鳥獣戯画


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 鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)

紙本墨画鳥獣人物戯画
4巻
国宝
高山寺所蔵

Table of Contents

 概要

  • 京都高山寺に伝わった紙本墨画の絵巻物で、現在国宝指定。
    栂尾山高山寺は、元々神護寺の子院が荒廃した後に、後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられた明恵が開いた真言宗寺院。
     明恵は伊勢平氏の家人・平重国(本姓は藤原)の子で、9歳で父母を失い翌年に高雄山神護寺へ入り文覚・上覚に師事した。のち遁世僧となっていたが、後鳥羽院より栂尾の地を下賜されて高山寺を開山した。公家・武家からの尊崇を受けており、後鳥羽上皇、九条兼実、九条道家、西園寺公経、六波羅探題初代長官である北条泰時、安達景盛らの帰依を受けている。明恵は、栄西が南宋から持ち帰った茶の種子を栂尾にまき、茶の普及に寄与しており、高山寺境内には「日本最古之茶園」の碑が残る。

 名称について

  • なお「鳥獣人物戯画」の名称は昭和27年(1952年)制定の文化財保護法に基づく新国宝指定時のもので、それまでは「鳥獣戯画」、さらに前には「高山寺画巻」、「高山寺戯画」、「戯獣画巻」、「禽獣画巻」、「戯画巻」、「獣戯遊繪」などと様々な名称で呼ばれてきた。

    抑、現今高山寺に傳存する戯畫、それを戯畫と呼ぶことが果して正しいか否かに先づ重大な問題があるが、幕末以後、此の名に依つて殆ど一般的な常識となつて居る其の戯畫五巻こゝに云ふ巻數に就いては、事實今日傳存の古本は周知の如く四巻に過ぎないが、其の中の一巻は、嘗て異種の二巻を合巻して今日に傳へて居るもので、當然是れは分巻して二とすべきものであり、此の梅澤本五巻と對比する上にも、五巻と數へる方が便宜であるから、こゝに高山寺戯畫五巻とすることゝとする。(略)以上の五巻こそ卽ち今日高山寺に傳存し、一般に高山寺戯畫の總稱に依つて知られて居るものである
    (住吉家伝来高山寺戯画模本に就いて 田中喜作)

 制作年代と制作者

  • 著名かつ人気の高い絵巻物でありながら非常に謎が多く、いつ、誰が、何を描いたものか(主題)について諸説があり、定説がない状態である。
    この原因としては、詞書などがないこと、(主題・名称が不定なこともあり)第三者の記録類で見つけられないこと、獣の擬人化という類例が少ない作品のため他作品との比較研究が困難なことなどが上げられている。更に現存最古の記録が16世紀と制作年代まで遡れないことも大きく響いている。
  • 作者については古くは大和絵土佐派によるものとされ、江戸時代以降は主に鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)とされてきたが根拠資料はなく、現在では鳥羽僧正以降の複数の年代・人物により制作された作品が集成されたものであると見られている。
    覚猷(かくゆう)
    醍醐源氏・源隆国の第九子として天喜元年(1053年)に生まれる。若年にて出家、園城寺で天台仏教を修め、画技にも長ずるようになった。長らく園城寺法輪院に住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めた。四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏などを歴任し、長承元年(1132年)に僧正、長承3年(1134年)には大僧正に任じられた。保延4年(1138年)に47世天台座主となるも3日で退任し、厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇の住む鳥羽離宮の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となる。以後、「鳥羽僧正」と呼ばれた。保延6年(1140年)没。覚猷の絵はユーモアと風刺精神に富んでおり、戯画(当時は嗚呼絵)と呼ばれる。その人となりは「宇治拾遺物語」などでも描かれており、死に際して弟子から遺産分与の遺言を求められたのに対して「遺産の処分は腕力で決めるべし(覺猷僧正臨終之時、可處分之由、弟子等勤之再三之後、乞寄硯紙等書之也、其狀云、處分者可依腕力云々。遂入滅。其後白川院聞食此事、房中可然弟子後見などを召寄せて、令注遺財等、えもいはず分配し給ふ云々。)」と遺した言葉が有名。

