肥後細川家の江戸藩邸

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肥後細川家の江戸藩邸  

  • 豊前小倉藩主、肥後熊本藩主であった細川家の江戸藩邸の成り立ちと贈答品のまとめ。
Table of Contents

龍ノ口上屋敷  

江戸城龍ノ口
慶長8年(1603年)~
龍口御屋敷

  • 【小倉初代 忠興(三斎)】
  • 慶長5年(1600年)1月26日、および8月21日、細川忠興は証人(人質)として三男忠利を江戸へ送る。6月19日には、会津に出兵する家康に従い従軍準備を整えている三男忠利に具足を送っている。

    (1月26日)丹後宮津の長岡忠興、其子光千代を江戸に質と爲す、

    (6月19日)丹後宮津の長岡忠興の子光千代、江戸に在り、徳川秀忠に從ひて陸奥會津に出陣せんとす、是日、忠興、之に具足を送る、尋で、光千代、歸國す、

    (8月21日)徳川秀忠、丹後宮津の長岡忠興の子光千代(後の小倉2代・熊本初代藩主の細川忠利)に偏諱を與へ、忠辰と稱せしむ、尋で、徳川家康、忠辰をして、江戸に居らしむ、

  • 慶長5年(1600年)11月9日、9月にあった関ヶ原の論功行賞により、細川忠興は丹後12万石から豊前国中津33万9,000石に加増転封される。豊後杵築6万石も安堵で、都合39万9,000石となる。初代小倉藩主。

    長岡忠興、弟同興元・老臣松井康之をして、豐前に入國せしめ、尋で、就封す、

  • 慶長8年(1603年)龍ノ口に屋敷地を拝領しており、その後、慶長9年(1604年)ごろまで普請作業をしている。※拝領は慶長7年とも。

    (是年)徳川家康、豐前小倉の長岡忠興に江戸に亭地を與ふ、

    今年慶長7年。於江戸、初而御屋敷御拝領被成候。
    考ニ、四月十日慶長7年忠利君に被進たる御書、并忠利組より立行長岡武蔵守に被下たる五月七日之御書等之趣に候得ば、當春之砌、御拝領被成哉。いづれの御屋敷なるべきか。或説に忠興君初而於江戸御拝領之御屋敷は愛宕下薮小路市内芝區之由。又一書に慶長八年とあるはいぶかし。又御上屋、忠興様御拝領の節までは空地にて候ゆへ地形あしく候。加藤主計頭清正様御拝領地は岡山に而候故、彼地より土を運び埋立候而、御屋敷に成候由。此時は只今の表御門の方三千坪ばかりも有之、其後段々御添地有之由と云々。是今の龍の口市内麹町區御屋敷と聞へ申候。此餘御屋敷之事、忠興君にも忠利君にも上中下など、所々に御屋敷有之たる御模様にて、御作事に付而も、思召之事等、數通の御書にも見へ候得共、いづれの所と申儀、其屋敷の成行もわかり不申候。将監橋市内芝區際の御屋敷は坪數も廣く有之たる由。乍然増上寺の隣にて、火災の憂無覺束を以て、光尚君に至、被差上、其替りに、今の白銀の御屋敷御拝領被成候。

    忠興の父である細川幽斎は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは田辺城に籠もり、西軍諸将を相手とした籠城戦を行っている。古今伝授が絶えることを惜しんだ後陽成天皇の勅使により開城、その後は京都吉田山に住したという。慶長7年(1602年)には三条車屋町に屋敷を移している。慶長15年(1610年)、京都三条車屋町で没。享年77。

  • 慶長9年(1604年)8月26日、忠興は将軍秀忠の意向を受けて三男の忠利を世子とする。これにより世子であった忠興(長岡休無)は細川家を出奔している。

    (慶長9年)豐前中津の長岡忠興の長子忠隆、父に忤ひ出奔す、

    世子であった長兄の忠隆は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に廃嫡(孫が長岡内膳家として一門家首座となった)されていた。忠利は江戸証人に出されており秀忠の信頼を得ていた。この忠利世子の決定に不満を持った次兄の興秋は、翌年の慶長10年(1605年)証人として江戸に向かう途中に細川家を出奔、京都建仁寺に入って剃髪。大坂の陣では豊臣方として戦うがその後自害した。

  • 慶長10年(1605年)4月8日に世子忠利(後の熊本初代藩主)、従五位下・侍従に叙任される。
  • 慶長14年(1609年)3月世子忠利、秀忠養女千代姫(保寿院。実は小笠原秀政の娘で、その母は松平信康娘の登久姫)との婚姻が決まり、23日伏見、4月24日中津城に着。
  • 慶長16年(1611年)10月13日頃、忠興は生母光寿院(沼田麝香)を江戸証人とする。

