亀甲貞宗


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 亀甲貞宗(きっこうさだむね)


無銘 貞宗名物 亀甲貞宗)
刃長70.9cm、反り2.4cm
国宝
東京国立博物館所蔵(渡邊誠一郎氏寄贈)

  • 貞宗は通称を彦四郎といい、相模国鎌倉の刀工正宗の実子あるいは養子といわれ、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した。
  • 享保名物帳所載

    亀甲貞宗 長二尺三寸四分 金二百枚代付 御物
    忠表に亀甲あり、元と松平出羽守殿所持其以後土方殿に有り光甫求め南部殿へ売る、又其後ち尾張殿御求め元禄十一年寅三月十八日綱吉公御成の砌、宗瑞正宗と一所に上る

  • 詳註刀剣名物帳

    松平出羽守の事前に注せり、土方殿とあるは土方勘兵衛雄久の子、河内守の事にて此人慶長七年に病死す、其子掃部頭は二萬石を領し寛永五年に卒す、其子河内守雄次家政修らず貞享元年に家斷絶す。

  • 長二尺三寸四分、反り八分。鎬造り、庵棟。表裏に二本樋、表は掻き流し、裏は掻き通し。大磨上、なかごの指裏先の刄寄りに亀甲紋花形を毛彫にする。
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 由来

  • 刃文は乱れ刃で、茎(なかご)に大磨上のあとに刻まれた亀甲菊花文様の彫物があるため、「亀甲貞宗」と称される。

 来歴

  • 最上義光、明智光秀所持ともいう。
    事実であれば、光秀から義光の順ではないかと思われるが詳細不明。

 徳川家

  • のち徳川家に伝来。

 雲州松平家

  • 雲州松江藩の藩祖松平出羽守直政(結城秀康の三男)が所持。
  • 出雲大社は、神紋として「二重亀甲に剣花菱(にじゅうきっこうにけんはなびし)」を使っており、号の由来となった亀甲紋はここから取られたものと思われる。
    松平直政は結城秀康の三男。母は阿波の豪族三谷長基の娘、月照院。月照院は京都で遊女をしていた時に秀康の目に止まったともいう。生後は家臣の朝日重政に養育され、父の死後は異母兄松平忠直の庇護を受ける。元服後は2人の偏諱により直政を名乗る。

    亀甲に菊紋を使用する家系としては、十六葉で宇津木氏(桓武平氏梶原氏流)、信田氏(常陸の桓武平氏相馬氏流)、谷田氏(蜂須賀家臣成立書に記す)、中村氏(中村河内守。播磨藤原姓で赤松家臣「根本ハ亀甲ノ内桐也。長禄年中取リ獻ズル神璽ヲ之時、父彈正依令ルニ討死賜フ菊ヲ」)、疋田氏(加賀藩給帳)、村上氏(信濃清和源氏頼清流。定紋は丸に上文字)、村越氏(藤原氏支流。あるいは清和源氏石川支流)、和田氏(和泉の橘氏楠氏流)、菅谷氏(清和源氏小笠原支流、あるいは菅原氏族)が、また十二葉では松尾氏(清和源氏義家流)などがある。
  • 松平直政は生母の出自が卑しかったため、血筋を重視した当時低く見られたという。大坂の役の直前、生母月照院は直政を呼び寄せ涙ながらにかき口説き勇気づけたという。

    国松殿(直政)十四歳の時、大坂の軍起る。御母上、国松殿を近づけ参らせ、殿はまさしき故中納言殿(結城秀康)の御子、大御所(家康)の御孫にてわたらせ玉ふ。栴檀(せんだん)は二葉よりかうばしとこそ承れ、弓矢取る家に生れ、既に十歳にあまらせ給へば、今度いかなる高名をも極めて、大御所の御感に預らせ玉へ。相構て、きたなびれて、人にうしろ指なさゝれ給ひそ、御父は皆大将なれど、賤しきものゝ腹に宿らせ玉ひしゆゑに、かゝる不覚もあれなど云はれ給はんこと、口をしかるべき御事に候ぞや。自ら如何に女なりとも、させる高名をもせさせ給はぬなど、傳聞はべらば、生て再び逢まゐらすべしとも覚えずと、涙と共に、かきくどきて、軍の御装とも、かひゝゝしく取したゝめ、出しまゐらせけり
    (藩翰譜)