 構成

  • 現在は4巻構成で知られているが、制作・伝来過程の性質から脱落や繋ぎなどが行われており、原型は不明である。
  • 制作年代については確定しておらず、平安~鎌倉時代において複数の作者による制作とされている。また甲巻については前後半で年代が違っていると見られている。
甲巻
  • 一番著名な巻。一般に鳥獣戯画が紹介される際にはこの甲巻が用いられることが多い。
  • 内容は、猿・兎・蛙といった擬人化された様々な動物が、秋の山野で水遊び・賭射/賭弓(のりゆみ)・相撲といった遊戯を行っている場面や、法要・喧嘩などの場面が描かれている。
  • 元は2巻であったが、分断されていたものがのちの時代につなぎ直されたことがわかっている。
乙巻
  • 前半には馬・犬・牛・羊・鷹・鶏といった六畜が写実的に描かれている。また後半には豹・虎・象・獅子・麒麟・竜・獏といった当時日本には居なかった動物あるいは空想上の動物が描かれている。
  • 平安時代の制作と見られている。
丙巻
  • 鎌倉時代の制作と考えられてきたが、前半の人物戯画部分については甲巻よりも古い可能性が指摘されている。後半には甲巻と同様の猿・兎・蛙などが登場する戯画になっている。
  • 巻末に「秘蔵々々絵本也 拾四枚之也 建長五年五月日 竹丸花押
丁巻
  • 人々による遊戯の他、法要や宮中行事などが描かれている。
  • 鎌倉時代の制作と見られている。
断簡
  • また過去に流出したものと見られる断簡が複数存在し、美術館などに保管されている。

 来歴

  • 古くより高山寺に秘蔵されていたが、高山寺への伝来時期及び経緯は不明である。
  • 高山寺所蔵の永正16年(1519年)6月5日の日付がある「東経蔵本尊御道具以下請取注文之事」には、「一、シヤレ絵三巻箱一ニ入」と書かれており、これが鳥獣戯画であるとされている。これに従えばこれより前には高山寺の所蔵となっていたことになる。
    国宝は四巻構成となっているが、模本などから昔は五巻構成であったことがわかっている。次の裏打紙と合わせ考えると、このうち「シャレ絵三巻=獣物絵上中下」が元は独立したものであったことがわかる。なおこの「御道具以下請取~」が鳥獣人物戯画に関する現存最古の記録であるとされており、現在のところこれ以前の動向については不明である。
  • さらに同寺所蔵の「華厳宗祖師絵伝」の裏打紙より発見された元亀庚午(1570年)年記の墨書中に「獣物絵上中下 同類𡰳二𡰳開田殿□□本」と記されており、これが現在2番目に古い記録とされている。※「𡰳」は巻の異体字。
    この墨書によると元々高山寺東経蔵の道具であったが、天文16年(1547年)に細川晴元が高雄城に籠もる細川国義を攻めた際に高山寺も火を放たれ、混乱のさなかに一部は焼け、一部は散逸したが拾い集めたものであるとする。
  • これにより高山寺では「開田殿」由来の所蔵物であると認識されていたことがわかるが、肝心の「開田殿」が誰なのかについては、二説が唱えられている。
    1. 仁和寺第十世・開田准后法助〔1227-1284〕
      九条道家の第五子。母は太政大臣西園寺公経の娘・綸子。
      皇族以外で初めて仁和寺門跡となり、僧侶として初の准后となった人物。道深法親王に学び延応元年(1239年)に一身阿闍梨の宣下を受け、翌27日に准后宣下を受ける。寛元元年(1244年)に道深法親王より伝法灌頂を受け、建長元年(1249年)には皇胤以外で初めて仁和寺10世となる。正嘉2年(1258年)門跡を辞して開田院に隠遁。開田准后・開田御室と号す。58歳で示寂。
      (1867年就任の第30世までの)非皇族での仁和寺門跡は、この法助と足利義満の子・法尊の2名のみ。ただし法尊はわずか5年後に師に先立って死去したため歴代の御室門跡には数えられていない。
    2. 仁和寺第九世・道深法親王〔1206-1249〕
      後高倉院(守貞親王)の第二子。母は北白河院(藤原基家の娘・藤原陳子)。同母兄に天台座主・尊性法親王、同母弟に後堀河天皇。
      建保4年(1216年)仁和寺で出家。寛喜2年(1230年)に道助法親王(仁和寺第八世)より伝法灌頂を受ける。仁和寺別院の開田院に住していたことから開田殿と称される。
  • 結局は仁和寺由来であることを示しており、13世紀頃には伝来し、その後高山寺の所蔵となったと推定されている。
    このことから、後白河院が制作させた絵巻物などが蓮華王院宝蔵を経て14世紀中期以降に仁和寺(御室宝蔵)へと移された経緯を鑑みて、この鳥獣戯画についても同様の制作・移動過程を経たものではないかという指摘もなされている。
  • さらに後、江戸時代には後水尾院の叡覧に供され(三宅玄蕃書状、高山寺蔵)、その後修復が行われたことがわかっている。
  • 寛政7年(1795年)の藤貞幹「好古小録」にも載る。

