池田利隆

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池田利隆(いけだとしたか)  

江戸時代前期の大名
播磨姫路藩の第2代藩主
新蔵
従四位下、侍従、右衛門督、武蔵守
興国公

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生涯  

  • 天正12年(1584年)9月7日、池田輝政と正室摂津茨木城主中川清秀の娘糸姫(大義院)との間に、岐阜城で生まれる。
    生母糸姫は利隆を産んだ後に体調が戻らず、中川家に帰っている。一説には文禄4年(1595年)に督姫との縁談が持ち上がったために離縁されたとも言う。元和元年(1615年)死去。
  • 天正12年(1584年)岐阜に生まれる。

徳川政権下  

  • 慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは、父と共に東軍方で参戦する。前哨戦となった岐阜城攻めでは、福島正則との激しい先陣争いをおこなった。
  • 慶長8年(1603年)2月、異母弟の忠継が備前岡山藩主に任じられると、幼年の忠継に代わって執政代行として3月に岡山城に入った。実際には父輝政の命を受けていたとされる。
  • 慶長10年(1605年)4月8日、従四位下・侍従に叙任され、右衛門督を兼任した(豊臣姓)。

    慶長十年、台徳院殿御上洛のとき、三月二十六日従四位下侍従に叙任し、右衛門督にあらたむ、ときに貞宗の御脇指をたまふ

    八日、天晴、池田三左衛門子息照直(利隆)、加堂上御禮ヲ被申入了、議定所ニテ御對面、兩傳奏披露、御太刀御馬等進上了、艮子貳十枚歟、御方御所へ、同代艮子十枚歟、天盃頂戴之、御陪膳三條宰相中将、御手長光廣朝臣等也

    • このときに「切刃貞宗」を拝領する。のち弟の輝興が播磨赤穂を与えられた時に与えており、のち因幡鳥取藩池田家へと伝来する。
  • 同年9月に徳川秀忠の養女・鶴姫(榊原康政の娘、福照院)を正室に迎え、幕府との関係を深めた。
    鶴姫は榊原康政の次女で、母は大須賀康高の娘。利隆との間に二男をもうけるが、元和2年(1616年)に利隆が死ぬと出家して福正院を号す。寛文12年(1672年)江戸で死去。兄弟には、大須賀忠政、榊原忠長、榊原康勝、酒井忠世正室がいる。
  • 慶長12年(1607年)6月2日、武蔵守に転任して松平姓を賜り、松平武蔵守利隆と名乗った。

姫路藩2代藩主  

  • 慶長14年(1609年)執政代行のころ、岡山城において嫡子新太郎(光政)が誕生する。また慶長16年(1611年)には次男恒元も岡山城で生まれている。
  • 慶長18年(1613年)1月、父の輝政が死去したため、6月に家督を継ぎ姫路藩2代藩主となっている。
    異母弟忠継の岡山藩執政代行→姫路藩主。
  • その際に父・輝政の後室・良正院の化粧料である西播磨三郡(宍粟郡・佐用郡・赤穂郡)10万石を弟の忠継に分与しており、姫路藩の所領は42万石となった。
    この時、家臣団も再編成されており、池田内記、池田出羽、伊木長門、日置豊前などが利隆に、また荒尾志摩守、荒尾但馬、和田壱岐守らが忠継に付されている。

    岡山57万石は宇喜多秀家が継いでいたが、関ヶ原の後に改易され小早川秀秋が51万石で入った。秀秋が慶長7年(1602年)10月に急死したため、慶長8年(1603年)に池田輝政の次男で家康外孫の池田忠継が28万石で入る。父輝政が死ぬと遺領の10万石を加増され38万石となった。元和元年(1615年)の大坂夏の陣後に忠継が急死すると、同母弟の池田忠雄が相続するがさらに同母弟に分与したため31万5千石となる。後に池田宗家(光政)と家康外孫(光仲)の両池田家で入れ替えとなるが、これが岡山藩の藩領として廃藩まで存続した。
  • 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、秀頼の誘いを受けるもその手紙を京都所司代板倉勝重に差し出して東軍へと参加し、緒戦の尼崎合戦で戦果を挙げている。続く大坂夏の陣では天満橋方面を守備し戦果を上げている。
  • 元和2年(1616年)利隆は体調を崩し江戸から京都に移るが、6月13日義弟にあたる京極高広の京都四条の屋敷で病死した。享年33。

