小笠原忠真


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 小笠原忠真(おがさわらただざね)

江戸時代初期の大名
信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩初代藩主
春松丸、はじめ忠政
大学頭(大学助)、右近大夫、右近将監
従四位下、侍従、左近将監

 生涯

  • 小笠原忠真(忠政)は、信濃松本藩初代藩主小笠原秀政の次男。母は登久姫(松平信康の娘)で、徳川家康の曾孫にあたる。
  • 幼名は春松丸。
  • 慶長11年(1606年)2月2日春松丸11歳の時、徳川秀忠から偏諱を授かって忠政と名乗る。

    徳川秀忠、小笠原秀政の二子小笠原幸松丸・春松丸に加冠し、それぞれ名乗一字を許し、忠脩・忠政と稲せしむ

    加冠     小笠原春松丸
      宜任大学頭忠政、
     慶長十一年二月二日   「御判」(秀忠)

  • 慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で父小笠原秀政と兄小笠原忠脩が戦死したために信濃松本藩2代藩主となる。

    (慶長20年5月7日)大坂城合戦、小笠原秀政・同忠脩、真田信吉・同信政、仙石政忠・保科正光、諏訪忠頼忠澄、忠恒、・堀直寄等信濃の諸将、天王寺表に戦ふ、小笠原父子討死し、又大坂方真田信繁も討死す

    (元和元年7月17日)徳川秀忠、小笠原忠真、をして、父秀政の遺跡を嗣がしむ
    伏見城にめされて父が遺領をたまふ、この日二条城に登営し、東照宮より熊の皮投鞘の槍二本をたまひ、代々つたへて忠勤をはげむべきむね恩命をかうぶる、こののち旅行の折長江の日傘を用ふることをゆるさる、これ忠真が創をいたはり給ふによりてなり

    忠真は7日夜には久宝寺村を立ち京都へ向かっている。翌8日、京都にて父と兄を荼毘に付し、遺骨を信濃に送らせている。また忠真自身も怪我をしていたため、11日には家康および秀忠から見舞いの使者が京都の忠真の元を訪れている。

  • 元和2年12月には本多忠政の娘(徳川家康の養女)を娶っている。

    忠真、本多忠政の女を娶る

  • 元和3年(1617年)播磨明石10万石への加増転封を経て、寛永9年(1632年)には豊前小倉15万石に移封された。

    (元和3年7月28日)幕府、小笠原忠真、を筑摩郡松本より播磨明石に移封す

    明石時代に七十二挺立の大鵬丸を造船し、御座船とする。小倉移封時には忠真は楠丸に座乗し、大鵬丸には妻子を乗せている。のち船数を増やし、享保頃には七十二挺立から三十六挺立まで十艘を揃えたという。

