石田正宗
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石田正宗(いしだまさむね)
刀
大磨上無銘 正宗(名物 石田正宗)
2尺2寸7分(68.8cm)、反り2.4cm
重要文化財
国立文化財機構所蔵(東京国立博物館保管)
- 相州五郎正宗作
- 享保名物帳所載
石田正宗 磨上長二尺二寸二分 無代 松平越後守殿
毛利若狭守殿所持なり、浮田中納言秀家卿代四百貫にて召上られ石田治部少輔へ遣はさる、治部少、太閤御他界後大名に憎まれ、存命難成様子なり、家康公御哀憐により無恙され共其分にて差置難き故居城江州澤山へ蟄居せしむ、于時慶長五年子三月道すがら結城中納言秀康卿に中村式部、堀尾帯刀両人を御差添、城中まで慥(たしか)に送り候様仰渡、勢田迄御越の刻治部下馬致され良久く秀康卿と御物語、家康公御心入難有奉存候迚(とて)落涙仕り、偖(さて)是よりは拙者領内に候へは御三人共御帰り被下候様、再三被申候右の刀を秀康卿へ進し候御伝来なり
- 鎬造り、庵棟、反りやや高く、身幅やや細め、中峰。
- 表小丸、裏は先尖ってやや深く返る。なかご大磨上、無銘。
由来
来歴
石田三成
- 享保名物帳によると、毛利若狭守が所持していたものを宇喜多秀家が四百貫で買い、石田三成に贈ったという。
「毛利若狭守」は、秀次に馬廻りで仕えていた森若狭守の誤りであるという。浪人後に宇喜多秀家に売ったものとみられる。
結城秀康
- その後慶長4年(1599年)閏3月、三成は佐和山城に蟄居処分となった。武断派からの襲撃を恐れる三成は家康に庇護を求め、家康も大坂から佐和山までの途中を気遣い結城秀康に護衛させたという。
- 三成は、若く覇気のある秀康と大いに気が合い、近江勢田まで来たときに佐和山への見送りに秀康を付けてくれた家康の配慮を謝すと共に、自ら所有する正宗を秀康に贈ったという。
- 秀康は、この刀を「石田正宗」と名づけ生涯にわたって愛用したという。
作州津山松平家
- 御腰物帳
石田正宗 長サ弐尺弐寸弐分半 磨上 相模国鎌倉住 岡崎五郎ト号ス 三作之一也
御脛巾金無垢 二重地鑢
御袋緋緞子 色糸ニ而 石田正宗ト縫入レ有之 紐紫
内箱黒塗 蓋ニ石田正宗ト 金粉ニ而記有之 紐付金物 銀四分一 紐紫 外裏萌黄緞子 紐萌黄
外箱溜塗 金粉ニ而 石田正宗ト記有之
- 恐らくこの頃に重要美術品に認定されている。
中島喜代一→佐藤寛次
- 太平洋戦争後に静岡の佐藤寛次氏が本刀「石田正宗」と「石田貞宗」を入手している。先に正宗を入手していた佐藤氏が、貞宗を入手した経緯を次のように語っている。
この二振りは、慶長年間に分かれ分かれとなってから、三百六十五年目にようやく私のところで、一腰に返ったわけである。
(中略)
その貞宗が私の手に入ったキッカケは、たまたま正宗の刀を持っている私と、貞宗を持っている山本賢三氏が本間先生のところで会った時のこと。先生がニコニコして、「やあ、これは石田の大小がそろったわい」と申された。すかさず山本氏は、「老いては子に従え」といわれて、小に大をそろえろと肉薄してこられた。そこで私は「子供は親爺の家に入るのが順当ではないですか」と切り返して、一応引き分けになった。
その後、五、六年たってしまったが、世の中にはまだまだ封建制度がのこっていたとみえて、ついに子は親に従った。しかし、貞宗の箱や折紙、それに正宗の箱はどこに散ったものやら、まだ私のところへはこない。そのうちに、せめて私の代に全部そろうようにと望んでいる。
つまり、本間氏のところで出会った際には、「小」こと石田貞宗は山本氏が、また「大」こと石田正宗は佐藤氏が所持していたことになる。お互いに俺に譲れと言い合ったが、結局5~6年後には石田正宗が佐藤氏の手に入ったということになる。
- 昭和28年(1953年)11月14日に国宝指定。
- 現在は二腰ともに東京国立博物館所蔵。
越前福井藩の「石田正宗」
- 一説に越前福井藩にも「石田切込正宗」が伝わったとする。
- しかしこれについては幕末の第16代越前福井藩主松平春嶽が否定している。
秀康公へ石田三成か佐和山城まで政宗(五郎入道正宗のこと。以下正宗)の刀を送呈せし事は、誰もしる所なり。此家に五智ノ則重ノ刀あり。これを石田正宗と唱へ来りしか、此石田正宗は、元津山家の所蔵なり。予も津山家にて此刀を見たり。無粉石田正宗ニ相違なし。五智ノ則重ノ刀は、豊太閤薨去ノ後、為御遺物。石田三成御使いにて秀康公へ賜ふ所の物也。夫故石田正宗の間違の伝へあり。則重ノ刀切羽太閤ノ御桐紋を彫付てあり。これニて判然せり。秀康公薨去の後、当家と津山家へ、石田正宗と五智則重と折半して所有になしたるものと被考候。
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