稲葉重通


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 稲葉重通(いなばしげみち)

安土桃山時代の武将、大名
勘右衛門
従五位下、兵庫頭
春日局の養父

Table of Contents

 生涯

  • 稲葉重通は高名な稲葉一鉄(良通)の庶長子として生まれる。
  • 春日局(福)の叔父にあたり、養父となる。
    春日局は、父が斎藤利三、母が稲葉一鉄の娘。斎藤利三は明智光秀の重臣となるが本能寺の変後に捕らえられ処刑される。春日局は母の父稲葉一鉄の庶長子である稲葉重通(つまり叔父)の養女となる。この稲葉重通の子で、外祖父の牧村氏を継いだのが牧村利貞であり、その娘が祖心尼である。

 武将として

  • 稲葉重通は、はじめ織田信長に馬廻として仕え、1万5000石。
  • 本能寺の変の後、父一鉄や弟らとともに秀吉の家臣となり、馬廻りを務める。
  • 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに参加し、その功績で河内国内に知行を加増される。天正13年(1585年)7月、従五位下・兵庫頭に叙任され、同年8月には一時的ながら姉小路氏滅亡後の飛騨の一国支配を任されている。
  • 天正13年(1585年)、後に享保名物となる郷義弘作の刀を磨上げ本阿弥光徳に金象嵌を入れさせている。後に家康から結城秀康へと渡り、「稲葉郷」の名で呼ばれることとなる。現国宝

 別家

  • 天正16年(1588年)に父一鉄が死去するが、家督は嫡男で異母弟の稲葉貞通が継ぐこととなり、庶長子であった重通はこれとは別に美濃清水に1万2000石を与えられ大名となった。
  • 秀吉の晩年には御伽衆となり、慶長3年(1598年)10月3日に死去。跡を子の稲葉通重が継いだ。
    • なお異母弟・稲葉貞通の家系は、外様大名稲葉家として代々豊後国臼杵藩を領し明治維新を迎えた。

 名物

 系譜

           前田直知(前田対馬守家)
     前田利家    ├────前田直知
       ├────┬幸      ├─前田直正
     芳春院まつ  └前田利長   │
                    │
 稲葉一鉄─┬稲葉重通─┼稲葉通重   │
      │     ├牧村利貞──祖心尼      徳川家光  
      │     ├一宙東黙   ├──おたあ    ├──千代姫
      │     └娘     町野幸和 ├───お振の方   ├──尾張綱誠
      │      │          │        尾張光友
      │      │ 石田三成─娘   │
      ├稲葉貞通  │      ├──岡吉右衛門
      │ 【臼杵藩】│    ┌岡重政
      │      │    └岡左内
      │      稲葉正成
      └娘     ├───稲葉正勝──稲葉正則(相模小田原藩)
       ├─────春日局
 斎藤利賢┬斎藤利三
     └石谷頼辰
      ├───娘
 石谷光政┬娘   │
     └娘   ├──娘
      ├──┬信親 │
   長宗我部元親├親和 │
         ├親忠 │
         └───盛親

 子:稲葉通重(いなばみちしげ)

  • 子の稲葉通重は、関ヶ原の戦いでは叔父の稲葉貞通と共にはじめ西軍に属し、後に東軍に寝返った。そのため、戦後に所領を安堵された。
  • しかし慶長12年(1607年)12月、天野雄光や津田信成ら数名と京都の祇園で遊んでいたときに、酒乱のために茶屋、後藤などの富商の婦女を強引に茶店に引き入れ酒を飲ます等の乱行を起こしたため、幕命により改易され常陸国筑波に流罪。清水藩は廃藩となった。

    この月伏見にて御家人稻葉甲斐守通重。津田長門守元勝。天野周防守雄光。阿部右京某。矢部善七某。澤半左衞門某。岡田久六某。大島雲八某。野間猪之助某。浮田才壽某等士籍を削らる。こは京洛の富商後藤并茶屋等が婦女。祇園北野邊を逍遙せしに行あひ。ゆくりなくその婦女をおさえ。しゐて酒肆にいざなひ酒をのましめ。從者等をばそのあたりの樹木に縛り付刀をぬき。若聲立ば伐てすてんとおびやかし。黄昏に皆迯去りたり。酒肆の者これをみしりてうたへ出ければ。かく命ぜられしとぞ。

