毛利正宗
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毛利正宗(もうりまさむね)
脇指
磨上
象嵌銘 正宗
一尺六寸三分
- 享保名物帳所載
毛利正宗 象嵌銘長一尺六寸三分 代金百三十枚 土岐丹波守殿
秀吉公遺物として毛利河内守殿拝領、伊那侍従と云、利家卿の館にて渡之、元和元乙卯十二月廿六日に毛利正宗の刀、松平宮内少輔上ると有之間、御城より大久保殿拝領、正徳五乙巳御拂光通求め右千貫にて、大に疵有之以の外中高にて不恰好に付疵直し棟よりとり中高なるも随分直し、本二尺一寸八分あり右の寸に磨上る、総て此作に中脇差なければ松平肥前守殿御遺物に献上の二百枚と稲葉丹後殿に有之外に無之哉、土岐伊予殿所望に付進之なり
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来歴
京極高知
- 慶長3年(1598年)、秀吉遺物として伊那侍従(京極高知)が拝領する。
伊奈侍従(毛利河内守) 正宗
- 「毛利河内守殿」とは信長の赤母衣衆でもあった毛利秀頼(河内守長秀)のこと。毛利秀頼はすでに文禄2年(1593年)閏9月に死んでおり、女婿の京極高知が領地相続している。そのため本来は「毛利正宗」と呼ぶのは誤りとなる。
初名が長秀で、後に秀頼と改名する。また羽柴姓と豊臣姓を下賜されており羽柴河内侍従豊臣秀頼と書かれる。※淀殿の第二子で右大臣の豊臣秀頼とは別人。
毛利秀頼は毛利十郎の子で、一説に斯波武衛家の落胤という。兄は斯波義銀(津川義近)、弟に津川義冬、賢入などがいるとされるが詳細は不明。
- 「毛利河内守殿」とは信長の赤母衣衆でもあった毛利秀頼(河内守長秀)のこと。毛利秀頼はすでに文禄2年(1593年)閏9月に死んでおり、女婿の京極高知が領地相続している。そのため本来は「毛利正宗」と呼ぶのは誤りとなる。
池田家→将軍家
- のち本刀は京極家から播州姫路池田家に入り、元和元年(1615年)12月26日に池田家から将軍家に献上された。
大久保家
- 時期は不明だが大久保相模守(大久保忠隣)が拝領。
本阿彌
- 正徳5年(1715年)に同家が売りに出したのを本阿弥光通が千貫で買っている。
- 当時刃長は二尺一寸八分であったが、大きな傷があり平肉がたっぷりついて不格好だったので一尺六寸三分に磨上げ、平肉もうんと落として正宗の象嵌銘を入れ、折紙も金百三十枚にあげた。
この当時、中脇差の正宗は珍しく珍重されたという。「此作に中脇差なければ松平肥前守殿御遺物に献上の二百枚と稲葉丹後殿に有之外に無之哉」
土岐家
- 駿府田中藩の前藩主土岐頼殷が買い上げている。
美濃の土岐氏の一族で、駿河田中藩の初代藩主となった。土岐頼殷は正徳3年(1713年)7月に家督を長男の頼稔に譲り隠居している。
沼田藩土岐家は、駿府田中藩初代藩主土岐頼殷(従四位下丹後守、伊予守)の子である土岐頼稔が、寛保2年(1742年)6月に老中となり上州へ転封されたのに始まる。つまり、享保名物帳の記載通り土岐家に伝来したことになる。
- 以後同家に伝来。
- 異本では土岐家ではなく土井家にあるとしている。
毛利正宗 一尺六寸三分半代金百三拾枚象眼 土井丹後守
- 明治5年(1872年)、博覧会事務局(後の帝室博物館→東京国立博物館)からの照会に対して、土岐頼知が返答した一覧に含まれている。
土岐頼知(とき よりおき)
上野国沼田藩の第12代(最後)の藩主。沼田藩土岐家15代。慶応4年(1868年)、先代である11代藩主土岐頼之の隠居に伴い跡を継いだ。翌年の戊辰戦争では新政府に恭順し、三国峠の戦いで会津軍と戦っている。明治17年(1884年)に子爵、明治30年(1897年)に正四位に叙せられ、後に従三位となった。
- 現在は所在不明。
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