池田忠雄
池田忠雄(いけだただかつ)
江戸時代前期の大名
淡路国洲本藩主、のち備前国岡山藩第2代藩主
勝五郎・新次郎
正四位下、宮内少輔、参議
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生涯
- 池田輝政の継室、督姫(徳川家康の次女)の子で、幼名は勝五郎・新次郎。
- 初名忠長、のちに駿河大納言忠長の諱を避けて忠雄と改めている。
駿河大納言徳川忠長の元服は元和6年(1620年)9月。諱は金地院崇伝の選定による。池田忠雄と改めたのはそれ以降となる。
- 慶長7年(1602年)10月28日、姫路城で生まれる。
家康外孫
- 慶長13年(1608年)に7歳で元服。
(慶長)十三年四月十八日、年甫めて七歳、兄忠継公と共に将軍秀忠に謁し首服を加へらる。従五位下に叙し、家号並に偏諱を賜ひ、松平宮内少輔忠長と改め、銘刀及馬を拝領せらる。
輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた(家康の外孫にあたる)ことから、岡山の池田宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され、親藩に準ずる家格を与えられた。
- 家康の外孫にあたることから、慶長15年(1610年)2月23日わずか9歳で淡路洲本6万石を与えられる。実際には姫路に留まり、重臣が政務にあたっている。
家康、姫路城主池田輝政の第三子忠雄に淡路を賜ふ、
(慶長)十五年二月、輝政公駿府に赴き家康に謁するの時、公(忠雄)に淡路国六万三千石を賜ひ、由良之城を治城とせしむ。乾兵部大輔長次、傅役として国政を執る。
輝政の形見分け
- 慶長18年(1613年)1月に父輝政が死ぬと、豊後正宗ほかを相続する。
諸道具割符帳
宮内少輔に相渡候分、
一、豊後正宗之刀
一、一文字之刀 御所様(家康)より拝領、
一、國行之刀
一、来国俊之刀
一、吉田次郎右衛門刀 輝政不断指
一、遺刀 拾腰
一、遺脇指 五腰
一、鑓之身 壹本
一、太刀 三振
以上、
刀合拾五腰、 脇指合五腰、 太刀合三振、鎧之身壹本
徳川政権下
- 慶長19年(1614年)大坂の陣に出陣。
十九年十月、幕府大坂に兵を出さんとするや、公に命し、四国の諸将と倶に船師を率いて和泉の沿海に碇泊せしむ。十九日本多上野介、出師の命を伝ふ。即ち由良を発し、蜂須賀阿波守・浅野但馬守と倶に、和泉より進みて今宮に陣す。
- 元和元年(1615年)、大坂の陣の後に同母兄の忠継が17歳で急死したため、その遺領備前岡山藩38万石を継ぐ。
元和元年四月、幕府再ひ兵を大坂に出す。公亦兵を率て由良を発し、吹飯浦に至り海路を警戒す。時に兄利隆大軍を率いて尼ヶ崎に発向す。公亦同しく大坂に向はむと請ひしも許されす。重ねて三輪忠助をして、本多佐渡に説かしめしも容れられす。五月、大坂城遂に陥る。十日伏見に至り、秀忠に謁し二条城に引見し、忠継公の嗣となし、備前二十八万石、播磨三郡並ニ良正院化粧田、備中の内四万石を賜ひ、淡路を収む。公播磨三郡を三弟に与えむことを請ふ。将軍即ち松千代輝澄、石見守に宍粟郡三万八千石を、岩松政綱、右京太夫に赤穂郡三万五千石を、古七郎輝興、右近太夫に佐用郡二万五千石を頒ち賜ふ。
「由良」とは、忠雄が与えられていた阿波由良成山城。
兄の忠継が慶長8年(1603年)に相続したのは岡山28万石。さらに慶長19年(1614年)に父・輝政が死ぬと、遺領のうち、母・良正院の化粧料の西播磨10万石を分与され、計38万石を領した。
忠雄はまずその38万石を相続し、化粧料10万石であった播磨3郡から弟たちに分ける(3万8千+3万5千+2万5千)などしたため、忠雄自身の領地は31万5200石となった。
上記引用だとわかりづらいが、忠継はまず自身に備前28万石+備中4万石で約32万石を得た上で、播磨10万石を弟に分かったという話である。この時、旧領の洲本藩は廃藩とされ、蜂須賀至鎮に与えられ徳島藩に組入れられた。
のち政綱が寛永8年(1631年)7月29日に没すると、幕府はこれを一度収公し、再度佐用郡2万5千石を輝澄に加え6万3千石に、また輝興には赤穂郡3万5千石を賜った。
