昼の御座の御剣


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 昼の御座の御剣(ひのおましのおんつるぎ)

日の御座、昼御座剣、昼の御座の御剣
晝御坐御劒

  • 「昼の御座(ひのおまし)の御剣」
  • 「~のぎょけん」、「~のおんつるぎ」、「~のみはかし」、「~のおんたち」などと呼ばれる。
Table of Contents

 概要

  • 「日の御座」「昼御座」とは、天皇が昼に出御される清涼殿の御座のこと。
    これに対して、天皇の寝所のことを夜御殿(よるのおとど、よんのおとど)、あるいは夜御座(よるのおまし)と呼び、清涼殿の母屋の北寄りの二間四方の塗籠が当てられた。夜御殿の四方には妻戸があり、南側に昼御座、北側に萩の戸および藤壺上御局、東側は二間、西側は朝餉(あさがれい)に接していた。
  • 昼の御座の御剣とは、その清涼殿御座に安置されていた御剣をいう。
  • 清涼殿においては、御座の南側にある机の上に、刃を南に向け、柄は西、鞘は東を向くように設置したという。

 文献での昼の御座の御剣

元亨元年(1321年)

院にも内にも、朝政のひまひまには、御歌合のみしげう聞こえし中に、元亨元年八月十五夜かとよ、常より異に月面白かりしに、上、萩の戸に出でさせ給ひて、異なる御遊びなども有らまほしげなる夜なれど、春日の御榊、うつし殿に御座します頃にて、糸竹の調べは折あしければ、例の只内々御歌合あるべしとて、侍従の中納言為藤召されて、俄に題奉る。殿上に候ふ限り、左右同じ程の歌詠みをえらせ給ふ。左、内の上・春宮の大夫公賢・左衛門督公敏・侍従中納言為藤・中宮権大夫師賢・宰相維継・昭訓門院の春日為世女、右は藤大納言為世・富小路大納言実教・洞院の中納言季雄・公修・宰相実任・少将内侍為佐女・忠定の朝臣・為冬、忠守など言ふ医師も、此の道の好き物なりとて、召し加へらる。衛士のたく火も月の名だてにやとて、安福殿へ渡らせ給ふ。忠定の中将、昼の御座の御佩刀を取りて参る。

 歴史

 日月護身剣

  • 古くは神功皇后の時に百済から献上されたといい、「日月護身剣」と呼ばれた。

 昼御座剣

  • 天徳4年(960年)9月23日皇居炎上により日月護身剣も焼身となる。

    内裏焼亡す、仍りて、職曹司に遷御あらせらる、

  • 備前の白根安生に焼き直させるが、焼き直しは天皇の護身剣には不適ということで他の剣に替えられ、この時に「昼御座剣」と呼ばれるようになった。

    鍛冶内蔵属実行「姓闕く」をして、宜陽殿の作物所に於て、節刀を作らしむ、

    天徳奉勅、以備前國撰獻鍛冶白根安生令焼其寶於高雄山也者、

    鍛冶ハ内藏屬實行云々、又應和元年(961年)七月五日、高雄山にて劒ヲツクル、天文博士保憲、六月廿八日、於神護寺、三方五帝ノ祭ヲツトム、劒ヲツクル祈祷ト云々、備前國鍛冶白根安生劒ヲ造リ進スル由、舊記ニ見エタリ、ヤケウセタルカハリニ、新造セラレケルニヤ、

  • 拵えは、柄頭には竜亀の彫物があり、鍔は鈷金、鞘は梓の中目に紅漆を塗り、乱金を使ってあった。
  • 天元2年(979年)3月20日に紛失したため、関白藤原頼忠が代わりとなる剣を献上する。

    昼御座の御剣紛失す、是日、関白藤原頼忠、御剣を献ず、

  • 永延2年(988年)、備前の介成・友成父子に打たせたという。

    禮葉云、備前介成友成父子、一條院御宇御劔打、永延ニ年事也、同頭書云、永延人皇六十七代一條院ナリ、寶劔長二尺五寸四分、拵菊唐草、鞘黑漆、鞘は木をうすく志たるもの也、
    晝御座ノ御劔、長二尺五寸、後鳥羽院勅作之、今按介成友成父子が打たる劔は、本晝御座の御劔なるを、壽永に右劔入水してより、晝御座の御劔寶となる、又御座の御劔は、其後後鳥羽院の勅作をもて、晝御座の御劔と○と下恐脱なりし三字ならんかし、