    六十三僧覺融畫藁一巻
     禽獸草木ヲ寫戯畫ニアラズ、跋云秘藏繪本也、建長五年五月日竹丸花押
    六十四僧覺融戯画三巻
     右四巻畫力愛スベシ、髙山寺所藏也、勝繪トナラベ賞スベシ

    ここでも3巻(現、甲乙丁巻)+1巻(現、丙巻)の構成と認識されている。4巻構成と見られるようになったのは明治以降であり、各巻を「甲乙丙丁」と呼ぶように決定づけたのは昭和6年(1931年)刊の「日本絵巻物集成」第17巻であるとされる。

  • 明治になり、明治5年(1872年)に寺社での宝物調査(壬申検査)が行われた際、高山寺でも7月21日から23日にかけて調査が行われ、「鳥羽僧正筆画巻物 四本」とされていた絵巻物を確認した。
  • この結果修復が必要と判断され、明治14年(1881年)から文部省博物館(現、東博)で修復作業が行われた。
  • 黒川春村「考古画譜」にも載る。※デジコレ収録の黒川真頼 増補版による

    覺融僧正繪本 一巻 或云覺融畫藁
     巻尾云秘藏繪本也。拾四枚也。建長五年五月日竹丸花押
     [補]圖畫一覧上巻云。覺融僧正畫藁、一巻、寶物目録云。奥書云。秘藏之繪本也。拾四枚ノ内建長五年五月日竹丸花押
    本朝畫圖品目云、僧覺融畫
     
    同戯畫 三巻
     好古小録云。畫本ト共ニ四巻。畫力可愛。高山寺所蔵勝畫ト可並賞
     [補]圖畫一覧上巻云。覺融僧正戯畫三巻、上ノ畫藁ト共ニ四巻、栂尾高山寺ノ藏也。勝畫トハ別也、混ズベカラス
     倭錦云、鳥羽僧正獸戯草畫、書續光長筆、栂尾高山寺什物
     躬行曰、此四巻のうち、二巻ハ猿兎狐蛙の類の遊戯圖なり、一巻ハ竜虎牛馬鶏犬等の戯畫、一巻ハ人物の遊戯なり、曾て真蹟を展看するに、首尾一貫して他筆の補續あるをしらず
     [補]真頼曰、覺融僧正戯畫三巻、摹本浅草文庫にあり
     [補]又曰、畫學叢書に、覺融僧正繪本の今高山寺の本に傳ハらざるところ、ニ三處見へたり、畫學叢書ハ谷文晁の縮寫を板本とせるものなり
     [補]又曰、覺融僧正戯畫ハあるひハ獸物畫ともいへり、其數三巻なるも固よりさることなりけり、其の故ハ明治十六年三月此巻を博物局にて修理せしに裏打の紙の下より獸物繪上中下、同類局ニ局開田殿□□□と見えたるにてしられたり。この獸物畫の外に同類のものニ局ありしことは亦知られたり、しうれともこのニ局ハ今ハつたわらず、惜むべし。
     
    脚注:[補]真頼曰覺融僧正繪本も戯畫も今ハをしこめて、覺融僧正戯畫といへり

    ”明治十六年三月此巻云々”は、「華厳宗祖師絵伝」(国宝、高山寺蔵。「華厳縁起」とも)を明治16年(1883年)に修理した際に義湘絵二巻の裏打紙から発見されたものを言っている。華厳宗祖師絵伝(けごんしゅうそしえでん) | 京都国立博物館 | Kyoto National Museum
    ”躬行”は古川躬行。江戸後期~明治期の国学者、神職。黒川春村の「考古画譜」を考証改訂し完成させた人物。号、汲古堂。
    ”浅草文庫”は旧幕府朝倉御蔵跡に文部省が設置した書籍館。のち帝国図書館を経て国立国会図書館。

