石田貞宗


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 石田貞宗(いしださだむね)

脇指
無銘 相州貞宗(号 石田貞宗)
附黒漆小脇指
1尺3分強
重要文化財
東京国立博物館所蔵

  • 無銘平造り。
  • 表には梵字、蓮華、火形、護摩箸。裏には梵字と護摩箸の彫りが入る。
  • 拵えの角頭は綠赤胴七子、目貫赤胴水雅、柄白鮫鶯茶糸巻、鐔赤胴丸形、小柄紋顕乗作光壽彫付銘。

 由来

  • 号は石田三成が所持したと伝えられることから名づけられた。

 来歴

  • 元は毛利家の家臣が所持していたという。

    貞宗については、面白い話が残っている。これは、かつて毛利の家臣が大切にしていたのだが、三成がそれを見てほしくてたまらず、ついに得意の計略を出し、その侍に手紙を送った。曰く「もしその貞宗を殿下(秀吉)に見つけられたら、どんな目にあうかわからないから、黙って私によこせ」。──いかにも三成らしいところがよく表されているではないか。

  • 関ヶ原の戦いの後、石田三成は逃亡するも近江伊吹山中で捕らえられ、十一月一日に小西行長や安国寺恵瓊らとともに処刑された。この時、三成から捕縛した田中吉政に貞宗が伝わったという。切刃貞宗の項を参照。
  • しかしそれとは別に、家康が三成を斬らずに榊原康政に預け、天寿をまっとううさせたという言い伝えが残る。この貞宗は三成が榊原家に贈ったもので、榊原家に伝来したのだという。
  • 昭和5年(1930年)4月の第2回日本名宝展覧会では小山悦之助氏所持。

    二二五 石田貞宗 一口 小山悦之助家
    これは石田三成の指料と傳へらるゝものである。三成は關ヶ原役後三條ヶ原において斬首せられた如くなつて居るが、實は家康の命に依り、越後高田の榊原家に預けられ、名も志田と改めて餘生を全うしたとの説で、榊原家代々の當主は重臣も退けて次代へこれを口傳したと今なほ同家に傳へられ、大正十五年二月高田市本岳寺に三成の墓は發見せられて居る、この短刀は三成が榊原康政に贈つたものである。

    小山悦之助は信州佐久郡小諸生まれの実業家。小山氏は代々の名家で、父の小山五左衛門(直溫)も事業で成功した人物であったという。小山氏は甲斐源氏安田義定の次男義秀の後裔を称しており、小山悦之助の「山五」家は、義定より数えて20代小山信勝の次男・小山五左衛門信定を家祖とするという。その5代目が小山悦之助となる。
     明治22年(1889年)父の設立した有限責任帝国中牛馬会社(陸運業会社)で、悦之助は実質的な経営者として働いている。さらに明治26年(1893年)には五左衛門は帝国中牛馬合資会社を設立している。悦之助はのち七尾鉄道会社の設立にも参加し重役になったという。さらに後、明治29年(1896年)に野田益晴が設立した鐵道車輌製造所の取締役にもなっている。昭和3年(1928年)家督を次弟の安治に譲り隠居。古美術に関心があるようで、早くから美術関係誌に名前が載る。日本刀では、他にのち加藤正治所蔵となる昭和9年(1934年)12月20日重要美術品認定の太刀(小太刀)銘長光を所蔵していた。

    ただし「三成の墓云々」については既に疑問に感じて調査した人物がいる。それによれば、本岳寺は本覚寺の誤りであり、なおかつ墓碑は「本姓石田志田氏墓」、裏面に「享保十八癸丑建之」と記してあったという。またこの志田氏の末裔という志田武彌氏に訪ねた所、氏の亡父が記した由緒書では先祖を石田丈右衛門といい、松平定綱に仕えたという。罪をかぶって断絶し、のち母方で越後住人の志田三郎を頼ったという。今の志田家の初代という石田重三郎は、この丈右衛門との関係が不明ながら、越後高田に住していたがある時隣家から出火し具足櫃や家系図が焼失し、わずかに関孫六の長刀と相州秋広の脇差が残ったという。この重三郎は享保18年(1733年)正月16日に亡くなっており、どうも本覚寺の墓はこの重三郎氏のものであるらしいという。のち3代目にあたる志田元八は父元右衛門の遺命により志田と改めた。6代の録之助(のち元右衛門)は、24・5歳の頃に柏崎で勤めていたが、官軍が迫ったために桑名に移住したという。末裔の志田武彌氏はこの7代にあたるという。
     つまり少なくとも大正15年(1926年)2月に高田本覚寺で見つかったという墓は、三成本人のものではないことがわかっている。

  • 昭和28年(1953年)11月14日重要文化財指定。
  • 昭和32年(1957年)時点で大阪府の山本賢三氏所持。
  • 昭和33年(1958年)でも山本賢三氏所持。
  • 太平洋戦争後に静岡の佐藤寛次氏が元から所持していた「石田正宗」に加えて、本刀「石田貞宗」を入手している。昭和43年(1968年)時点で佐藤宣雄氏(寛次氏同住所)所持が確認できる。

    この二振りは、慶長年間に分かれ分かれとなってから、三百六十五年目にようやく私のところで、一腰に返ったわけである。
    (中略)
     その貞宗が私の手に入ったキッカケは、たまたま正宗の刀を持っている私と、貞宗を持っている山本賢三氏が本間先生のところで会った時のこと。先生がニコニコして、「やあ、これは石田の大小がそろったわい」と申された。すかさず山本氏は、「老いては子に従え」といわれて、小に大をそろえろと肉薄してこられた。そこで私は「子供は親爺の家に入るのが順当ではないですか」と切り返して、一応引き分けになった。
     その後、五、六年たってしまったが、世の中にはまだまだ封建制度がのこっていたとみえて、ついに子は親に従った。しかし、貞宗の箱や折紙、それに正宗の箱はどこに散ったものやら、まだ私のところへはこない。そのうちに、せめて私の代に全部そろうようにと望んでいる。

    つまり、本間氏のところで出会った際には、「小」こと石田貞宗は山本氏が、また「大」こと石田正宗は佐藤氏が所持していたことになる。お互いに俺に譲れと言い合ったが、結局5~6年後には石田正宗が佐藤氏の手に入ったということになる。

    ※昭和43年(1968年)には佐藤宣雄氏(寛次氏同住所)所持。昭和40年(1965年)、昭和42年(1967年)の年鑑では山本賢三氏所持。365年と言っているので、1965年頃入手だったのではないかと思われるが、昭和43年(1968年)頃には手に入れていたのは確実だが、詳細は現時点で不明。


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