  • 長元9年(1036年)7月12日にも関白藤原頼通が剣を献上している。

    関白頼通、昼御座料の御剣を献ず、

 盗難

  • 夜の御座に安置していたためにしばしばしば盗難にあっている。
  1. 天元2年(979年)3月20日

    昼御座の御剣紛失す、

  2. 丞暦4年(1080年)閏8月25日
  3. 天承元年(1131年)2月22日

    昼御座御剣紛失す、

  4. 天承元年(1131年)12月18日 鍔飾りを剥ぎ取られそうになるが未遂で終わる。

    昼御座御剣の鐔飾を剔取せらる、

  5. 保元元年(1156年)3月14日 武者所久実が犯人を捕えている

    昼御座御剣亡失す、

  6. 寿永元年(1182年)3月20日

    昼御座御剣を窃まる、

  7. 文治元年(1185年)5月18日

    盗、昼御座の御剣を窃む、足利頼兼の家人武者所久実「姓闕く」、之を捕ふ、

    是より先、頼朝の家人久実「姓闕く」、昼御座御剣の盗賊を捕ふ、是日、之を賞す、

  8. 元暦2年(1185年)6月27日

 

  • 承安2年(1171年)4月12日
  • 治承5年(1181年)閏2月30日

    犬、昼御座御剣の装具を噛む、

    • 両度にわたって犬が御剣の緒を噛み切った。

 平家による剣璽略奪

  • 寿永2年(1183年)7月、平家が安徳帝を奉じて都落ちする際に剣璽を奪っていったが、昼御座剣は置き忘れていったという。しかし一説には昼御座剣も持ち出されたが、乱の後に無事戻ったのだともいう。

    平家ハ、日比法皇後白河ヲモ西國ヘ御幸ナシ進セント支度シ給タリケレ共、カク渡ラセ給子バ、(略)九重ノ御具足、一モ取落スベカラズト下知セラレケレ共、人皆アワテツゝ我先ニ我先ニト出立ケレバ、取落ス物多カリケリ、晝ノ御座ノ御劔モ殘留タリケルトカヤ、 ※残留説

    元暦ニ年文治元年四月廿五日、権大大恐中字誤納言經房ノ記ニ云、今日神鏡神璽等西海ヨリ入洛有ベシ、予上卿トシテ参向、船津ニオイテ實檢セシムルノ所ニ、兩器ノ外晝御座ノ御劔是アリ、神璽ノ辛櫃ニ入加ヘ奉ルト云云 ※経房記(吉記)を引用しての西海より戻った説

    結果的に三種の神器が持ち出されて無かった時期は、平氏が都落ちを行った寿永2年(1183年)6月25日(後白河の平氏追討宣旨は28日)~元暦2年(1185年)=寿永4年(1185年)3月24日に壇ノ浦合戦の決着が付き、京都に戻った4月25日頃までの間ということになる。この間、寿永2年(1183年)8月20日に後鳥羽天皇が践祚しており、正史上始めて2人の天皇が擁立していたことになる。

 後鳥羽天皇

  • いずれにしろ神器がなかったため、元暦元年(1184年)7月28日の後鳥羽天皇(践祚は前年寿永2年8月20日、元服は建久元年(1190年)正月3日)の即位式では、神器(神剣草薙剣含む)がないまま昼の御座の御剣で代用して行われた。

    安徳帝崩於西海、劍璽亦沒、兵士獲神鏡於御船、會神璽浮出、常陸人片岡經春収之、源義經奉鏡璽入京師、後鳥羽帝屢奉幣諸社、祈得寶劍、而竟不能得、帝以晝御座劔代之、而上古神鏡、則垂仁帝時又遷之伊勢寶劔則祀之尾張熱田、參取請書大意

    なおこの時「吠丸」と「鵜丸」は法王御所の法住寺から左近衛権中将清経が奪っていった。
 後三条─┬白河──堀河──鳥羽─┬崇徳──重仁親王
     │           │
     ├実仁親王       ├後白河─┬二条──六条
     │           │    │
     └輔仁親王─源有仁   └近衛  ├以仁王
                      │
                      └高倉─┬安徳
                          │                【大覚寺統】
                          ├守貞親王──後堀河──四条  ┌亀山──後宇多
                          │               │
                          └後鳥羽──┬土御門──後嵯峨─┤
                                │         │【持明院統】
                                └順徳───仲恭  └後深草─伏見

