道誉一文字
道誉一文字(どうよいちもんじ)
- 鎌倉中期、福岡一文字派の代表作と伝わる
- 享保名物帳所載
道誉一文字 長二尺六寸四分 代金百枚 松平伊予守殿
昔佐々木道誉老所持 貞享究
- 詳註刀剣名物帳所載
松平伊豫守殿(岡山池田侯爵家)
佐々木道譽は近江守信綱の玄孫佐渡判官高氏と云ふ、足利尊氏に從て家を起す、今の京極家の祖なり、松平伊豫守は新太郎光政の子備前少將と称す、天樹院尼公本多忠刻へ嫁して設たる女の子なり。
- 差表中程に四寸ほど、鎺元一寸ほどの染みがある。
- 中心うぶ、目釘孔2個。鎺元近くに「一」と在銘。
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由来
- 佐々木道誉が所持していたことにちなむ。
来歴
佐々木道誉
- 元は婆沙羅大名として高名な佐々木道誉所持。
佐々木四郎高氏。道誉は法名。永仁4年(1296年)生まれ、文中2年(1373年)没。佐々木信綱の玄孫。
朽木家
- 天文(1532-1555年)のころ江州朽木谷にあった。
- 享禄元年(1528年)、将軍足利義晴が京都の乱を避け3年ほど朽木稙綱のもとで滞留しており、その後も申次衆として将軍家から厚遇されている。この頃に渡ったとみられる。
朽木家以前は足利将軍家にあった可能性があるが、伝わっていない。またこの朽木家からの伝来も途切れており、わかっていない。
越前松平家
- 光長は越後騒動で流罪になったため、光長の姪に当たる「高松殿二宮様」の預かりとなった。この経緯については、「初花肩衝」茶入、及び「童子切安綱」の項を参照のこと。
「質ニ入追而御払ニ成」
一、道誉一文字刀 白鞘
- 貞享元年(1684年)同家から本阿弥家にきて百枚の折紙が付いた。この時、「道誉一文字」を含む数点が、女二宮手元不如意のため質入れしており、その後売却されていたようだ。この時に鑑定に出された(貞享究)ようだ。
松平光長が許され伊予松山より江戸に戻るのは貞享4年(1687年)12月。
尾張徳川家
- その後の来歴は不明だが、尾張徳川家から備前池田家、南部家と渡った。
- これは、翌年元禄11年(1698年)尾張邸への将軍御成が発表され、その際に将軍への献上刀とするために、二百枚極めの刀が必要となったためである。
- 尾張家が南部家に対して「亀甲貞宗」の譲渡を申し込み、その返礼として尾張家から「道誉一文字」と「綾小路行光」の短刀を贈った。
或時尾張家より内使を以公へ乞けるは、貞宗(亀甲貞宗)の刀買得たまひしよし、此物は我家由緒有物なるを子細有て人に與へたるものなり、今度將軍家我家に來りたまはんとなり、奉献の刀は貳百枚の折紙添にあらされば献すること不能、彼貞宗は我家由緒ある刀と云貳百枚の折紙添なれば希くは此刀を得て獻じ奉らん、若某に譲り給はゝ、幸の甚しき何れか是に如かんやと公速に承諾し彼刀を尾張家へ進せられけり。尾張家より使者を以て謝詞を述答禮として道誉一文字の太刀、綾の小路行光の短刀此二刀を送くれける、
鞘書に「道誉一文字御刀 尾張中納言綱誠卿より被進」と記載があるが、佐藤氏はこれは池田家から尾張家への贈答の返却であるという。ただし、「亀甲貞宗」の逸話では尾張家と南部家が直接やりとりを行ったとされ、その時の返礼としてあわせて「綾小路行光」の短刀も贈っている。この一連の譲渡については「亀甲貞宗」の項に詳しい。
南部家
- 盛岡藩4代藩主・南部行信(在位:1692-1702)の代に尾張家から「道誉一文字」と「綾小路行光」の短刀を贈られた。
- 南部家への譲渡は元禄10年(1697年)12月。
元禄十年