    是頃、小倉城主細川越中守忠興、母沼田氏を江戸証人とす、

  • 慶長19年(1614年)9月、台風被害で江戸屋敷破損。
  • 元和2年(1616年)江戸屋敷の普請。
  • 元和4年(1618年)7月16日、証人であった忠興生母の光寿院(沼田麝香)没。江戸証人は忠興の末弟細川興孝(元和3年正月13日生)となる。
  • 元和5年(1619年)2月15日、天千代(興孝)は秀忠に拝謁して江戸の上屋敷へと入った。

    豊前小倉城主細川忠興、第五子天千代「興孝」及び老臣長岡「松井」興長の母沼田氏を江戸に出して、証人と為す、是日、天千代、江戸に著す、沼田氏、病ありて、京都に滞留し、明年、江戸に到る、

  • 元和5年(1619年)4月21日、忠興帰国の暇乞い。守家(新藤五)の御刀および鷹・馬を賜う。
  • 元和5年(1619年)六丸(後の熊本2代光尚)豊前小倉にて誕生。生母は秀忠養女の保寿院千代姫。
  • 元和6年(1620年)閏12月25日、細川忠興は病気を理由に隠居し、三斎宗立と号す。家督は世子忠利が継いだ。

    豊前小倉城主細川忠興、致仕し、薙髪して、「三斎宗立」と号す、嗣子忠利、封を襲ぐ、尋で、忠利、江戸に抵りて、襲封の恩を謝す、

  • 【小倉2代・熊本初代 忠利】
  • 元和7年(1621年)正月7日世子忠利、登城して襲封の挨拶をする。※2代小倉藩主、初代熊本藩主。
  • 元和7年(1621年)三斎帰国の暇乞い。
  • 元和7年(1621年)世子光尚(忠利嫡子)御目見得のために江戸に下る。11月小倉發駕、24日大坂着、12月1日吉田発つ、14日江戸着。12月21日に秀忠および御台所に初御目見得。

    (12月14日)豊前小倉城主細川忠利、嫡子六丸「光尚、」を伴ひ、江戸に参覲す、是日、江戸に着す、

    十二月廿一日、奥にをいて、ハしめて台徳院殿をよひ御臺所にまみえたてまつる。時に三歳。

  • 元和8年(1622年)1月、三斎(忠興)は愛宕下に新邸を築き始め、完成後に三斎豊前中津を発ち、12月15日に江戸着。 ※以後三斎及び立孝の記事は愛宕下屋敷の項に記載。
  • 元和8年(1622年)12月23日、忠利、越中守に任じられる。

    豊前小倉城主細川忠利、越中守に任ぜらるゝに依り、秀忠に謁して、恩を謝す、尋で、父三斎「忠興」も亦、秀忠に謁して、恩を謝す、

  • 元和8年(1622年)この頃の龍口屋敷は、三斎(忠興)の中屋敷、忠興嫡子で2代藩主細川忠利の上屋敷、光寿院(忠興生母の沼田麝香)の屋敷があった。
     細川幽斎─┬細川忠興─┬細川忠隆(長岡休無)──長岡忠春──長岡忠重(忠季)──長岡忠英【細川内膳家】
          │     ├細川興秋(→細川興元養子)
          │     ├細川忠利[熊本藩初代藩主]──細川光尚[2代]
          │     ├細川立孝──細川行孝[宇土藩初代藩主]──細川有孝[2代]
          │     ├細川興孝【細川刑部家】
          │     └松井寄之(→松井興長養子)
          │
          ├細川興元[常陸谷田部藩初代藩主]─┰興昌[2代]──興隆[3代]
          ├伊也(一色義定のち吉田兼治室)  ┗興秋
          ├細川幸隆[豊前竜王城主]
          └細川孝之(細川休斎)[豊前香春城主]
    
  • 【忠利熊本転封】
  • 寛永9年(1632年)11月2日、細川忠利は豊前小倉から肥後熊本54万石に加増転封される。三斎はうち9万5,000石(うち三斎3万7千石、立充3万石、興孝2万五千石)を隠居料として要求し、八代城に入った。
  • 寛永9年(1632年)12月29日、松平新太郎(池田光政)の屋敷から起こった火事の類焼により焼けてしまう。忠利は芝下屋敷へ移っている。
  • 寛永10年(1633年)、興孝(忠興子)は元服して形部少輔と改める。
  • 寛永10年(1633年)正月、上屋敷の作事に先立ち、将来の将軍御成に備えて拡張するために近隣地の拝領を願うがこれは叶わず、この時の屋敷は忠利の妻である保寿院千代姫(徳川秀忠の養女。小笠原秀政の次女)及び世継の六丸(後の細川光尚)の屋敷となった。※のち御成は芝の下屋敷に行われている。
  • 寛永12年(1635年)正月、忠利は熊本、三歳は八代、光尚は江戸に居た。

