩也らとともに日本書誌学会を結成。昭和8年(1933年)に雑誌「書誌学」を創刊して多数の研究論文を発表した。
    長沢規矩也(ながさわきくや):漢籍書誌学の権威で、俗に「長沢漢和」と称される新撰漢和辞典(三省堂)の編者として名高い。川瀬一馬と長沢規矩也が、共に学生であった頃、当時静嘉堂文庫の文庫長を務めていた諸橋轍次より協力を依頼され、同文庫の蔵書の整理・目録の作成などを行っている。

 鹿島則泰(かしまのりやす)

「上野図書館(国会図書館)の生字引」と呼ばれた人物

  • 父は、鹿島神宮第67代大宮司の鹿島則文。鹿島則泰は長男。
  • 明治39年(1906年)帝国図書館。
    上野公園にあったことから上野図書館の名で呼ばれた。戦後に国立図書館、国立国会図書館へと改称。国立国会図書館支部上野図書館を経て、2000年に国立の児童書専門図書館である国立国会図書館国際子ども図書館として再生された。
  • 大正12年(1923年)退職。以後嘱託として昭和13年(1938年)まで継続して勤務する。

 関連項目


Amazonファミリー無料体験