  • 直政は兄忠直の陣に参陣、母の期待に応えるように奮戦し、多くの敵将兵の首を取る戦功を挙げる。戦後、祖父家康からは打飼袋を、また兄忠直からは越前北之庄の領内に1万石を与えられている。のち、越前大野5万石、信濃松本7万石を経たのち寛永15年(1638年)2月に出雲松江18万6千石を与えられ国持大名となった。寛文6年(1666年)2月江戸藩邸にて病没。享年66。
    直政は寛文4年(1664年)に生母を弔うために松江領内の洞雲寺を再興し、蒙光山月照寺と改めている。のち松江藩主松平家の墓所となっており、現在は国の史跡松江藩主松平家墓所となっている。初代藩主松平直政の生母月照院の墓もここに残る。

    一説に、真田幸村を討ち取ったのは松平直政であるとする。「真田きつと見て敵ながらもあつはれの若武者かな。名のらせ給へと云ひけれバ、大音あげて吾は越前秀康の三男、松平国松丸と答へも未だ畢らぬに、真田いとゞ感じ入、虎は地上に落るより、已に呑牛の気象ありとぞ承つ、今よりかくおはしませば、御成人の後、必ずたぐひなき名将と為らせ給ふらんと、腰にさせる軍扇を取り上げて、他日の紀念にとて投與ふ。(忠勇録)」この軍扇は、「真田軍扇」として現在松江城二の丸に建つ松江神社で見ることができる。

 土方家

  • 「亀甲貞宗」は、後に奥州窪田藩二万石の土方家に伝わる。

    其以後土方殿に有り
    享保名物帳

    土方殿とあるは土方勘兵衛雄久の子、河内守の事にて此人慶長七年に病死す、其子掃部頭は二萬石を領し寛永五年に卒す、其子河内守雄次家政修らず貞享元年に家斷絶す。
    詳註刀剣名物帳

    土方氏
    土方氏は、土方雄久の嫡男である木工助雄氏が先に伊勢菰野1万3千石を得ていたため、次男掃部頭雄重の家系が雄久の遺領である下総国田子1万5千石を相続した。兄の伊勢菰野藩は明治維新まで存続したが、次男の家系は下総国田子藩から陸奥国窪田藩(初代)へと加増転封された。その子、河内守雄次(窪田藩2代)から雄隆(窪田藩3代。山城守、伊賀守)へと家督相続したが、3代雄隆からの家督相続で御家騒動となってしまい、陸奥窪田藩は改易処分となった。「詳註刀剣名物帳」の記載は少し混乱があるようだが、結局土方家は断絶となり、本刀もその際に手放したものと思われる。

  • 貞享元年(1684年)3代藩主伊賀守雄隆のとき、後嗣をめぐる御家騒動で土方家は断絶する。
     土方信治 【下総田子藩】 【伊勢菰野藩】
       ├──┬土方雄久──┬土方雄氏──土方雄高
      ┌姉  │      │
      │   │      │【下総田子藩→陸奥窪田藩】
      │   │      └土方雄重──土方雄次─┬土方雄信──土方内匠
      │   │       (掃部頭) (河内守)├土方雄隆
      │   │                  └林貞辰
      │   └太田長知(前田利長家臣)
      │
      └芳春院まつ
         ├──┬前田利長
       前田利家 └前田利政
    
    
    陸奥窪田藩
    初代土方雄重──2代土方雄次──3代土方雄隆
    

 南部家

  • 本刀も売りに出され、本阿弥光甫から南部藩(陸奥盛岡藩)の御用人赤沢某が150両で買い、4代藩主である南部行信へ献上される。

    或年商人貞宗の刀をもち來て赤澤氏に見せ價は百五拾兩のよし申ける、赤澤速に買取公の前に出て如斯の名劔世に稀なる所なり幸に今日某か方に持來る者あり實に得かたきの故價渠が言に任せ買得たるよしにて見せ奉りけるに公大によろこびたまひ如斯の物は後日共に必我に伺なく買取べしと赤澤氏に褒美を給り大に寶藏したまひける