    是年正月、忠利ハ熊本、三歳ハ八代、光尚ハ江戸ニアリ。

  • 寛永12年(1635年)7月23日世子光尚、御前にて元服。従四位下・肥後守に叙任され、光忠の御刀拝領。三斎も召され、左安吉短刀(忠興譜による。寛永日記では脇指行光拝領)を拝領する。正恒太刀献上。

    家光、肥後熊本城主細川忠利の嫡子六丸を召して、殿中に加冠せしめ、偏諱を与へ、光尚と称せしむ

  • 寛永17年(1640年)、2月26日に世子光尚熊本を発ち、3月12日大坂、3月27日江戸に着。5月18日熊本初代忠利が江戸を発ち、6月12日に熊本着。興孝は300人扶持を残して領地・家臣を返上する。
  • 寛永18年(1641年)3月23日熊本藩初代藩主の忠利没。享年55。同年3月23日、世継の光尚は病気の報を聞き帰国の挨拶をして熊本へ戻りかけるが、その途中に訃報が届いたため江戸に引き返す。

    壬辰、熊本城主細川忠利、卒す、子光尚、嗣く、家臣十九人殉死す、

  • 【2代光尚】
  • 寛永18年(1641年)5月5日、嫡子光尚(忠利子、忠興孫)が家督を継いだ。6日に光尚襲封の挨拶。父忠利の遺物行光の脇指、正宗の短刀を献ず。
  • 寛永19年(1642年)5月1日、2代光尚帰国の暇乞い。
  • 正保2年(1645年)三斎(忠興)八代で没、享年83。

    庚辰、熊本城主細川光尚祖父前参議従三位細川忠興薨、殉死者四人、

  • 慶安2年(1649年)12月26日光尚死去。嫡子綱利が跡を継いだ。

    辛亥、熊本城主細川光尚卒す、家臣殉する者十一人、子綱利嗣く、幕府、老中松平信綱を遣はし、賻を贈る、尋て綱利、幼なるを以て、朽木稙綱等を肥後に遣はし、國事を措置せしめ、國制十二條を頒ち、目付を置く、

  • 元禄11年(1698年)9月6日龍ノ口上屋敷が勅額火事により焼失。東側に1500坪を増地して再建している。
  • 安永元年(1772年)明和9年(1772年)2月29日の明和の大火により焼失。
    後桃園天皇即位及びこのときの火事などを受け、同年11月16日に元号が明和から安永へと改元された。

明治後  

  • 現在丸の内オアゾがある場所で、オアゾのエントランスホールには細川家屋敷の柱や壁、扉などの配置が現れている。

細川三斎の中屋敷  

江戸愛宕下
~元禄16年(1703年)
愛宕屋敷

  • 愛宕下にあったため愛宕屋敷とも。

    愛宕下屋敷
    拝領年月不詳。但寛永十六年己卯八月細川三斎四男細川中務立孝証人トシテ在江戸ノ時、三斎ト一所ニ此屋敷住居、爾来立孝子孫宇土支封代々居住。元禄十六年未九月幕命ニヨリ屋敷住居召上ラレ、下谷ニテ替地拝領。

    上記、龍ノ口上屋敷内にも三斎の中屋敷があったとされ、ある時期には2つあったことになるが詳細は不明。
  • 恐らく現在の虎ノ門ヒルズ森タワーの北隣のブロック虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー(森ビルが建設中、2019年完成予定)の敷地東半分程度であると思われる。

    三斎小路 藪小路より南の小路なり。前に記すごとく、加藤氏屋舗は昔細川三斎の屋舗なりしゆへ、呼名とせしなるべし
    (御府内備考 愛宕下)

  • 元和5年(1619年)に嫡子細川忠利(熊本藩初代)に家督を譲った後の、細川忠興(号 三斎)の隠居屋敷。三斎の子の細川立孝、細川行孝が継いだ。

愛宕下屋敷の建造  

  • 元和8年(1622年)1月、三斎(忠興)は愛宕下に新邸を築く。

    豊前小倉城主細川忠利の父三斎、「忠興、」江戸に新亭を営む、

    正月十七日之御状も相届候、愛宕下我々屋敷之儀被申越候、如此桑左近(桑山貞晴)ゟ申來、事済申候、其状者舊冬状、當正月之書中ニ未済之由被申越候、如何之相違候哉、不審ニ存候、恐々謹言、
                  三斎
     二月十七  宗立(花押)
      内記殿(細川忠利)

