京極高次


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 京極高次(きょうごくたかつぐ)

戦国時代から江戸時代初期の武将、大名
近江大津藩主、若狭小浜藩初代藩主
小法師
従三位参議
羽柴大津宰相、京極侍従、京極若狭守

Table of Contents

 生涯

  • 旧近江守護の京極氏出身。
  • 京極氏は北近江の守護で本来は浅井氏の主筋に当たるが、戦国時代末に臣下の浅井氏の下克上を受け、高次はその庇護のもと永禄6年(1563年)に浅井の居城である小谷城で生まれた。
  • 父は京極高吉、母は浅井久政の次女で京極マリア。
  • 兄弟には、京極高知(羽柴伊奈侍従、丹後宮津藩初代藩主)、竜子(松の丸殿)、氏家行広室、朽木宣綱室がいる。
  • 幼名は小法師。

 人質

  • 父の高吉は足利義昭に仕えていたが、義昭と織田信長が対立した際に嫡男の高次を織田信長に人質として送り、自身は出家した上で上平寺に隠居している。
  • 高次は美濃国へ人質として送られ、そこで幼少期を過ごした。
  • 元亀4年(1573年)7月には宇治の槇島城に篭もる義昭を攻めた信長に従い、近江国奥島5,000石を与えられる。
  • 本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、高次は妹の竜子が嫁いでいた若狭の武田元明と共に光秀に与し、秀吉の居城である長浜城を攻める。山崎の戦いで光秀は秀吉に討たれ、武田元明は自害した。
  • 京極高次は、初め美濃、その後は若狭国の武田領へと逃れ、一時は柴田勝家に匿われていたという。

 豊臣家臣

  • 妹の竜子は、捕らえられたのち秀吉の側室となった。松の丸殿、または京極殿、西の丸殿と呼ばれている。
    大変な美人であったとされ、秀吉の寵愛を受けた。秀吉はこの竜子を小田原の陣や名護屋城に伴っており、また醍醐の花見でも3番目の輿を使っている。淀殿と杯の順番を争った逸話は後世まで語り継がれている。
  • 妹の嘆願により、京極高次は許されて秀吉に仕えることとなり、天正12年(1584年)に近江国高島郡2,500石を与えられる。翌々年には5,000石へと加増された。さらに同年の九州平定での功により、1万石に加増、大溝城を与えられて大名となった。
  • 天正15年(1587年)、京極家の旧家臣である浅井家の娘初を正室とする。
    初の父は浅井長政で母は信長の妹お市の方。浅井三姉妹の一人。高次と初は従兄妹同士の関係である。後に三姉妹の長姉茶々が秀吉の側室となり、さらに高次の実妹竜子も側室になったため、秀吉との間に強力な縁戚関係が生まれる。

 「蛍大名」

  • 天正18年(1590年)、小田原征伐の功により近江八幡山城2万8,000石となり、翌年に豊臣秀次が関白に就任すると、従五位下侍従に任ぜられる。
  • 文禄4年(1595年)には近江大津城6万石へと加増された。従四位左近衛少将にも任ぜられ、さらには、羽柴の苗字公称も許され、豊臣姓を下賜された。 翌年にはさらに従三位参議(宰相)に任ぜられる。
  • この頃の高次の出世は自身の功ではなく、妹や妻の尻の光(閨閥)に拠ったと噂され、高次は陰で「蛍大名」と囁かれた。しかし近江国支配を円滑に進めたい秀吉にも、浅井家以前に大名羽柴家の草創地である北近江の代々の領主であった京極家の名望を利用する目的があった。
  • 文禄4年(1595年)9月には、正室初の実妹であるお江(崇源院)が徳川秀忠に再嫁している。

 関ヶ原

  • 秀吉没後、慶長5年(1600年)には家康と石田三成の対立が深まり、会津の上杉景勝を討つべく大坂を発った家康は翌々日の6月18日に大津城へと立ち寄っている。高次はこれに対して弟の京極高知と家臣の山田大炊を家康に伴わせている。
  • 一方の三成も家康を討つべく諸大名を西軍に誘っており、高次は氏家行広と朽木元綱から三成の西軍へ属することを求められる。高次は大津城の守りが弱いことから一旦は西軍へ属することを決め、大坂へ嫡子の熊麿(京極忠高)を人質として送るが、しかし関ヶ原への出陣に備えつつ、西軍の動向を東軍に伝えている。
  • 9月1日、高次は西軍と共に大津城を発ち、2日には越前国の東野へと至るが、ここから海津を経て船で大津城へと戻る。3日、城に兵を集め兵糧を運び込み、籠城し西軍を抑える旨を家康の重臣である井伊直政に伝えている。
  • 高次の行動は即大坂へと伝えられ、城近くの逢坂関にいた毛利元康(西軍総大将毛利輝元の叔父)軍が大津の町へと攻め寄せた。さらに立花宗茂軍がこれに加わり、西軍の寄せ手は1万5,000とも3万7,000とも4万とも言われる数に増し、大砲が打ち込まれることとなった。
  • 三の丸、続いて二の丸が落ちたのち、9月14日の夜になって高次は降伏した。城に近い園城寺で剃髪し、70人程の兵と共に宇治へと去り、その後紀伊の高野山に入っている。
  • 15日には関ヶ原で決戦が行われるが、高次の篭城により大足止めされた毛利元康および立花宗茂らの大軍勢は移動に時間がかかったため、関ヶ原に参陣することができなかった。
    立花宗茂は柳川城へ戻り篭城する構えを見せるが、説得され改易された。のち許されて筑後柳川10万9,200石を与えられている。