刀剣など  

  • 父の死に際して、若狭正宗ほかを相続している。

    諸道具割符帳
     武蔵守に相渡分、
    一、若狭正宗ノ刀  御所様(家康)より拝領、
    一、一文字ノ刀  右同断
    一、備前三郎刀
    一、三原ノ刀 輝政不断指
    一、遺刀 五腰
    一、遺脇指 拾三腰
    一、太刀 四振
      以上、
     刀合四腰、 脇指合拾三腰、 太刀合四振、

  • なお輝政死の際の形見分けでは、「大包平」が登場していない。嫡男の利隆が「若狭正宗」であり、家康外孫の次男忠継が「蜂屋江」、三男忠雄が「豊後正宗」である。
  • また池田家の文書上でも「大包平(大兼平)」が登場するのは、利隆の子である3代藩主光政の代からである。


系譜  

  • この家系は、家康外孫の因幡鳥取藩の池田家とは別に、岡山藩の外様池田宗家として明治維新まで存続した。

子:池田光政  

  • 播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。
  • 慶長14年(1609年)、父が城代を兼ねていた岡山城で生まれる。幼名は新太郎。
  • 慶長16年(1611年)に江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。
  • 慶長18年(1613年)に祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。
  • 同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。その後脇差を与えるが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康は光政の態度に驚き、笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという。
  • 元和2年(1616年)6月13日父の利隆が死去。翌日に家督を相続している。
  • しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に、因幡鳥取32万5,000石に減転封となった。
    光政の後に入ったのは譜代の本多忠政(本多忠勝の嫡男)だが、忠政自身は15万石で一家をあわせても30万石であった。その後も要衝姫路の地には奥平、越前松平、榊原、越前松平、本多、榊原、越前松平と譜代大名が入れ替わり立ち代わり15万石(奥平のみ18万石)で配置されるが、幼君が生まれると転封されることを繰り返す。寛延2年(1749年)に雅楽頭系酒井家宗家9代の酒井忠恭が15万石で移るとようやく安定し、そのまま明治維新まで存続した。
  • 元和9年(1623年)7月、15歳で元服し、当時名乗っていた幸隆(よしたか)を、第3代将軍・徳川家光の偏諱を拝受し光政と改める。家光の上洛に従って上洛し、従四位下・侍従に叙任される。
  • 寛永3年(1626年)8月の家光上洛にも従い、左近衛少将に叙任された。
  • 寛永5年(1628年)1月26日、本多忠刻の娘・勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎えた。
    円盛院勝子は、本多忠刻と千姫の間に生まれた娘。
  • 寛永9年(1632年)4月に伯父である岡山藩主池田忠雄が死ぬ。忠雄嫡男の光仲が相続するが、3歳で幼少を理由に因幡鳥取藩と国替えを行うことになる。
  • 以後、池田宗家は備前岡山藩31万5千石を治めることとなった。
  • 寛文12年(1672年)、嫡子の綱政に家督を譲り隠居。この時、次男の政言に備中の新田1万5,000石、三男の輝録に同じく1万5,000石を分与している。
  • 天和2年(1682年)死去、享年74。
  • 寛永14年(1637年)から寛文9年(1669年)まで続く「光政日記」を残した。
    • 池田光政日記は、東大公文書館において、「近世編年データベース」から検索することができる。

 

  • 慶長11年(1606年)2月23日に早世。

娘:長姫  

関連項目