    此御作事、(元和8年)三月ゟ初り九月ニ成就いたし候

  • 元和8年(1622年)11月19日三斎豊前中津を発ち、12月15日に江戸着。此の時側室の圓通院幾知も伴っている。

    十一月十九日、晴、次豊前ゟ三斎上洛也、江戸へ御下向之爲也、次之女中(清田氏)同道ニて御下之義也

    (12月)三日、晴、早天、三斎江戸へ発足、女中、次水口之辰御料人同道ニテ下也、江州草津ニ一宿聞也

    是より先、豊前小倉城主細川忠利の父三斎、「忠興、」江戸愛宕下の新亭竣るに依り、豊前中津を発す、是日、江戸に着す、

  • ただし直接中屋敷には入らず、登城して挨拶した後に一度上屋敷に入り数日を過ごし、中屋敷に移った。

    十二月十五日、江戸御着、先御上屋敷二三日被成御座、中御屋敷御移被成、圓通院清田主計鎮乗入道寿閑娘、立孝主・興孝主、此腹なり(※幾知のこと)も御下り也、三斎君御登城被成候へハ、秀忠公上意に、今度ハ寒氣之時分太儀候、其上てん(天=興孝)か母(幾知)も御つれこし、御満足被成候由也、御請に、御乳同然之者御座候、達上聞雖有奉存候と、被仰上候

  • 寛永2年(1625年)10月1日、三斎帰国の暇乞い。秀忠より「清水藤四郎」を拝領する。

    台徳院殿より點茶をたまひ、清水藤四郎吉光の御脇指を拝賜し、馬をひかる。

  • 寛永5年(1628年)2月7日、三斎帰国の暇乞い。

    豊前小倉城主細川忠利の父同三斎「忠興」・備前岡山城主池田忠雄、帰国の暇を給せられ、物を家光に進む、是日、家光、之に答ふ、

  • 寛永6年(1629年)11月29日三斎上洛。のち江戸へ発つ。

八代入り  

  • 寛永9年(1632年)12月、忠利の肥後熊本城入部に伴い、三斎(忠興)も八代城に入ることとなり、建物は寛永10年(1633年)ごろに上屋敷ほかに移築された。
  • 寛永11年(1634年)12月、立充(立孝)は八代において、五条為適の娘鶴(恵照院)と婚姻する。
  • 寛永12年(1635年)8月21日、三斎帰国の暇乞い。

    家光、肥後熊本城主細川忠利の父宗立「三斎」に、帰国の暇を与ふ、宗立、辞見す、其退出に当り、玄関より直に肩輿に乗るを許す、

  • 寛永15年(1638年)9月7日、将軍家光が江戸城二の丸で茶会を催し、三斎を饗応する。

    家光、江戸城二ノ丸に茶会を設け、肥後熊本城主細川忠利の父宗立「三斎」を饗す、

八代の跡継ぎ問題  

  • 寛永15年(1638年)八代の跡継ぎ問題が起こる。三斎(忠興)子の興孝と立充(立孝)との間で確執が生まれるが、興孝の浪費癖もあったため父三斎との関係が悪化。三斎は興孝の代わりに立充(立孝)を江戸へ下すことを検討し始める。
  • 寛永16年(1639年)2月6日に三斎は八代を発ち、4月4日に江戸着。立充(立孝)も八代を発ち、8月21日に江戸着。9月20日に立充(立孝)は家光に御目見得。中務大輔と称し、諱を立孝と改める。

    廿日細川忠興入道三斎が四子中務大輔立孝初見し奉る。

              ┌多羅(稲葉一通室)
              ├細川忠隆【長岡内膳家】
    明智光秀─ガラシャ ├細川興秋
           ├──┴細川忠利【熊本初代】──細川光尚
         細川忠興──細川興孝【細川(長岡)刑部家】
           ├───細川立孝──行孝【宇土藩初代】
    清田鎮乗─圓通院幾知
    
  • 寛永16年(1639年)8月忠利は立孝を江戸証人にする。細川立孝は将軍に拝謁後に還俗し、細川氏の証人となりこの愛宕屋敷に入っている。

    熊本城主細川越中守「細川忠利」、弟立孝を江戸証人として、父三斎「細川忠興」の愛宕下屋鋪に在り、仍りて之を居邸とす、 

  • 寛永16年(1639年)11月19日、三斎帰国の挨拶。

    十九日細川忠興入道三斎歸國の辭見し奉り。五條三位俊成卿。京極中納言定家卿兩筆の書幅を御てづから給はる。

  • 寛永16年(1639年)閏11月5日三斎江戸を発ち、17日に山城吉田着。そこで越年。翌寛永17年(1640年)7月4日に三斎京を発ち、7月18日に八代着。いっぽう興孝は17年正月4日に江戸を発ち、2月4日伏見。2月28日船中で剃髪し、3月21日熊本着。
  • 寛永20年(1643年)に三斎が病になると、立孝に帰国の暇が出ている。三斎は遺物を献上。

