大坂当麻
大坂当麻(おおさかたいま)
短刀
大坂当麻
- 享保名物帳所載
大坂当麻 無名長八寸八分 代七千貫 松平右衛門督殿
鵜首造り薙刀樋並添樋、中川八郎右衛門所持、宗伴傳、利常卿御求、秀吉公へ上る、秀頼公より大野修理へ被下、大坂御陣に失る、元和六年光瑳取出し秀忠公被召上、爲御遺物松平宮内少輔拝領、大坂の御物、極上の當麻也- ある本には「鵜首當麻」、載らない場合もある。
- 詳註刀剣名物帳
鵜首當麻 一本に當麻と記せしものあり
中川八郎右衛門所持、宗伴へ傳ふ、古肥前守殿天正ごろ百貫にて求め、秀吉公へ上る、大阪に於て失る光瑳取出す。
鵜首造りの當麻の刀なり古肥前守は前田利長なり。
由来
- 大坂落城時に所蔵されたため、「大坂当麻」と名付けられる。
来歴
中川重政→中川光重
- 信長一族の織田駿河守重政(中川八郎右衛門尉重政)が所持し、後に子の中川清六光重に譲る。
信長の死後、中川光重は前田利家の次女簫姫(瑞雲院)を娶っていた関係で前田家に仕える。一時前田家を去るが、のち帰参し越中増山城代、二万三千石となる。隠居して巨海斎宗半と号す。
前田利長
- 当麻は、中川光重(巨海斎宗半)から藩主前田利長へ百貫で買い上げられる。
秀吉
- のち秀吉に献上された。
肥前進上當麻 八寸九分(大坂御物名物刀剣押形)
當ま、八寸九分、肥前匠上(太閤御物刀絵図)- 肥前とは羽柴肥前守(前田利長)のこと。この頃は単に「当麻」と呼ばれている。
大野治長
- のちに大野治長が拝領。
本阿弥光瑳→秀忠
- 治長は大坂落城の際に秀頼と命をともにしたため当麻は行方不明になるが、元和6年(1620年)に本阿弥光瑳が見つけ、秀忠に献上する。
元和六年光瑳取出し秀忠公被召上
池田忠雄
- 寛永9年(1632年)正月に秀忠が薨去すると、2月7日に遺物として池田宮内少輔忠雄に贈られた。これが大坂当麻とされる。
同日(寛永9年正月25日)前将軍秀忠薨す。遺品として当麻短刀・白銀五千枚を公に賜ふ。
池田家代々
- その後、池田家に伝来し享保名物帳にも同家所蔵として記載される。
- 池田吉泰(因幡国鳥取藩3代藩主、鳥取藩池田家宗家5代)が享保14年(1729年)閏9月23日(あるいは12月3日)に右衛門督から相模守へと改めており、一部の名物帳では「松平相模守」とされる。
吉泰 相模守、従四位下左近衛権少将 幼名長吉 又勝五郎輝清 初 右衛門督吉明
実壱岐守仲澄長男 母松平頼隆女
室敬子松平加賀守綱紀女、元禄二年己巳三月廿六日加州金沢ニ生ル、同十四年辛巳十二月廿二日緣約、同十五年壬午四月六日婚儀一説ニ宝永戊子四月六日トス元文二年丁巳六月廿八日江戸ニ卒ス、年四十九、牛島弘福寺ニ葬ル、戒号宝林院蓮国浄香、位牌鳥取興禅寺
貞享四年丁卯六月廿四日江戸ニ生ル、元禄八年乙亥十二月六日一ニ四日、一ニ二日綱清ノ養子トナリ勝五郎輝清ト改ム、同九年丙子正月廿八日始テ綱吉公ニ謁見、同十三年庚辰五月廿五日家督因伯三十二万石相違ナク大広間席、同年十一月十五日営中ニ元服従四位下ニ叙シ侍従ニ任シ右衛門督ヲ兼、一字押領吉明ト改ム、宝永元年戊申七月始テ入国、同四年辛亥四月十一日吉泰ト改ム、正徳五年乙未十二月十八日左近衛権少将廿九享保十四年己酉十二月三日一ニ閏九月廿三日相模守ト改、元文四年己未七月廿三日江戸ニ卒ス、年五十三、八月八日江戸発棺晦日鳥取ニ至リ九月十一日奥谷ニ葬ル、戒号天祥院殿機運衍応、位牌興禅寺、弘福寺、金剛蔵院
- 現在は行方不明。
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