相馬兼光


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 大相馬兼光(そうまかねみつ)


二尺七寸五分

  • 兼光
  • 「大相馬兼光」
  • 享保名物帳所載

    大相馬兼光 象嵌銘長二尺七寸五分 代金六十枚 大久保加賀守殿
    相馬惣領家の由七郎左衛門と申者所持、銘判光徳象嵌、大久保加賀守殿に前有之、細川越中守殿より極めに来る、右五十枚表裏樋。

  • 詳註刀剣名物帳

    相馬七郎左衛門の事所見なし、陸奥相馬義胤の同族なるべし、大久保加賀守は相模守忠隣の子孫なり、代々相州小田原を領す、細川越中守とこゝにあるは越中守宗堯(細川宗孝か)なり。

 由来

  • 相馬七郎左衛門所持にちなむ。
  • 元和のころ、小田原城主大久保氏の家臣に相馬長四郎というものがいた。長四郎の先祖七郎左衛門旧蔵だったため、「相馬兼光」、特に長大であったため「大兼光」とも呼ばれた。

 来歴

  • 相馬七郎左衛門所持。本阿弥光徳に命じて二尺七寸五分に磨上させ、「兼光磨上 光徳(花押)」とさらに七郎左衛門の所持銘も入れさせている。
  • 後に藩主の大久保加賀守が所持。
  • 寛文5年(1665年)本阿弥光温に鑑定に出され、千貫の折紙をつけて返している。
  • さらに熊本藩主細川越中守(5代藩主細川宗孝か)に伝わり、それまで千貫(金五十枚)だったものが金六十枚へと極められた。
    細川宗孝は延享4年(1747年)8月15日に月例拝賀式に在府の諸大名が総登城した際、大広間脇の厠に立った時に旗本寄合席7,000石の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ絶命するという椿事が出来した。まだ31歳の宗孝には世継ぎは生まれておらず、養子も立てていなかった。殿中での刃傷にはただでさえ喧嘩両成敗の原則が適用される上、世継ぎまで欠いては肥後54万石細川家は改易必至だった。ここでたまたまそこに居合わせた仙台藩主伊達宗村が機転を利かせ、「越中守殿にはまだ息がある、早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。家臣たちは、宗孝を城中から細川藩邸に運び込み、その間に藩主舎弟の紀雄(のちの6代藩主重賢)を末期養子として幕府に届け出た。そして翌日になって「藩主(宗孝)は介抱の甲斐なく死去」と報告、その頃までには人違いの事情を幕閣も確認しており、細川家は事無きを得た。※板倉勝該は切腹。
     この事件は細川宗孝に非はなく、たまたま細川家の「九曜」紋が板倉宗家の「九曜巴」紋とよく似ていたことから人違いで起こった事件であった(宗家の板倉勝清は勝該を致仕させ自分の庶子にその跡目を継がせようとしていたという)。そこで細川家では九曜紋の星を小さく変更した他、通常裃の両胸・両袖表・背中の5ヵ所に家紋をつける「五つ紋」に両袖の裏側にも1つずつ付け加えて、後方からでも一目でわかるようにした。この細川家独特の裃は「細川の七つ紋」と呼ばれて、氏素性を明示する際にはよく引き合いに出される例えとなった。
  • 享保名物帳では「大久保加賀守殿」とするが、その場合細川家から大久保家に戻ったことになるが詳細は不明。

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