    家光、細川立孝に帰國の假を給し、父忠興の病を看護せしむ、忠興、老病終に起つ能はさるを知り、家臣長岡河内を江戸に遣し、遺物を献す、

宇土藩成立  

  • 正保2年(1645年)閏5月11日、立孝が江戸で没。家督は嫡子行孝(後の宇土藩初代藩主)が継いだ。
    三斎忠興は、当初可愛がっていた四男の細川立孝(従五位下、中務大輔。生母は圓通院幾知)に八代城を譲ろうと考えていたが、立孝が正保2年(1645年)閏5月に急死したため、この計画は頓挫した。
  • 正保2年(1645年)12月2日、三斎八代で没。享年83。
  • 三斎の画策した八代の分藩化は2代光尚により覆され、立孝の子(三斎孫)の細川行孝は正保3年(1646年)6月11日に宇土3万石へと移され宇土藩初代藩主となった。光尚は自ら宇土陣屋建設地を見聞し、正保4年(1647年)9月頃に陣屋が完成すると同月下旬に八代城から移転している。

    (正保二年閏五月十一日)壬戌、細川立孝卒す、子行孝嗣く、後、幕府、熊本城主細川光尚の請を允し、三萬石を分ち、同國宇土に居らしむ、

    宇土細川家
    兄の忠利の子孫である肥後細川氏の嫡流は7代藩主細川治年で途絶え、立孝の子孫の立禮(斉茲)が宇土細川家から宗家(熊本藩主家)に入って本家を継ぎ、熊本藩8代藩主となった。これにより細川宗家でのガラシャ(明智玉)の血は絶え、圓通院幾知の血統へと入れ替わることとなった。
     宇土藩江戸屋敷は、永田町上屋敷、愛宕下および神保小路に中屋敷、白銀猿町に下屋敷があった。

  • 八代城には対島津家の重要性を鑑みた幕府の意向もあり、熊本藩家老の松井氏が置かれた。いっぽう興孝は再び2万5千石を与えられて一門として遇され、長岡(細川)刑部家として幕末まで続いた。
  • 明暦江戸大絵図では三斎屋敷は「細川丹後」と書かれているが、これは三斎忠興の孫である細川行孝(従五位下、丹後守)を指している。行孝の叙任は承応2年(1653年)12月。

愛宕下上地  

  • 元禄16年(1703年)9月、愛宕下の屋敷地を上地し、替地として下谷屋敷地を拝領する。

    元禄十六年未九月幕命ニヨリ屋敷住居召上ラレ、下谷ニテ替地拝領。

  • その後、この愛宕下の屋敷地には正徳4年(1714年)に近江水口藩加藤氏が上屋敷を構えている。しかし屋敷前の小路は「三斎小路」という呼び名で呼ばれていたという。
    三斎小路は、現在の虎ノ門ヒルズ森タワーと虎ノ門ヒルズ ビジネスタワーの間にあった通り。虎ノ門二丁目交差点東側から西新橋二丁目西交差点付近まで。

    藪小路
    なお虎ノ門ヒルズ ビジネスタワーの北側の通りは「藪小路」と呼ばれていたが、これも細川家にちなむという。三斎屋敷の北東隅に小さな竹やぶがありそこで秘蔵の鷹が死んでしまったため、それ以後は竹藪を切らずに残したためともいう。※「藪金神」がなまったという異説あり。
     江戸名所図会の藪小路の項にも、「慶長より寛永の頃に至り細川三斎侯此地に住せられ、その庭中の小池を三斎堀と號くといふ」と記す。

芝下屋敷  

江戸芝
寛永4年(1627年)ごろ~正保元年(1644年)

  • 増上寺の南隣り。将監橋の近くにあったため、将監橋屋敷とも。
  • 寛永4年(1627年)ごろに屋敷地拝領。
  • 寛永9年(1632年)に上屋敷が類焼した際には、忠利はこの芝屋敷に移っている。当初龍ノ口上屋敷に御成御殿を建てる予定であったが敷地の狭さから断念し、この芝下屋敷に建てることとなった。
  • 寛永10年(1633年)御成屋敷の作事。
    しかし寛永14年(1637年)~寛永15年(1638年)の島原の乱、寛永18年(1641年)の忠利の死などもあり、結果的に芝下屋敷への御成はなかった。
  • 正保元年(1644年)より白金の屋敷地を下屋敷とし、この芝下屋敷の地は上地している。

浜町下屋敷  

江戸浜町
3200坪
文化3年(1806年)~

  • 現在の浜町公園(日本橋浜町二丁目)。
  • 松平周防守屋敷のあった場所を、文化3年(1806年)に拝領した。

    濱町二丁目にあり。舊熊本藩主細川越中守が嘉永年間外患頻りなる時、幕府の命を受けて浦賀・本牧等の海岸防護の勲功により、安政三年幕府より水野河内守中屋敷の内六千坪の地を賞賜せられしものに、後年隣接の地をも多く買添へて別邸となし、

