清田直


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

 清田直(きよたすなお)

肥後熊本藩士、銀行家

  • 愛刀家で知られた。
Table of Contents

 生涯

  • 肥前熊本藩の二百石取りの家系。
  • 藩主細川家の代理として十五銀行の常務取締役となる。
  • この時、同役の草野政信、有島武、副支配人の福住英勇、久野昌一らを刀剣の道に誘い込んでいる。
  • 昭和2年(1927年)、金融恐慌の影響を受け終戦直前に帝国銀行に吸収された。
  • 明治32年(1899年)、79歳のころに散歩の途中に心臓麻痺により大往生を遂げた。

 刀剣

 光忠


刃長72.5cm
国宝

  • もとは信長所持。のち家康から水戸頼房に渡る。
  • 水戸光圀の弟の松平頼雄は、天和2年(1682年)に宍戸1万石を分与され、宍戸藩を立藩(松平大炊頭家)する。この時にこの光忠も譲られ、その後は宍戸藩の松平大炊頭家に伝来した。
  • 元治元年(1864年)に松平頼徳がこの光忠を佩いて天狗党の鎮圧に出陣している。しかし途中で逆の立場を取るようになってしまい、遂には幕命による追討を受け切腹を命じられた。
  • その後同家ではこの不名誉な刀を処分することにし、剣客天野が仲介し、これを浅草で刀商をしていた町田平吉へ80金で売却。その後、町田から岩崎男爵家が102金で購入した。
  • ところが同家に入った所今村長賀らがこの刀の正作は大村加卜程度のものだと否認してしまったと聞き、福地源一郎が岩崎家所有の光忠と則房を交換譲渡して入手した。その後、網屋が仲介して清田が明治20年(1887年)頃に福地源一郎から600金で購入した。
  • この話がなぜか宍戸藩側に伝わり、600金という評価を受けて惜しくなったのか、清田に対して由緒ある刀なので光忠を買い戻したいという意向が伝えられる。
  • しかし清田は吉岡一文字助光であれば交換すると応ずるが、結局値段の面で折り合いがつかず交渉は打ち切られた。
    この吉岡一文字の左近将監助光は、寛永のころに阿部忠秋が隅田川を騎馬で渡り切ったことを賞され家光より拝領したという刀で、当時は麹町の刀商越又(越前屋又右衛門)の手元にあったという。のち堀部から井田栄三、山本悌二郎、宇佐美莞爾田口儀之助と渡って行った。

 守家

太刀
銘 守家造
重要文化財
永青文庫所蔵

  • 守家の太刀はもとは本多家伝来で、金無垢で丸に獅子の彫物のある後藤徳乗の鎺がついていた。細川家蔵。

 景光

 新藤五

短刀
銘 国光
刃長25.0cm
重要文化財
佐野美術館所蔵

 その他

  • 長光太刀来国光の短刀、三原正家の刀(光徳金象嵌)などが重要美術品指定。
  • 元応年記の佐伯則重の短刀。
  • 折返し銘国宗の大太刀(85cm)には梨子地の糸巻き拵えをつけていたが、相撲の吉田追風家(相撲行司の家元)では国技館の行事でこれをしばしば借りだしていたという。

 遺産

  • ある時上記弟子の一同が「せっかく訓導に預かることになった記念に、愛刀の中から一刀をお譲り頂きたい」とお願いしたが、清田は「自分は他人に譲る刀は一本も所持しておらぬ」と断った。草野が「100年後はいかがするおつもりか」と聞くと、「もちろん子孫に遺言して売らせはせぬ」というので、「如何に遺言しても子孫が守るか覚束ないことです」というと「その時は草葉の陰から睨んでおる」と断言したという。
  • 死後、遺産である刀剣類は3人の子に分与された。
  • 長子清田寅はのち事業に失敗し、所蔵品を手放すことになったが、細川侯爵家以外に出ることはなかったという。
  • 次男辰雄は堀部直臣の養子となったため、所蔵品は同じ熊本藩士出身の堀部家に渡った。
  • 三男政人が家を継いだが、所蔵品は戦後大阪の田口家に渡った。

Amazonプライム会員無料体験