- ただし遺領38万石のうち、母・良正院(督姫)の化粧料10万石から、同母弟・輝澄(山崎藩3万8,000石)や政綱(赤穂藩3万5,000石)、輝興(平福藩2万5,000石)らにそれぞれ分与したため、忠雄の領地は31万5,200石となった。
この時、兄・池田忠継が相続していた刀剣類も相続したようで、たとえば「蜂屋江」などは忠雄から将軍家光に献上している。
- 元和6年(1620年)から始まった大坂城改築工事では、自らの担当場所に蛸石、肥後石、振袖石というそれぞれ大坂城内で第一位から第三位となる巨石をはじめ、その他様々な巨石を運び込んだ。
(元和)六年正月、幕府諸侯に命じ、大坂城を修む。公大石を備前より出し城門の石垣を築く。
寛永元年正月、又大坂城修築工事有り。公桜門の石垣を築かる。巨石中堅四間横八間に及ぶもの有り。備中より運搬せられしと云ふ。
- また岡山城の改築にも取り組み、現存する月見櫓近辺の石垣などを打ち込み接ぎで築き、天端石には石狭間を設置した。
- 江戸城修築の際にも働いている。
(寛永)六年幕府東西諸侯に課し、江戸城を修築す。公西丸新山里の露路・石壇十八間を築く。六月二日工事竣る。
- 妻は蜂須賀至鎮の娘(三保姫、芳春院。阿波御前)。慶長8年(1603年)生まれ、慶長18年(1613年)婚約。夫人は2人の子を残し死んでいる。享年30。
寛永元年十二月、公蜂須賀氏を娶る。阿波守至鎮の女なり。慶長十八年已に婚約有りしか、茲に至り婚儀行はる。
(寛永七年)六月十八日公子勝五郎江戸本邸に生る。即光仲公なり。
(寛永)九年正月二十五日公子藤三郎生る。後に仲政と称す。
(寛永)九年(正月)二十九日夫人蜂須賀氏逝去す。
- 寛永3年(1626年)の将軍家光上洛時に忠雄もまた従っている。
此秋(寛永3年)、秀忠及将軍家光上洛有り。公京都に上り二条城に候す。八月十九日、公正四位下に進み、参議に任せらる。蓋し特例なり。同日石見守輝澄侍従に任せられ、右近太夫輝興従四位下に昇叙せらる。九月六日、天皇・皇后二条城に行啓有り。公尾張・紀伊・駿河・水戸・仙台・加賀・薩摩・越前・会津の武家公卿と騎馬にて乗輿に供奉す。十日還幸の際、中宮に供奉せる武家公卿五人、公亦其一人たり。
- 寛永7年(1630年)、小姓の渡辺源太夫が藩士・河合又五郎に殺害されるという事件が起こり(鍵屋の辻の決闘)、脱藩した又五郎をかくまった旗本・安藤正珍と岡山藩池田家との争いに発展した。
- 寛永9年(1632年)、又五郎誅殺を願いつつ、31歳で死去。
(寛永)九年四月公疱瘡に罹り、三日江戸本邸に逝去。年卅一歳なり。此時、内には夫人新たに逝き、外には河合又五郎の事を以て旗下と隙を生し、公深く痛恨屢々、幕府に訴るも未た行はれす。
(略)
公の棺は岡山に送り、四月二十日龍峰寺に葬る。法号を清泰院殿仁秀良勇と云ふ。寺を建て法号を以て寺号とす。清泰院之なり。
- 家督は長男・光仲が継いだが、幼少だったために因幡国鳥取藩に転封となり、幕末まで続いた。
六月十八日、幕府は世子勝五郎に家督を命し、池田光政の封地因幡・伯耆二国と国換をなし、以て事無きを得たり。
刀剣
- 吉田兼光
- 毛利輝元から。享保名物
- 大坂当麻
- 秀忠薨去時に、遺物として贈られた。享保名物
- 毛利正宗
- 秀吉遺物として毛利秀頼(河内守長秀)が拝領。京極家から池田家に入り、元和元年(1615年)12月26日に将軍家に献上している。享保名物
- 浦島虎徹
- 因州鳥取藩主家の池田家に伝来。
大包平の逸話
- 宗家にあった「大包平」を寄越すように要求するが、家老の日置豊前が強く拒んだため断念したという逸話が残る。
系譜
子:池田光仲
- 因幡国鳥取藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家3代。
- 母は阿波国徳島藩主・蜂須賀至鎮の娘・三保姫。幼名は勝五郎。
光仲公、幼名は勝五郎と云ふ。