七月廿三日、尾張黄門(綱誠)様へ来春 御成之義就被 仰出候、被為成候節、可被献金弐百枚迄之御道具無御座、依之御扶持人本阿弥光律を、本阿弥光政所迄御使者被遣 殿様(南部行信)御所持被遊候亀甲貞宗之代金弐百枚之御道具御もらひ被成度旨、御内意被 仰越、其後成瀬隼人正殿より御状ニて申来候付、昨晩御留守居瀧六右衛門ニ右之貞宗為持、中納言様へ被 進、今日御礼之趣、隼人正殿より御状ニて申来
十二月廿一日、尾張中納言様より御進物、御刀道誉一文字代金百枚、御刀行光代金五十枚、御刀助真代金五十枚、右之通、袋入、白さや、白木桐箱ニ入、成瀬隼人殿より添状ニて来ル
- 岩手古文書研究会の「岩手古文書館 第3巻」南部藩士登曽草紙にも赤澤側用人の話として登場する。赤沢某から献上された人物(藩主)と尾張家との交換を許諾した人物は同一人物のように読めるため、亀甲貞宗入手から道誉一文字との交換は、早くとも元禄5年(1692年)~元禄10年(1697年)の間に起こった出来事ではないかと思われる。
一 赤澤某は 側用人にて元〆役を兼勤ける 兼々和哥を好み又目利を能す 依て公の内意を得て本阿弥家へ出入して 弥目利に
委 しかりけるが 或時商人貞宗の刀を持來って赤沢氏に見せ 價七百五拾兩のよし申ける 赤沢速かに買取 公の前に出て 斯の如くの名劔世に稀成所也 幸ひに今日某が方に持來る者あり 誠に得難きの物故 價彼が詞に任せ買取候由にて見せ奉りけるに 公大に悦こび給へ 此如き物は後日共に 我に伺ふ事なく買取べしと赤沢氏に褒美し給ひ 大に珍蔵し給ひける
時に尾張家より 内使を以て 公へ請けるは 貞宗の刀を買給へる由 此物は我家由緒有物なるを 子細有て人に與へたるもの也 今度将軍家 我館に來り給はんと也 奉献之刀は 弐百枚の折り紙添に有ざれば 献ずる事能はず 彼貞宗は我家由緒有刀と言 弐百枚の折紙副なれば 希はくば此刀を得て献じ奉らん 若某に譲り給はば幸ひの甚しき 何れか是にしかんやと 公速かに承諾す 彼刀を尾張家へ送り進ぜけられける
尾張家より使者を以て謝詞を述 答礼として 道誉一文字の刀金作り也此刀ハ足利家の京都の乱に佐々木入道道誉一文字の太刀を以て甲を割冑を切事爪を割か如くなり佐々木家ニ傳ふ道誉一文字と号す後豊臣家ニ傳ふなり珍宝にしてまた徳川家ニ傳ふる処の名劔なりと言
綾の小路行光の刀金作り也此行光豊臣家の秘蔵の短刀ニして鉄石を割ニ手堅きを覚へず後石田三成是を綾の小路行光卿江献す後尾張家江傳ふ依て綾の小路行光と号すと言又一説ニ大坂破れて長宗我部盛親捕れと成し時辱かし免を蒙らんとする時井伊直孝か恩ニ依て辱かし免を受す刑ニ付の日賜りしを直孝ニ言て曰我昔し功有て豊臣家の秘蔵する処の行光の短刀賜りしを昨夜綾の小路の小路辺ニて取落したり此物ハ天下の名刀ニして終ニ廃れん事を嘆く願ハくは是を尋ね求めよと其飾りを志かじかと語りけるをナオタカ果して綾小路ニて求め得て是を徳川家へ献す依て綾の小路行光共言といへり
此弐刀を賜りける
誠に天下無双の名刀也ければ 公大に悦こび給ひ 寶藏に収めて什物とす 赤沢が功也迚 大に褒美士給ひける
- 享保名物帳では「松平伊予守(岡山池田侯爵家)」所持となっているが、実際にはこの時期に「道誉一文字」は既に南部家にあったとみられる。
※一般にこの「松平伊予守」とは岡山藩2代藩主池田綱政を指すとみられている。天和2年(1682年)に父・光政の隠居に伴い家督。正徳4年(1714年)77歳死去。
岡山藩3代藩主継政は大炊頭。また享保ごろの南部利幹は信濃守、大膳亮。さらに享保ごろの「松平伊予守」とは越前福井藩8代藩主松平吉邦を指すが、可能性は低い。