  • 元和4年(1618年)6月、配所の筑波にて死去。嫡男の稲葉通勝は稲葉正勝の家臣となっている。
  • 稲葉志津」を所持した。

 娘:稲葉正成

  • 稲葉一鉄は娘を林政秀の次男の正成に嫁がせて婿とする。
    • 長男・稲葉正次は正室の子であったが、春日局の栄達に従い嫡男の地位は春日局の子・稲葉正勝へと移ってしまう。のち元和4年(1618年)に徳川秀忠に召し出され5,000石の所領を与えられる。寛永5年(1628年)、死去。
    • 稲葉正次の嫡男・稲葉正能が僅か3歳であったため、遺領は弟・稲葉正吉(継々室・与祢の子)が相続するが、正能も後に旗本として召し出され、初の日光奉行を務めるなど活躍し、子孫は旗本として存続した。
  • この娘が先立ったために、代わりに重通の姪である福(のちの春日局)を嫁がせた。
  • 稲葉本家は稲葉貞通が継ぎ代々豊後国臼杵藩主(外様5万石)となったが、稲葉家としてはこの稲葉正成の系統(正成系稲葉家宗家)が相模小田原藩主~下総佐倉藩主~山城国淀藩主(譜代10万石)として栄えた。

 養女:春日局

  • 父は明智光秀の重臣斉藤利三。母は稲葉一鉄の娘、安。
  • 福の父斉藤利三は明智光秀に従い名を挙げるが、山崎の合戦後近江堅田で捉えられ処刑される。
  • 福は母方の親戚筋にあたる三条西公国に養育された。※祖父稲葉一鉄の正室(周芳禅女)が、公国の父である三条西実枝の娘。天正9年(1581年)9月19日没。天正11年(1583年)、一鉄は亡妻の三周忌のために歌を詠んでおり、稲葉家譜に記される。
    三条西実枝は細川幽斎に返し伝授を誓わせた上で「古今伝授」を授けた人物。詳しくは「古今伝授の太刀」を参照。
  • その後、伯父の稲葉重通の養女となり、稲葉氏の縁者で小早川秀秋の家臣である林政秀の次男稲葉正成の後妻となる。
  • 夫正成は、関ヶ原の戦いにおいて平岡頼勝と共に主君小早川秀秋を説得して小早川軍を東軍に寝返らせ、徳川家康を勝利に導いた功労者となる。
  • その後福は正成と離婚し、慶長9年(1604年)に2代将軍秀忠の嫡子竹千代(後の家光)の乳母に正式に任命される。
  • 江戸城大奥の礎を築いた人物。
  • 寛永6年(1629年)には、家光の疱瘡治癒祈願のため伊勢神宮に参拝し、上洛して御所への昇殿を図る。
  • この時に武家の娘では昇殿できないため、三条西公国の息子三条西実条と猷妹の縁組をし、公卿三条西家(藤原氏)の娘となり参内する資格を得る。福は、「三条西 藤原福子」として同年10月10日後水尾天皇や中宮和子(徳川和子、秀忠の五女)に拝謁し、従三位の位階と「春日局」の名号、及び天酌御盃をも賜る。
  • 寛永9年(1632年)7月20日の再上洛の際に従二位に昇叙し、緋袴着用の許しを得て、再度天酌御盃も賜わる。よって二位局とも称され、同じ従二位の平時子や北条政子に比定する位階となる。

 子:牧村利貞(まきむらとしさだ)

  • 天文15年(1546年)稲葉重通の子として生まれる。
  • 外祖父が牧村政倫であったことから、政倫の跡を継いで牧村氏を名乗り伊勢岩出城主となる。
  • 織田信長の死後、豊臣秀吉に仕えて馬廻となる。天正12年(1584年)には高山右近の勧めを受けてキリシタンとなっている。その後小牧・長久手の戦い、四国征伐、九州平定にも参加した。天正18年(1590年)、秀吉より伊勢国内において2万650石を与えられた。
  • 茶道に造詣が深く、利休七哲の一人でもある。
  • 文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役にも舟奉行として参加するが、文禄2年(1593年)7月10日、朝鮮において48歳で病死した。
  • 実子の牛之助は幼少のため、家督は父利貞の弟の稲葉道通が継いだ。
  • 牧村利貞の娘に、おなあ(祖心尼)がいる。祖心尼はのち義理の叔母にあたる春日局の導きで大奥に入り、家光に仕える。のち自身の孫娘であるお振の方を春日局の養女として大奥に入れ、家光の側室とした。お振の方は寛永14年(1637年)に家光の長女・千代姫(のちに尾張藩主徳川光友の正室)を生んでいる。

 関連項目


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