樋口藤四郎


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 樋口藤四郎(ひぐちとうしろう)

短刀
朱銘 吉光
8寸

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    樋口藤四郎 長八寸 代七千貫 御物
    泉州堺樋口屋所持、石田治部少輔求めて秀次公へ上る、京極高次拝領にて若狭守殿へ伝え、家光公へ上る、返り少し。光心の朱判あり

  • 直刃、鋩子は焼き詰めに近かった。中心うぶ、目釘孔1個。本阿弥光心の「吉光」という朱銘があった

 由来

  • 堺の商人樋口屋(ひのくちや)の所持にちなむ。
    もとは肥前長崎の商人という。なお茶会記には「ひの口や」「樋口ヤ」という人物が登場する。金春座の太鼓打「ひの口や三郎左衛門」のほか、樋口屋紹札、樋口屋道閑など。

 来歴

 樋口屋→石田三成

  • 樋口屋から石田三成が金十三で買い求める。

 豊臣秀次

  • 天正(1573年~1592年)ごろ豊臣秀次へ献上する。

 豊臣秀吉

  • 秀次のあと秀吉の所持となる。

 京極高次

  • 慶長3年(1598年)8月に秀吉の遺物として京極高次が拝領

    大津宰相(京極高次吉光脇指 金子三十枚

    同年(慶長3年)八月十八日太閤於伏見薨御之時、為御遺物御脇指樋口吉光并黄金三十枚高次賜之号樋口吉光者、和泉攝津國境商人樋口屋所持之道具也、而石田治部少輔買取之、天正年中進秀次、秀次卒去之後被成太閤御道具云々

    寛政重脩諸家譜では、「三年八月太閤他界ののち遺物として樋口正宗の小脇指をあたへらる」とするが明らかに誤伝と思われる。

  • 関ケ原の後、若狭一国8万5,000石へ加増転封。さらに慶長5年10月に小浜に入り、翌年には近江国高島郡のうち7,100石が加増される。慶長14年(1609年)に京極高次死去。
  • 息子の京極忠高(若狭守、のち左近衛権少将)へ伝える。
  • 大坂夏の陣の後、忠高は出雲隠岐両国を領し、徳川秀忠の四女初姫を娶り将軍家の縁戚となる。「樋口藤四郎」は、この際に将軍家に献上されたものと思われる。
    初姫は慶長7年(1602年)生まれ、慶長11年(1606年)京極忠高に嫁いでいる。子はなく、寛永7年(1630年)3月4日に没。享年29。

 将軍家

 京極家

  • 京極忠高は45歳で死去、嗣子がなかったために改易されかけるが、甥の高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続、さらに万治元年(1658年)に讃岐丸亀藩6万石に移封となり、幕末まで存続した。
  • 京極家には、秀吉より拝領の「にっかり青江」、家康より拝領の粟田口吉光の短刀、さらに豊臣秀吉より拝領の短刀「京極正宗」などが伝わった。

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