【皇位】:─後白河─二条─六条─高倉─安徳─後鳥羽─土御門─順徳─仲恭─後堀河─四条─後嵯峨─
  • さらに建久元年(1190年)正月3日の後鳥羽天皇の元服の儀式でも三種の神器の神剣(草薙剣)の代わりとして昼御座剣が用いられた。

    文治六年建久元年正月三日、御劔間事、自舊年有沙汰、又夜前被問人々、只今又神祇大輔兼友、參御直廬申龜卜趣、御劔事、可被用晝御座御劔之由事切畢、日來璽箱爲先之、内侍持之、行幸時立右方、而被用晝御座御劔者、璽如元在前、劔可在御後云云

    建久元年庚戌春正月、帝元服ヲ加フ、晝御座劍ヲ用テ寶劍ニ代フ。

    建久元年春正月、帝加元服、於紫宸殿、先是寶劍沈海、至是以晝御座劍代之

    • この時に使用されたのは、関白藤原基通が豊後行平に作らせたものであったという。
      この間、文治3年(1187年)9月27日には伯景弘、建暦2年(1212年)には検非違使の藤原秀能に命じて宝剣捜索を行わせている。

 のちニ代

  • のち2代に続き昼御座剣による代用が続いた。
    • 建久9年(1198)正月11日の土御門天皇の即位の際にも神剣の代用を勤めている。

      御劔者、(略)壽永入海紛失之後、院後鳥羽御時以後廿餘年、被用清涼殿御劔、仍以璽爲先、而承元土御門譲位時有夢想、自伊勢進仍已來、又准寶劔、以劔爲先也、此劔普通蒔繪也、
       ○按ズルニ、清涼殿ノ御劔ハ、晝ノ御劍ト稱スルモノナリ、此劍ヲ以テ寶劍ニ擬セシコト二十餘年トアルニ掾レバ、後鳥羽天皇ノ建久庚戌ヨリ、土御門天皇ノ承元四年庚午ニ至ル迄、二十一年間用ヰラレシナリ、

    • 承元4年(1210年)11月に順徳天皇が即位する際には、寿永2年(1183年)6月に伊勢神宮から献上されていた剣を神剣とみなすこととした。伊勢神宮祭主大中臣親俊の夢想による。詳細は「草薙剣」項を参照

      承元四年十二月十日、◯中略件晝御座御劔、近衞入道攝政◯藤原基通所被造進也、
       ◯按ズルニ、此御劍ハ、後鳥羽天皇ノ踐祚ノ時ニ進リシモノナラン、後ニ一時寳劍ニ代用セシモノナリ、尚此事ハ、以晝御座御劍及祭主所進爲寳劍ノ條參看スベシ、

 盗難

  • しかし清涼殿に戻されると再び盗難にあっている。
  1. 寛喜2年(1230年)5月5日 宮中の女官が手引をして御剣を盗ませた。
  2. 寛喜3年(1231年)3月16日 子供が盗んで持ちだそうとするが未遂に終わっている。

    盗、内裏に入り、昼御座御剣を窃む、蔵人平繁茂之を捕ふ、

  3. 暦仁元年(1238年)閏2月18日

    盗、昼御座の御剣を窃取す、

  • この頃は、紛失すると伊勢神宮や朝臣の家から献上され補充されてきた。

 包平

  • 弘安元年(1278年)閏10月13日とみられる内裏炎上の際に焼身になったため、粟田口国吉に焼き直させた。
  • 焼き直された御剣は包平作であったともいう。

 夜間の保管

  • いつごろからか清涼殿に備え付けにせず、天皇が別殿に退出されると、内侍が奉持して別殿に移すことになったため事故は減った。
  • 夜になると、天皇の臥床の右側に刃を南、柄が西に、鞘が東になるように置かれ、帯取りは鞘尻のほうに揃えて伸ばしておいたという。

 江戸以降

 本阿弥光勢のお手入れ

  • 寛延3年(1750年)10月本阿弥光勢は、昼御座剣の研ぎに奉仕した賞として伊勢大掾に任じられている。
  • このとき、昼御座剣は豊後行平の在銘刀であったという。