- 享保13年(1728年)の南部藩の御什物御腰物御改では御刀之部の1番目に登場する。
享保十三年 御什物御腰物御改左之通
御刀之部
一 道誉一文字御太刀弐尺六寸四分 白鞘貞享元年代金百枚 折紙尾張中納言綱誠公被進 本阿弥公儀へ書き候也
4代南部行信は元禄15年(1702年)死去。跡を行信三男・南部信恩(5代)が継いだ。信恩は宝永4年(1707年)に死去。異母弟の行信四男・南部利幹(6代)が継ぐ。利幹は享保10年(1725年)死去。兄・信恩の遺児・利視(7代)が継いだ。宝暦2年(1752年)死去。享保13年(1728年)の御什物御腰物御改ということで、この7代南部利視の代ということになる。
この行信~利視4代の間、岡山藩池田家との姻戚関係はなく、御什物御腰物御改の1番目に載せるような刀剣を出すことは考えにくい。しかし諸書では享保名物帳の記載に引きずられて岡山藩池田家との往来を指摘する物が多い。もし往来があったなら御什物御腰物御改でもその旨記述するとは思われるが、現時点で真相は謎。
皇室御物
- 昭和3年(1928年)10月、東北地方への巡行の際に南部利淳から皇室に献上された。
盛岡の舊藩主南部伯爵家にては今回聖上陛下秋季大演習御統監のため同地方行幸に際し、御大禮を奉祝する忌みから同家に傳はる「道譽一文字」の名刀を陛下に獻上することゝなり、十月六日御駐輩二日目に海軍中將小山田繁藏を伯爵代理として伺候獻上する事となつた。(報知新聞轉載)
道譽一文字は「名物帳」に松平伊豫守殿(岡山池田家)長ニ尺六寸四分代金百枚、昔佐々木道譽所持貞享元究とあり(後略聖上陛下には六日午後三時間余にわたる野外の御統監から午後四時五分盛岡市の大本營に還幸あらせられたがお寛ぎの御暇もあらせられず南部伯爵家より獻上の同家の家寶「道譽一文字」について南部伯代理小山田海軍中將に拝謁仰せ付けられ、その由來と刀の性質を聽し召されたが、更に四時半からは大本營内に陳列された岩手縣の物産三百余點について約一時間にわたり天覧遊ばされ産米の改良水産振興方法については親しく丸茂知事に御下問遊ばされた
南部家は、幕末の当主南部利恭が明治17年(1884年)の華族令公布に際して7月7日付で伯爵が授けられた。その後大正3年(1914年)に侯爵への陞爵(しょうしゃく)を請願するも不許可となる。さらに昭和3年(1928年)9月5日、10月25日に同じく請願するがいずれも不許可に終わっている。献上はこの時期に行われたものとみられる。跡を継いだ南部利英も伯爵のまま華族制度廃止が廃止され、昭和55年(1980年)に73歳で没。
丸茂知事は丸茂藤平。日本の内務官僚、官選岩手県知事。内務省、鹿児島、愛知、京都、千葉など各地で勤務後、1922年に岐阜市長、1928年に岩手県知事。同年10月の陸軍特別大演習や昭和天皇行幸の準備と実施を行っている。12月には台湾総督府交通局総長に転じ、翌年に依願免本官で退官。のち豊橋市長、関東州大連市長。
- 「御物調書」にも記載がなく、「刀剣と格付け」(深井雅海 2018、吉川弘文館)でも「御物」とした上で「宮内庁蔵」となっている。御由緒物ではない個人相続された私有財産=御物(「御物」項での3分類の2番目)の可能性があるが、よくわからない。
平成21年(2009年)開催の御即位20年記念 特別展「皇室の名宝-日本美の華」でも、所蔵欄に「御物」となっている。
東京国立博物館 - 展示 日本の考古・特別展(平成館) 御即位20年記念 特別展「皇室の名宝-日本美の華」 皇室の名宝―日本美の華 作品リスト
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