  • 明治32年(1899年)旧国宝指定。

    甲種二等 紙本水墨戯畫(傳僧覺融筆) 四巻 京都府京都市葛野郡梅ヶ畑村 高山寺

 断簡

  • 国宝品は古くより高山寺から諸方へ貸し出されのか、その過程で分断されたと見られており、断簡がいくつか確認されている。

 東博所蔵断簡

 MIHO MUSEUM所蔵断簡

  • 鳥獣人物戯画断簡(甲巻)-文化遺産データベース
    黒漆真塗りの内箱の蓋表に、「鳥羽僧正覚猷筆 一㡧」、蓋裏に「抱一暉真記」と金字で記されており、さらに朱漆で「等覚院印」という長円印が添えられている。さらに箱内に住吉家の鑑定折紙と書状が収められている。
     折紙は文化14年(1817年)住吉広尚によるもので、「獣戯遊繪 一鋪 右者鳥羽僧正覚猷真筆無疑者也 文化十四丁丑三月廿一日 住吉内記廣尚」と記されている。これに相対する史料が東京藝術大学所蔵の「住吉家鑑定控」で、それにより喜谷喜六の所蔵であることがわかる。「喜谷喜六」については詳細不明。この折紙を入れた包紙には「長井十足」の白文方印が押されており、裏面には高明親王から覚猷に至る系図に「十足」の朱文印が押されている。長井十足(ながい じゅっそく)は明治初年の著名な美術品鑑定・収集家。
    ※「図版解説「鳥獣戯画」甲巻の残欠2種--新出本と益田家旧蔵本」 秋山光和 美術研究 第292号
    ※「住吉家鑑定控 一」 東京文化財研究所刊行物リポジトリ 美術研究 第38号

 高松家旧蔵断簡

TOBA SOJO SCROLL
Height 11.3" Length 21.1"
Fujiwara or Kamakura, XII-XIV century A.D.
Ex Coll. : Yamamoto, Tokyo, until 1921 ; Takamatsu, Aichi, until 1938.

  • 甲巻系の断簡。
  • 「高松家所蔵断簡」、「A・B・マーチン氏所蔵断簡」
  • 高松定一氏旧蔵品で、のちA・B・マーチン氏所蔵となり、昭和30年(1955年)よりブルックリン美術館に寄託されている。氏の死後は、子息であるRobin B. Martin氏の所蔵となっていた。※Robin氏は2019年死去。
    高松定一は、食糧生産資材の専門商社の創業者一族。初代定一が文久3年(1863年)に尾張で創業し、尾張藩の御用達商人となっている。代々定一を名乗りとし、3代目は大正8年(1919年)に父・定一の死に伴い家督相続。昭和15年(1940年)に名古屋商工会議所の12代会頭。昭和23年(1948年)死去。上記メトロポリタン美術館の「The Guennol Collection」からの引用によれば、大正10年(1921年)まで東京の山本氏所蔵ののち、高松氏が昭和13年(1938年)まで所蔵したことになる。

    アラステア・マーティン(Alastair Bradley Martin)
    アメリカ・ニューヨーク出身のテニス選手。1933年から1971年にかけてシングルスとダブルスで合計18ものタイトルを獲得し、1973年に国際テニス殿堂入りしている。2010年1月12日死去。アラステア・マーティンは著名な美術品コレクターであり、彼と彼の妻Edith Park Martinによる「the Guennol Collection」は有名。美術関係書籍では「A・B・マーチン」と表記される。※コレクション名の「Guennol」は、夫妻が新婚旅行を過ごしたウェールズにおけるウェールズ語での「marten」(テン)を意味する「guennol」から取られたという。Alastairの母Helen Margaret Phippsは、カーネギー鉄鋼会社の共同創立者のひとりHenry Phipps Jr.の娘。