  • 下屋敷が置かれていた場所。
  • 文久元年(1861年)に8代藩主細川斉護により、熊本市日蓮宗本妙寺から勧請された加藤清正を祀る清正公寺がある。

明治後  

  • 明治も細川家の邸宅があった。

    維新後に至りて之を本邸と定め、明治三十六年よりは細川侯弟たる長岡子爵此所に居住するに至れり。

  • のち浜町公園として整備され、昭和4年(1929年)に開園した。

    本園の經始は水野氏の老中在職中にかゝり、諸藩より寄贈の珍岩奇石多し。池中に松島と稱する一小島あり。老松蟠々として營ふ。これ三代將軍元服の際、遠く舞子より取寄せて鉢植となし、之を水野出羽守に賜ひ、更に此所に植替へたるものなりといふ。此島に鎮守を祭る。中島にも細川侯遺愛の松樹あり。維新變革後、勤儉の主意により庭園の幾分を毀ちしも、其の後又修補する所あり、儼として市内屈指の名園たり。

白金下屋敷(中屋敷)・抱屋敷  

江戸三田村
1万9388坪
正保元年(1644年)~

  • 現在、高輪皇族邸および港区立高松中学校などになっている一帯に存在した。
  • 伊皿子中屋敷。
  • 寛永21年(1644年)2月27日より下屋敷として利用される。のち中屋敷。この時、芝屋敷地は返上している。

    熊本城主細川肥後守「細川光尚」、下屋鋪を三田村に賜ふ。所謂白銀邸なり。是時、芝将監橋下屋鋪を返上す、 

    伊皿子臺中屋敷 白金屋敷ト稱ス。文政十年閏六月中屋敷ト唱替
    正保元年二月廿七日細川肥後守光尚、芝屋敷増上寺南隣将監橋南替地トシテ拝領。故ニ始メハ芝屋敷ト唱フ。宝永三年四月ヨリ白銀屋敷ト改メ、今白金トナル。
    坪數拝領地貳萬五千坪八号二勺五才。
    抱屋敷年貢地四千三百八十八坪。
    今貳萬九千三百八十八合貳勺五才一圍トナル。

  • 正保3年(1646年)12月、町屋敷を購入する。

    熊本城主細川肥後守「細川光尚」、芝田町に町屋敷を購求す、

    芝田町七丁目下屋敷
    七百貳坪 正保三年十二月求之
    三百坪 元禄八年三月求之
    貳百三拾四坪 元禄八年五月求之
    右屋敷トの分町人名代ニテ求置、家来指置也。

  • 明暦3年(1657年)には玉川上水から水を引き入れている(細川上水)。
    寛文4年(1664年)には三田上水(、、)が整備されて周辺農地に給水された。さらに元禄11年(1698年)に将軍綱吉の白銀御殿(麻布御殿、富士見御殿)が造成される際には三田上水から白銀分水が整備され給水設備として使われている。のち将軍吉宗の代、享保7年(1722年)に細川・三田を含む青山・千川・亀有の各上水が廃止されるが、享保9年(1724年)に周辺農民からの要望により、細川・三田の2つの上水路が拡幅されて一本化し、三田用水(、、)となった。
  • 元禄16年(1703年)2月4日にて赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した場所で、大石良雄外十六人忠烈の跡が残る。また跡地北側にはスタジイの老木が残っており、「旧細川邸のシイ」として昭和36年(1961年)1月31日に東京都の天然記念物に指定。
  • 宝永3年(1706年)4月より「白銀屋敷」と呼ぶ。
  • 延宝4年(1676年)10月27日に細川綱利は白金邸門前に添地を得る。

    是頃、熊本城主細川綱利、白金邸門前に添地す

    十月廿八日延宝四年江戸被差立十一月十九日着御用状之内、白金御屋敷御門前明地御願相済候段申来候。追書、

明治後  

  • この伊皿子下屋敷は明治に入ると皇室の御料地となり、昭和天皇が一時期東宮御所としていたこともあった。その後、高松宮宣仁親王が麹町区三年町(現在の千代田区永田町)にあった有栖川宮邸からこの地にあった高輪御殿へと移転している。太平洋戦争後に宣仁親王の意向を受けて縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪アパートなどが建てられた。残った敷地内にあった本館も、「光輪閣」として改装のうえ一般開放され、結婚式場などに貸し出された。
  • 光輪閣を出た宣仁親王夫妻は、敷地内に小さな木造平屋の邸宅を建てて居住していたが、光輪閣が老朽化によって1972年(昭和47年)に取り壊されると、翌年、跡地に再び平屋建の宮邸本館を建設し、2004年(平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。現在、宮邸敷地および邸宅は高輪皇族邸として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。
  • 2017年12月、今上天皇(明仁)の2019年5月の譲位後に設置される予定の仙洞御所改修(従来の東宮御所を、上皇の宮廷に転用する)までの御假寓として使用が検討されていることが発表された。