 水戸光圀の献上

  • 江戸時代には即位の際の御剣と決まっていなかったが、水戸光圀が献上した後は、昼の御座の御剣を用いることとなったという。

    古来御即位大礼に天皇陛下がはかせ給ふ晴れの御太刀は昼の御座の御剣を用いらせられ、特に御即位の御剣と定まったものとてはなかったが、徳川時代水戸黄門光圀卿が御即位の御剣を献上申してからは、御即位の盛儀にはこの御太刀を召され給ひ先帝陛下(大正天皇)にも御即位の御儀には畏くもこの御剣をはかせられた、

    光圀の頃の歴代天皇即位日。元服は寛永13年(1636年)、二代藩主は寛文元年(1661年)、隠居が元禄3年(1690年)元禄13年(1700年)死去。年代から、霊元天皇もしくは東山天皇ではないかと思われる。
    ・後水尾天皇:寛永6年(1629年)11月8日
    ・後光明天皇:寛永10年(1633年)10月3日
    ・後西天皇:承応3年(1654年)11月28日
    ・霊元天皇:寛文3年(1663年)1月26日
    ・東山天皇:貞享4年(1687年)3月25日

 明治

  • 明治期に宮内省御用掛を務めた今村長賀別役成義によれば、昼の御座の御剣は豊後行平であるとしている。
    ※明治末発行の高瀬羽皐「刀剣談」でも、「豊後の行平の作で在銘銀造りの御太刀である。」として行平作としている。またこの行平の献上刀を寛永3年(1626年)9月の後水尾天皇二条城行幸時に秀忠献上によるものではないかと推測している。

    ※上の光圀献上刀の話と矛盾する。あるいは二振りあったということか。

 関東大震災での焼失

  • 関東大震災で、光圀献上刀も焼けてしまう。

    然るに大正十二年の震災にこの歴史ある御剣は高輪御殿と共に焼失したので、今秋の御大礼には新しく御物の仲より選ばせられた「菊御作」として名も高き後鳥羽天皇が承久の御代に御番かぢに向つちを打たせ御自らきたへ給うた御太刀に黄金造りの装ひ をこらし、これを永ごうに御即位の御剣と定め給ふべくその調製方を東京美術学校に御下命になつた、この光栄にきん喜した美術学校では刀剣の故実に精しき宮内省御用係松平賴平子爵を顧問として
     しつ工とまき絵には同校教授六角紫水氏が助教授松田権六氏と共に奉仕、彫金には同教授清水亀蔵氏が助手福田一郎および白銀師丸尾専太郎両氏と共に奉仕して約一年
    いづれも一世一代の腕を揮ってこの程美しき輝くばかり見事の装ひが完成し、道明新兵衛氏が奉仕する紫鹿皮の御帯取りに 刺繍される金糸の菊の御紋が 縫い上がればよいばかりに出来上がった、この目出たき黄金造りの御太刀は長さ二尺七寸いとも優美なそりを持ち、鞘は金まき絵の上に黄金のいつ懸地に十五の菊の御紋章を浮かせ、同じく黄金の四花形の鍔、柄は銀さめの柄とて金三分 銀七分 にて雪白のさめ皮の如く光ったもので、御太刀を釣る帯取は二百枚の小鹿の皮より十枚を選び、南部の紫こん染を百四十回くりかえして漸く出来た美し紫の鹿皮に小さく菊御紋章を金糸で刺繍したもので、(昭和3年(1928年))九月下旬までにすべての装いを終わって松平子爵を始め一同宮中に参内して御宝蔵の「菊御作」の御太刀にとりつける事となっている

    この記事どおりであれば、昭和3年(1928年)11月十日に京都御所で行われた昭和天皇の即位の大礼は、菊御作の御剣で執り行ったことになる。しかし以下に示すように、平成時の御物調書では長光太刀および行平太刀が記載されている。理由は不明。

 現代

  • 現在、昼の御座の御剣は備前長船の長光を使用しているとされる。(御物東博 銘刀押形)
  • なお平成元年の「御物調書」によれば、昼の御座の御剣(昼御座御剣)は二口あるとされる。

    33.上皇昼御座御剣備前国長光太刀
    鎌倉時代
    歴代天皇御譲品
    昼御座御剣

    46.豊後国行平太刀
    鎌倉時代
    歴代天皇御譲品
    昼御座御剣

 享保名物帳

 参考


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