 若狭国主

  • 家康は、西軍の軍勢を大津に引きつけて関ヶ原へ向かわせなかった高次の功績を高く評価し、若狭一国8万5,000石へ加増転封され、後瀬山城に入る。さらに慶長5年10月に小浜に入り、翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増される。
  • 京極高次は、三方郡の佐柿に多賀越中を、また大飯郡の高浜には佐々義勝を置き、領国若狭と他領との境を固め、他の家臣には地方で知行を与えた。
  • 大坂の陣の前、慶長6年(1601年)に家康の命を受け小浜城を築きはじめるが、天守閣の完成を見ることなく、京極高次は慶長14年(1609年)5月に47歳で没した。

 系譜

  • 家督は長男京極忠高が跡を継いだ。
    忠高は、慶長11年(1606年)7月に秀忠の四女でお江の娘でもある初姫(興安院)と婚姻している。京極忠高とは又従兄妹の関係に当たり、同時に忠高は将軍家光と義兄の関係となった。
  • 慶長19年の大坂冬の陣では、京極忠高は高和とともに大坂城の東に当たる今福に陣を敷いており、和平交渉は京極陣所でもたれたという。
    この時、秀頼から名物にっかり青江」が贈られたというが、詳細は不明。「にっかり青江」の項を参照のこと。
  • 元和9年(1623年)に越前北之庄の松平忠直が配流され、いったんは光長が後を継ぐが、翌年に越後高田に移される。その後に松平忠昌が入ったが敦賀郡2万1190石は幕府領とされ、同年寛永元年(1624年)の冬に京極忠高に与えられ、小浜藩は11万3500石となった。
  • 寛永11年(1634年)、京極忠高は毛利氏に対する押さえとして、旧守護国である出雲・隠岐26万石として松江に加増転封されている。忠高は寛永14年(1637年)45歳で死去するが、嗣子がなく改易されかける。
  • しかし甥の高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許され、万治元年(1658年)には讃岐丸亀藩6万石に移封となり、幕末まで続いた。
    京極高和は、京極高次の次男安毛高政の子。なお高和は甥ということになっているが、実は京極忠高の実子であるという説がある。側室所生の子であったため、正室初姫の実家将軍家を憚り、甥ということにされたと言う。
  • 京極氏の後、小浜藩には徳川家譜代の重鎮である雅楽頭酒井家の酒井忠勝が12万3,000石で封じられている。

 刀剣

  • 秀吉の形見分けでは藤四郎の短刀を贈られている。これはどうも樋口藤四郎のことであると思われる。のち将軍件献上、紀州家下賜と同物か。

    大津宰相(京極高次) 吉光脇指 金子三十枚

樋口藤四郎
天正ごろ豊臣秀次へ献上されたものを高次が拝領した。息子の京極忠高が秀忠の四女初姫を娶り将軍家の縁戚となった際に献上されたものと思われる。明暦の大火で焼けた。
  • 関ヶ原の戦いの直前、家康は大津城に立ち寄り、京極高次と密談をしており、そこで藤四郎吉光の小脇指を与えたという。これは家康拝領の脇指として、大正8年(1919年)ににっかり青江京極正宗と同時に出展した藤四郎だと思われる。

    五年六月、上杉景勝御征伐として、(※家康公)大坂を立たせたまひ、十八日大津城に渡御あり、高次饗膳をたてまつり、室をよひ妹松丸、弟高知等拝謁し、このとき密に約したまふ事ありて、吉光の小脇指をたまひ、仰によりて高知を供奉の列に加へらる、高次も關東に發向せむことをこひたてまつるのところ、上方御心もとなし、大津ハ枢要の地たるにより、もし事あらむには、たのみおほしめさるゝのよし仰を蒙り、家臣佐々加賀某、龍崎圖書某、山田三左衛門某、山田大炊良利のち、多賀越中とあらたむ、赤尾伊豆某、黒田伊豫某、安養寺門齋、今村掃部某、友岡新兵衛某、其餘三十四輩拝謁をゆるされ、高次勢多まて、送りたてまつる、

にっかり青江
豊臣秀頼から京極高次に与えられ、嫡嗣忠高に始まる讃岐丸亀藩京極家に伝来した。重要美術品。丸亀市立資料館所蔵
京極正宗
秀吉から贈られたもの。高次の死後将軍家に献上されている。旧皇室御物三の丸尚蔵館所蔵
  • 関ヶ原の直前、長谷川守知が高次に郷義弘の短刀を贈っている。

 関連項目


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