目白台御屋敷  

江戸目白台

  • 現在の文京区目白台の肥後細川庭園(旧新江戸川公園)のある一帯。
  • 幕末に細川家の下屋敷となる。
    この地は、江戸中期から旗本の邸地が置かれ、その後御三卿の清水家や一橋家の下屋敷となっていた。

明治後  

  • 明治15年(1882年)に細川家の本邸として利用された。
  • 昭和11年(1936年)、細川家16代当主の細川護立が自邸を再建する。この建物は美術的価値が高く、今日、財団法人和敬塾本館として使用されている。
  • また敷地内に事務所として建てた建物は、その後「永青文庫」として利用されている。昭和47年(1972年)17代当主細川護貞の時に一般公開されるようになった。
  • 南側の神田川に面するエリアは昭和35年(1960年)に東京都に売却され、翌年から「新江戸川公園」として開放された。昭和50年(1975年)に文京区に移管され、改修された後に公募により名称が変更され、2017年3月に「肥後細川庭園」となった。目白台からの湧水が豊富な地点で、江戸時代の大名屋敷の回遊式泉水庭園の雰囲気を現在でも楽しむことが出来る。

戸越屋敷  

江戸戸越
3万3309坪(拝領地7200坪+御抱御年貢地26109坪)
寛文2年(1662年)~文化3年(1806年)

  • 現在の品川区戸越一帯。

入手の経緯  

  • この戸越藩邸は入手経緯が少し入り組んでいる。
  1. 3代藩主細川綱利の弟、細川利重が拝領し整備
  2. 遠方を理由に細川宗家と交換
  3. 細川宗家で別荘屋敷として整備

利重への拝領  

  • 寛文2年(1662年)3代藩主細川綱利の弟、細川利重(若狭守)が荏原郡戸越村に屋敷地を拝領。
    細川利重(ほそかわ とししげ)
    細川利重は細川光尚の次男。万治3年(1660年)に従五位下、若狭守に叙任される。寛文6年(1666年)に兄の綱利より3万5千石を分与され、熊本新田藩主として立藩した。利重の次男の細川宣紀(利武)は、細川綱利の嫡子だった吉利が早世したため養嗣子となり、のち熊本藩4代藩主となった。
     熊本新田藩(高瀬細川家)は幕末まで存続した。江戸定府で参勤交代は行わない。慶応4年(1868年)に仮藩庁を高瀬町奉行所(現在の玉名市)に置き、高瀬藩と称した。明治3年(1870年)に熊本藩に合併し廃藩。なお熊本新田藩(高瀬藩)11代藩主の養嗣子で子爵となった細川利文は、「熊野三所権現長光」や「石灯籠切虎徹」を所持している。
  • 一説に、拝領は寛文3年(1663年)とも。この入手年については細川家でもわからなくなったため調べており、寛文2年(1662年)と結論づけている。

    一、寛文三癸卯年五月廿三日、於荏原郡戸越村屋敷地七千貳百坪拝領仕候。
    一、三月廿七日寛文二年若狭守殿御屋敷戸越村ニて相渡候儀ニ付、翌廿八日有吉頼母より御國に遣候状之内ニ、
     内々御望被成候若狭様御屋敷相済、昨七日ニ御地割奉行城半右衛門殿、本郷庄三郎殿、喜多見五郎左衛門殿御出候て、御望屋敷地三ヶ所之内、一番望ミ戸越村之御屋敷百五拾間四方、御渡被成候。三ヶ所の内ニては戸越村の御屋敷勝申候ニ付、太守様別て御大慶思召候。目出度儀御同意ニ御座候事。
    四月三日
    一、若狭守様御拝領屋敷、去月廿七日ニ御渡被成百五拾間四方請取、先日其段申入候。然處ニ去朔日美濃守様稲葉正則へ梅原九兵衛を被召寄被仰候て若狭守様御屋敷之儀、美濃守様又ハ地割御奉行衆も少ハ御無念ニて百五十間四方御渡被候成候。若狭様並之御衆にハ七十間ニ八十間ならてハ御渡不被成候、然ども此御屋敷ハ遠方と申、其上別ニ御屋敷も無之ニ付、八拾間ニ九拾間御渡候、此儀美濃様御無念ニ被成候て、其儘百五十間四方方可被成御渡候得共、已来も殿様若狭様の御用を爲可被成御聞美濃様御無念ニ不被成、八十間ニ九拾間御極被成候、左様ニ御心得可被成候、如何様殿様へ被成御逢御迷惑被成候通可被仰候由、美濃様被仰候旨御座候。右之段最前申入候相違仕候間、如斯候。其御心得可被成候事。
    一、五月廿三日寛文三年荏原郡戸越村之内ニて宅地七千二百坪若狭守殿に賜り候。
     按戸越村御屋敷之儀、寛文二年寅三月廿七日若狭守殿拝領と有之、其時有吉頼母より御國に遣候書状之書抜も有之候。然るに又翌三年卯五月廿三日拝領と此所ニも有之、別御屋敷なるか、又同御屋敷なるか、また同御屋敷を前年地割等相済居、翌年表立て拝領と被仰出さるニても候哉、不審ニ付、御書方問合候處、左之通御記録之内書抜来る。
     一、綱利年譜ニ寛文二寅年戸越屋敷拝領ノ由見ユ。此拝領地始ハ七千貳百坪也。細川利重記録ニハ、寛文三年卯五月廿三日於戸越村七千貳百坪利重拝領ト記。此記ニ豫ル時ハ、此屋敷利重拝領ニテ、其後綱利替地ニ成候ト見ヘタリ。両説何レカ是ナルカ猶可考。
    右ノ通ニ候得と、利重主之記録之趣、此所本文の通と相見え申候。然れとも頼母より之書状も有之候へハ、寛文二年寅三月廿七日利重主拝領ニ紛れ無之と相見申候。併寛文二年同三年之内、二所ニ拝領と出居候譯合に相分不申候。