寛永七年六月十八日江戸本邸に生る。九年四月三日忠雄公江戸本邸に逝去する。公、生れて未た三歳に充たす。此時、渡辺数馬、河合又五郎の事を以て幕府の旗本と葛藤を生し、旗本相謀りて、忠雄公を欺き、公大に怒る。雄藩及親藩も旗本の為す所を悪み、連合軋轢の勢あり。或は大事に至らんとし勢甚急なり。(略)六月十八日、幕府は公の叔父松平石見守輝澄・松平右近太夫輝興及ひ家老荒尾内匠介成利・荒尾志摩守嵩就・乾兵部大輔直幾を召して、公に家督を命し、旧領備前国を転して因幡・伯耆両国と交換し参拾弐万石を領せらる。当時因伯両国は公の従兄なる光政の両国なり。大将軍家光五人を引見し、因伯両国を勝五郎に領知せしめらるヽに付ては、幼年の間、能く守立て、両国の政事相共に協力して執行すへし。宰相忠雄公備前に在り、能く奉公の誠を尽し、心安く思ひしに、甚惜しむ旨を伝へらる。(略)米子城は成利に預けられ、鳥取に居て同族を派し、其城を管せしめらる。鳥取城は鵜殿大隅に城代を命せらる。
- 寛永9年(1632年)に父忠雄が急死し、3歳で家督を継いだ。
- 姫路は要衝であるため、光仲は幼少であることを理由に、因幡・伯耆を有する鳥取藩32万石へと移り、代わりに従兄で鳥取藩主となっていた池田光政が備前岡山藩31万5,000石へ国替えとなった。
- この際に、叔父の池田輝澄(播磨国山崎藩主)、輝興(播磨国赤穂藩主)、さらに光政が後見人として充てられた。光仲自身は幼少のために江戸藩邸に在住し、領国経営は荒尾氏を筆頭とする家老を中心とした側近に委ねられた。光仲が領国に初入国したのは慶安元年(1648年)、藩主となって16年を経てからである。
寛永18年(1641年)に百日就国はしている。
- 寛永11年(1634年)着袴の儀
(寛永)十一年正月十三日、公着袴の式を行ふ。幕府肩衣、呉服并酒肴を賜ふ。
- 寛永15年(1638年)、家光の前で元服し、偏諱を受け光仲と名乗った。
寛永14年(1637年)十二月廿八日、公登営し、大将軍(家光)に謁し、元服の式を行ひ、偏諱を賜ひ名を光仲と称し、従四位下侍従に叙任し、相模守と称す。左文字脇差及酒肴を賜ふ。公、呉服二十個・太刀・馬代白銀三百枚を献す。時に年甫めて九歳。
- 寛永18年(1641年)、百日就国。
(寛永)十八年六月昨日、公登営し、百日就国の暇を給ひ、馬并帷子単衣五十領・銀五百枚を賜ふ。十二日江戸を発し、七月六日鳥取城に配流。時に年甫めて十二歳。
九月廿二日、公鳥取を発して十一月十日江戸本邸に著く。十二月朔、公登営、物を献す。
- 正保2年(1645年)より白書院下の間。
正保元年十二月晦日、公登営す。来年元日よりは白書院下の間に著座すへき旨を達せらる。
- 正保2年(1645年)幕府の斡旋で紀州藩主・徳川頼宣の長女・茶々姫と結婚した。以後、鳥取池田家と紀州徳川家との姻戚関係が継続した。
(正保)二年四月十八日、幕府の命により紀伊大納言頼宣の女茶茶姫を娶る。婚儀甚盛んなり。
十一月十一日公子仲澄江戸邸に生る。東館の祖なり。
- 慶安元年(1648年)に初入国。江戸には翌年3月に戻っている。
慶安元年二月廿一日、公初めて就国の暇を賜ふ。(略)三月廿五日、公鳥取城に着く。時に十九歳。(略)
(慶安)二年三月公江戸に赴く。
その後慶安2年(1649年)6月江戸発、10月27日に伯耆を巡検して米子城へ。慶安4年(1651年)3月江戸。
承応元年(1652年)6月鳥取、承応2年(1653年)3月に江戸。
承応3年(1654年)5月17日に鳥取、明暦元年(1655年)3月6日に江戸へ。
明暦2年(1656年)5月13日鳥取城へ、明暦3年(1657年)9月8日江戸着。
万治元年(1658年)6月21日鳥取城へ、万治2年(1659年)3月5日江戸へ。
- 承応2年(1653年)12月28日に左近衛権少将に陞任。
- 光仲は「鍋島藤四郎」を入手し、のち嗣子綱清が元禄13年(1700年)7月晦日に隠居御礼として綱吉に献上している。将軍家伝来。
- 光仲の長男池田綱清:鳥取藩2代藩主
- 光仲の次男池田仲澄:鹿奴藩初代藩主
- 光仲の三男九鬼隆律:摂津三田藩主
- 光仲の四男池田清定:若桜藩(鳥取西館新田藩)初代藩主
子:池田仲政
- 母は阿波国徳島藩主蜂須賀至鎮の娘・三保姫。幼名は勝三郎。
- 池田忠雄の次男で、池田光仲の弟。
- 寛永9年(1632年)生まれ、同17年(1640年)1月28日、初めて将軍徳川家光に謁見する。
- 正保3年(1646年)12月30日、従五位下美濃守に叙任したが、慶安2年(1649年)10月17日、兄に先立ち18歳で早世した。
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