 益田孝旧蔵断簡

  • 益田孝氏旧蔵品。
  • 甲巻系の断簡。
  • 弘化4年(1847年)の住吉弘定による折紙が付属する。「獣戯遊之絵一鋪 右鳥羽僧正覚猷真筆無疑可謂稀品者也 弘化四季五月廿一日 住吉内記弘定」とあり、これも同様に東京藝術大学所蔵の「住吉家鑑定控」で「本屋平藏ゟ來」と記載されている。
  • さらに柏木貨一郎による長文の由緒書「高山寺繪本残缺禽獸遊戯競馬圖伝來」が添えられている。
    それは次のような内容である。高山寺の絵本は本来五巻伝わっていた(山城國高山寺にいとふるくより五巻傳へたる)がいつのまにか一巻が散逸し、一段ずつの掛絵となり現在四・五段が伝わっている(いつの頃なるやそのうちの一巻はちりほひて、今寺に傳ふるものは四巻なりき。しかしてそのちりうせたる一巻は一段つゝの掛繪となりて、今こゝかしこに四五段傳はれり)。この一巻がまだ高山寺にあった頃に写された模本が住吉家に伝来しており、柏木はそれを見たことがあるが現在は所在不明であるという。中でも優れたものが競馬図と巻末の舟遊びの段である(巻首は猿兎なとのむれゐて、競馬の支度せるところよりかきいたして此の圖につゝき、それより蹴鞠の戯れにうつりて巻尾は舟あそひの管弦の段にて終る。かく數段あるか中に、いとも妙なるところはこれなる競馬と船遊びにてその他はさせる見所すくなし)が、後者については行方が知れない(船遊ひの段は今在をしらす)。競馬図の掛幅は、旧幕府表坊主組頭平井善朴の珍蔵品で、維新後に赤松琴二に渡り、柏木は明治6年(1873年)に金八両で入手しようとするも金十両で蜷川式胤の所有となった。その後も長らく所望し、蜷川の死後遺族に交渉するも叶わず、神戸布引に居た時に大阪・戸田商店の戸田露吟よりようやく入手できたが価格は17年前の17倍となっていたのだという。柏木は明治23年(1890年)に入手し、同年10月8日に由来書を記している。その後益田孝に伝わったものと思われる。
    ※「図版解説「鳥獣戯画」甲巻の残欠2種--新出本と益田家旧蔵本」 秋山光和 美術研究 第292号
    ※「住吉家鑑定控 三」 東京文化財研究所刊行物リポジトリ 美術研究 第40号

    判明している範囲の伝来を整理すると、平井善朴 → 赤松琴二 → 蜷川式胤 → (戸田露吟) → 柏木貨一郎 → 益田孝 → 個人蔵となる。

 模本

 長尾家旧蔵模本

鳥獣人物戯画模本
伝土佐光信
ホノルル美術館所蔵

  • 元は前山久吉(観空庵)旧蔵品で、同家の売立に「戯画残闕」として出品されたものが長尾欽弥により落札された。
    前山久吉は明治~昭和期の実業家。三井銀行函館支店長、日本絹綿紡績取締役、東京信託取締役などを経て、対処8年に浜松銀行(現、静岡銀行)頭取となる。その他数社の取締役などを歴任した。前山久吉翁百話 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 巻末に「此一軸土佐將監筆也 探幽法印」と狩野探幽の極書があり、これにより伝土佐光信とされている。
  • 現在の甲巻にはない要素が描かれている。
  • この「長尾家本」をさらに狩野探幽が模写した模本が、京都国立博物館に所蔵されている。

 住吉家伝来模本

梅澤記念館所蔵

  • 各巻第一紙右下隅に住吉家蔵を示す「住之江文庫」の蔵書印、その裏面表紙に「草筆 五巻之内 住吉内記」と住吉内記弘定自筆の墨書がある。また一巻末尾に、「慶長三年二月中旬模」の9字がある。さらにこれら五巻を包んでいた包装紙に、「五番 栂尾高山寺什物 住吉内記云々」、中央の貼紙に「草筆 五巻」、「右外題如慶法眼廣道筆」と記されている。
    如慶法眼廣道とは、江戸幕府御用絵師住吉派の祖である住吉如慶のこと。名は広通、広道、或いは忠俊。通称は内記。土佐光吉の弟子とされる。寛文元年(1661年)に剃髪して如慶と号し、法眼に叙せられる。翌年後西天皇の勅命により住吉姓に改める。
  • 田中喜作の論文に、昭和15年(1940年)に某百貨店で開催された古書即売会に出品されていたものが、梅澤彦太郎の所蔵となった経緯が書かれている。
    梅澤彦太郎は日本の実業家。日本医事新報社社長、社団法人日本陶磁協会初代理事長、日本出版協会会長を歴任。号・曙軒。昭和43年(1968年)、日本医事新報社内に梅澤記念館を開設した。昭和44年(1969年)没。

 狩野探幽模本(探幽縮図)

紙本墨画・淡彩
1巻
縦19.8 cm 横1156.3 cm
鳥獣戯画等絵巻(探幽縮図)
京都国立博物館所蔵

  • 上記「長尾家旧蔵模本」を狩野探幽が模写したもの。※ただし厳密に同じではなくところどころ差異がある。※引出物の献上を受ける猿の僧侶、兎蛙の相撲、猿の双六遊び
  • 「寛文七 六月二日□□□□來 土佐古將監と申上候(白文瓢形印「生明」)」という奥書があり、寛文7年(1667年)に探幽が模写したことがわかる。※生明は探幽の別号。

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