戸越上水の整備  

  • 利重は、庭内の泉池用水として1663年(寛文3年)から翌年にかけて仙川用水から分水して戸越上水を整備している。
    仙川用水は江戸初期の開削で、玉川上水から仙川組四ヶ村の水田への用水路として整備された。利重の時にこの仙川用水から分水を受けて戸越上水を整備。寛文6年(1666年)に戸越上水は廃止されるが、品川領二宿七ヶ村がこれを灌漑用水として利用したいと要請した。翌年にこれが認められると、寛文9年(1669年)に水路を拡幅するなどの整備が行われて品川用水となった。昭和に入ると灌漑用水としての役割を終えて暗渠化され、昭和25年(1950年)頃には埋め立てられた。
  • しかし利重は、この地が遠方であることを理由に綱利の白金屋敷に替地をもらって交換し、さらに寛文9年(1669年)には本所猿江村に抱屋敷を求め、そこに居住した。

別荘屋敷としての整備  

  • そこで細川家では、この戸越の屋敷地を別荘屋敷として整備することとなった。
  • 寛文11年(1671年)数寄屋風御殿と広大な庭園を含む屋敷が完成。
  • 延宝6年(1678年)10月18日に屋敷内の茶屋から発生した火事で焼失。
  • 天和2年(1682年)屋敷地の西側は周囲の村々に返還している。

上地・相対替  

  • 元禄13年(1700年)拝領地7200坪のうち3730坪を幕府に返上する代わりに、本所猿江村の細川利昌(利重の子)の抱屋敷を拝領屋敷として取得し、細川利昌の拝領地である白金屋敷との交換を計画した。しかし返上した土地はそのまま細川家の預かり地となり、細川家が管理することとなった。宝暦8年(1758年)にこの拝領地を幕府へ返上し、この地は姫路藩主酒井忠以の屋敷、大番頭岡部長貴の下屋敷、旗本西郷斎宮の屋敷へと移っていった。
  • また拝領地の残り半分は、文化3年(1806年)に浜町にあった浜田藩松井康定(松平周防守)の下屋敷と交換したため、ここで細川家の戸越の屋敷地はすべてなくなった。

明治後  

  • 現在は多くが住宅地となっているが、戸越公園と旧国文学研究資料館の池にその面影が残る。

その他  

木挽町
嘉永2年(1849年)までに取得。
元は丹後峰山藩京極主膳正の屋敷地で、その南半分が文化11年(1814年)頃に大久保加賀守の屋敷地となっていたもの。
三田新堀

元禄十一年戊寅六月十日屋敷拝領之儀綱利よて奉願置候處、十月十八日利武(細川宣紀)依召登城、於三田新堀、屋敷地被下置旨、被仰渡候。

麹町
宇土藩細川山城守の上屋敷。
両国浜町
谷田部藩細川長門守の屋敷
京橋南築地
肥後新田藩細川若狭守上屋敷
愛宕下
宇土藩細川豊前守中屋敷
本所
肥後新田藩細川若狭守下屋敷2ヶ所
谷田部藩細川玄蕃下屋敷
本所深川
熊本藩深川御屋敷
肥後新田藩細川若狭守下屋敷
下谷
細川興生(宇土藩の3代藩主)、4315坪。元禄16年(1703年)9月25日

今度愛宕下居屋敷御用被召上候貯め代地、下谷牧野周防守殿上ヶ屋敷細川熊次郎致拝領、

目黒白金
熊本藩下屋敷。現在は目黒雅叙園
宇土藩細川山城守下屋敷

関連項目