    ただし本阿弥光甫は天和2年(1682年)7月没のため、それ以前の取引ということになる。
     なお盛岡藩4代藩主南部行信は、元禄5年(1692年)6月に父である3代藩主大膳大夫南部重信の隠居に伴い家督を相続している。父重信が元禄15年(1702年)に死ぬと、後を追うように死んでいる。享年61。恐らく光甫が取り次いだ上で、別の刀商が南部藩に売ったということではないかと思われる。

    赤沢某
    南部藩御用人赤沢某については詳細不明。盛岡藩に関する史料の情報公開を進めている近世こもんじょ館によれば、平士以上のリストに赤沢を名乗る人物が数人見える。赤沢儀兵衛吉矩は貞享5年(1688年)に七戸外記愛信附(愛信は3代藩主重信の孫に当たる人物)となったという。赤沢某とは、当人あるいはこの一族ではないかと思われる。

 尾張家

  • 元禄10年(1697年)、翌年の御成が決まりその際に将軍家に献上するため二百枚以上の代付けの刀を探していた尾張徳川家が本刀「亀甲貞宗」を買い求め、返礼として南部家に対して「道誉一文字」と「綾小路行光」の短刀が贈られている。

    或時尾張家より内使を以公へ乞けるは、貞宗の刀買得たまひしよし、此物は我家由緒有物なるを子細有て人に與へたるものなり、今度將軍家我家に來りたまはんとなり、奉献の刀は貳百枚の折紙添にあらされば献すること不能、彼貞宗は我家由緒ある刀と云貳百枚の折紙添なれば希くは此刀を得て獻じ奉らん、若某に譲り給はゝ、幸の甚しき何れか是に如かんやと公速に承諾し彼刀を尾張家へ進せられけり。尾張家より使者を以て謝詞を述答禮として道誉一文字太刀、綾の小路行光の短刀此二刀を送くれける、

    元禄十年
    七月廿三日、尾張黄門(綱誠)様へ来春 御成之義就被 仰出候、被為成候節、可被献金弐百枚迄之御道具無御座、依之御扶持人本阿弥光律を、本阿弥光政所迄御使者被遣 殿様(南部行信)御所持被遊候亀甲貞宗之代金弐百枚之御道具御もらひ被成度旨、御内意被 仰越、其後成瀬隼人正殿より御状ニて申来候付、昨晩御留守居瀧六右衛門ニ右之貞宗為持、中納言様へ被 進、今日御礼之趣、隼人正殿より御状ニて申来
    十二月廿一日、尾張中納言様より御進物、御刀道誉一文字代金百枚、御刀行光代金五十枚、御刀助真代金五十枚、右之通、袋入、白さや、白木桐箱ニ入、成瀬隼人殿より添状ニて来ル

    ここで尾張藩の使者が言う「此物は我家由緒有物なるを子細有て人に與へたるものなり」はよくわからない。本当であれば、南部家に入る前のどの段階かで一度尾張家に入っていたことになる。
  • 南部家での流れ整理
  1. 時期不明:買い入れ ※行信は元禄5年(1692年)6月27日家督相続
  2. 時期不明:尾張家より問い合わせ
  3. 時期不明:尾張家へ亀甲貞宗送付
  4. 元禄10年(1697年)7月23日:尾張家成瀬隼人正より礼状到着
  5. 元禄10年(1697年)12月21日:返礼品(道誉一文字ほか)到着

