小野義真
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小野義真(おの ぎしん)
明治期の実業家
従五位
日本鉄道株式会社社長
小岩井農場設立者
- 小野義眞
生涯
- 1839年(天保10年)4月8日、土佐藩宿毛(現高知県宿毛市)の大庄屋の家に生まれた。小野家は代々邑主安東家に仕え、大庄屋の職をつとめている。
- 通称、強一郎。
- 従兄弟に林有造(逓信大臣・農商務大臣)、岩村通俊(各地の県令、初代北海道庁長官など)、岩村高俊(長岡藩家老の河井継之助に恭順を促したが北越戦争開戦の端緒となった人物)の兄弟がいる。
工部省
- 宿毛領仕置役小頭として、大阪と宿毛の間を帆船「宿毛丸」で行き来するようになり、のち後藤象二郎の商社・蓬莱社の組合員となっている。
- 明治4年(1871年)工部省へ出仕。工部省土木寮土木助、土木寮が営繕寮と合併して大蔵省へ移管したことから、大蔵少丞に任ぜられた。
- 大蔵少丞をへて土木頭となり、大阪港の築港や淀川の改修に関わっている。
- 明治7年(1874年)に退官。
三菱財閥
- その後は三菱財閥の顧問となって岩崎弥太郎を補佐した。岩崎は、重大事案では必ず小野の意見を聞いたうえで決断したという。
- 明治10年(1877年)西南戦争が起きた際には、汽船の購入を岩崎弥太郎に進言、東京から九州の戦場まで武器弾薬や食糧の輸送を一手に引き受けさせて、財を築かせた。これにより三菱財閥は莫大な富を築いた。
日本鉄道
- 明治14年(1881年)2月6日日本鉄道株式会社の設立計画に際して、岩崎から個人的代表として送り込まれた。岩倉具視より日本鉄道会社設立主任に抜擢されて政府や資本家相手に奔走し、資本金1,000万円(現在の数千億円)の会社設立に成功した。
- 日本鉄道の3代目社長に就任し、東北本線上野、青森間の鉄道建設工事を指揮している。その後1898年まで社長を務めた。
現在JR東日本の東北本線や高崎線、常磐線などになっている。
小岩井農場
- 明治24年(1891年)小岩井農場を建設。
- "小"野と、三菱社社長の"岩"崎彌之助、鉄道庁長官の"井"上勝の三名が共同創始者であり、3名の頭文字から「小岩井」農場と名付けられた。しかし小野は農場の開設に尽力しただけで、経営には参加しなかった。
- 明治38年(1905年)5月9日、67才で死去。
刀剣
- 本阿弥成重に師事して刀剣を学び、のち刀剣収集を趣味とし、その蔵刀は500口を超えたという。
備前兼光の刀
- 昭和20年(1945年)頃、十五銀行に細川家の代理として出仕していた鬼塚氏がかねがね刀を欲しがっているのを耳にして、小野は「自分のところには多年蒐集した刀が眠っているから好きなものを差し上げよう」といったという。
- 小野は、どうせ鬼塚には刀剣はわからないだろうと高をくくっていたのだが、鬼塚は当時刀剣鑑定の巧者として知られた樋口老を連れて来て吟味し、所蔵刀の中から備前長船住景光の七字銘の名刀を選んでしまう。これは小野が最も愛する刀で、心中驚いたが今さら前言を翻すわけにもいかず、そのまま進呈してしまった。
- その後鬼塚は西垣四郎作に依頼して拵えを新調し秘蔵したという。鬼塚の死後、子の鬼塚静敬に渡る。鬼塚静敬は丁酉銀行(のち十五銀行に買収)日本橋支店長をしていたが、急逝したため刀は孫に伝わった。
- 明治30年(1897年)頃に鬼塚の孫がこの刀を手放すことになり、同藩出身の清田直に評価してもらったところ、中身は500圓、拵が50圓と評価した。遺族がさらに刀剣商深野卯四童に見せたところ300圓という評価であったため、結局清田に買い取ってくれるよう依頼する。しかし清田直は、それでは自分が買い取るために嘘の評価をいったようで愉しからずとして網屋(小倉惣右衛門)に550圓で買い取らせてしまう。
- この額は当時の相場からしても高額であったため、網屋は3~4年の間秘蔵していたが、後に亀井栄三郎のつてで愛刀家杉山茂丸の知るところとなり、1000圓を出して買い取ったという。
- のちこの刀は赤星家の所蔵となった。
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