 将軍家

  • 元禄11年(1698)3月18日、将軍綱吉が尾張藩邸に御成の際に、本刀「亀甲貞宗」は「宗瑞正宗」の短刀とともに尾張綱誠から将軍綱吉に献上された。

    十八日尾張中納言綱誠卿の第に臨駕したまふ。(略)御盃の時龜甲貞宗の刀。宗瑞正宗の差添。

  • のち将軍家では、これを代々世子に譲っており、鞘書に「宝暦十二午年十一月遡月 御七夜御祝儀之時 浚明院様ヨリ 孝恭院様江被進 亀甲ノ彫有之 亀甲貞宗御刀 代金三百枚 長貳尺参寸四分半」とある。浚明院とは徳川家治(10代徳川将軍)、孝恭院は徳川家基(家治の長男。夭折)のこと。
  1. 宝永元年(1704年)12月5日、綱吉が家宣に贈与。

    甲府中納言綱豐卿儲副に備はらせ給ふ旨仰出され。綱豊卿に御手づから御傳家の御寳龜甲貞宗の御刀。來國光の御差添まいらせ給ふ。

  2. 享保9年(1724年)12月朔日、吉宗が長子長福丸に「家重」を与えた時に贈与。
  3. 元文5年(1740年)12月15日、家重が長子竹千代に「家治」を与えた時に贈与。
  4. 宝暦12年(1762年)11月朔日、家治が長子竹千代(家基、早世)の七夜祝として贈与。

    若君に龜甲貞宗の御刀。 堺志津の御差ぞへ。

  • 寛政2年(1790年)4月に上覧。

     四月廿四日、左之御道具
       上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
     
      一、亀甲貞宗
        是ハ松平出羽守所持、後土方家ニ伝ヘ、
        又南部家江渡ル、其後尾張殿御所持、
        元禄十一寅年三月十八日  常憲院様
        御成之時被献、中心ニ亀甲有之故名
        とす、
     右同断、

    「右同断」とは、一つ前に記載がある三日月宗近と同じだということで、宝暦12年(1762年)に徳川家基(家治の長男)が元服した際に、父である10代家治より贈られたことを示している。これは上述の通り。

  • 昭和8年(1933年)7月25日重要美術品指定。

    太刀 無銘(名物亀甲貞宗) 公爵徳川家達
    (昭和八年 文部省告示第二百七十四號)

  • 昭和15年(1940年)紀元二千六百年奉祝名宝日本刀展覧会出展、徳川家正公爵所持。
    徳川家達氏の長子が徳川家正氏(徳川宗家17代)。徳川家達氏は幼名田安亀之助。慶応4年(1868年)に徳川慶喜から家督を継いで徳川宗家16代となる。昭和15年6月78歳で死去。紀元二千六百年展の際には相続していたものと思われる。

 中島喜代一渡邊三郎

  • 昭和20年(1945年)1月13日、徳川宗家を出て中島飛行機の中島喜代一所持となる。 

    刀 無銘(傳貞宗) 一口
    旧所有者 東京都渋谷区 徳川家正
    新所有者 東京都杉並区 中島喜代一
    変更の年月日 昭和二十年四月二十七日
    (昭和二十二年 文部省告示第五十四号)

    この時中島氏は、「稲葉江」、「三日月宗近」、「亀甲貞宗」の移動(取得)申告を行っている。変更日もすべて同日。

  • 昭和24年(1949年)12月13日に高橋金雄氏所持となる。※名義は高橋一江氏

    刀 無銘伝貞宗 一口
    旧所有者 東京都杉並区 中島タマ
    新所有者 東京都世田谷区 高橋一江
    変更の年月日 昭和二十四年十二月十三日
    (昭和二十五年 文部省告示第十六号)

    この時高橋氏は、太刀銘則房(中島昭吉旧蔵)、「中務正宗」(中島昭吉旧蔵)、「三日月宗近」(中島タマ旧蔵)、太刀銘包永(中島タマ旧蔵)を、さらに家族と思われる名義で太刀銘国安(関南芳雄旧蔵)、太刀銘貞次(中島タマ旧蔵)、太刀銘国宗(中島タマ旧蔵)、「亀甲貞宗」(中島タマ旧蔵)、薙刀長光造(中島タマ旧蔵)、太刀銘兼永(中島タマ旧蔵)、太刀銘国光(中島昭吉旧蔵)の移動(取得)申告を行っている。変更日もすべて同日。


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