  • 忠真は徳川家康の外曾孫(母は松平信康の娘)であり、以後小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任を受け外様大名の監視を行った。
  • 寛永11年(1634年)将軍家光之上洛に供奉する。京都四条佛光寺に宿泊。7月22日に従四位下に叙される(或いは16日)。
  • 寛永12年(1635年)春、小石川に屋処拝領。長次(中津藩初代。兄・忠脩の子)が入った。別に本郷屋敷もあった。
  • 寛永13年(1636年)に大名旗本に銀拝借あり、小笠原家では五千貫拝借。江戸城二の丸御殿の石垣普請。
  • 寛永14年(1637年)正月より二の丸御殿の普請始まる。11月島原出陣の命を受け帰国。12月上旬着。
  • 寛永15年(1638年)正月に上使到着、正月晦日に島原に向け出陣。本陣は2月2日。島原に9日着
  • 寛永16年(1639年)5月江戸参覲で乗船。6月4日着。6日登城。この年、小倉御城米として五千石配給あり。
  • 寛永17年(1640年)3月、常盤橋の内、生駒壱岐守上屋敷を拝領。和田倉の屋敷は上地。4月日光参詣、鐘鞍、軍酒、団扇などを献ず。8月15日に江戸発、9月11日小倉着。この年鉄砲洲の屋敷構築。
  • 寛永18年(1641年)4月15日小倉発、5月10日参府。13日黒書院お目見え。8月3日に竹千代(家綱)誕生につき、祝儀の国俊ほか献上。
  • 寛永19年(1642年)この年、軍麾を要望され各所に配っている。井上河内守麾1本、石川主殿頭麾2本及び鎧直垂一領。稲葉美濃守に麾1本。5月14日に江戸発、6月に小倉。
  • 寛永20年(1643年)5月3日小倉発、28日参府。6月2日登城。10月2日夫人円照院没(或18日)。法名は円照院華陽宗月大姉。
  • 正保元年(1644年)冬以来病床に伏す。3月3日初めて出仕。松平伊豆守より内意あり「忠真」と改名。6月2日江戸発
  • 正保2年(1645年)若君(長宣?)元服。閏5月11日常船、6月6日着府。宮本伊織伴。紀伊大納言所望により、八張弓、御弓立、竹尻籠、四目口、一手磁頭、四目の磁頭、御的矢を進上。同じく水戸黄門に弦尻籠、根矢を進上。稲葉美濃守に箙、井上河内守に小箙、小笙革、八目口、角半弓を贈る。
  • 正保3年(1646年)本多大内記に箙および根矢、本多美濃守に箙、根矢を贈る。6月10日江戸発、8月小倉着。10月に本阿弥光甫などが手入れに訪れる。
  • 正保4年(1647年)5月5日乗船、宮本伊織伴、6月9日着府。12日黒書院でお目見え。同月20日万助(忠継)小倉で誕生。6月江戸城追手門勤番。11月に島津光久の犬追物を王子村の邸で台覧、その時犬追物の故実を説明。12月松姫と黒田光之の縁組儀式あり。
    • この時に黒田家へ贈られたのが「鄙田青江」、小笠原家に贈られたのが「博多藤四郎」と思われる。
  • 慶安元年(1648年)4月将軍日光参詣、江戸城の留守を命じられる。同月小倉で東照宮建立。6月木曽路で帰国。
  • 慶安2年(1649年)5月5日小倉発、宮本伊織伴、6月2日着府。4日お目見え。12月細川越中守死去、子息六丸(外孫にあたる)幼稚に付き、後見の依頼。
  • 慶安3年(1650年)3月11日帰国の暇。下旬に江戸発。3月22日帰城。6月肥後へ出発。
  • 慶安4年(1651年)2月中旬肥後へ。熊本油屋吉十郎に宿。宇土で昼休み、八代泊。翌日八代より乗船、水俣で泊。筑後を通って田川経由で帰城。3月23日江戸の久世大和守より早馬があり十文字鑓を上覧するとの通達。高田又兵衛(吉次)、高田斎(又兵衛子)、観興寺七兵衛らが25日乗船、4月8日参府。11日登城し演武。15日も登城仰せ付け。将軍不例のため早めの4月16日に江戸へ。海が荒れ23日大坂上陸、20日将軍薨去。大坂より引き返し5月朔日小倉。12月5日小倉発、26日参府。宮本伊織、坂牧監物伴。28日黒書院で新将軍に御礼。
  • 承応元年(1652年)6月発、7月帰城。
  • 承応2年(1653年)5月5日小倉発、6月3日参府。
  • 承応3年(1654年)5月11日暇、16日発、7月帰城。
  • 明暦元年(1655年)春領内巡検。上野村で興国寺墨染の桜を見る。5月3日発、6月朔日参府。
  • 明暦2年(1656年)6月14日暇、8月4日帰城。
  • 万治元年(1658年)6月21日暇、7月29日江戸発、途中伊賀南部に赴き高安宅に宿。諸勝を歴訪の上、8月23日帰城。12月高安彦太郎来る。※能楽高安流の人物
  • 万治2年(1659年)3月11日にしのお花畑に外出。帰りに沼田是三宅。そこから宮尾八幡宮の方に行っている。高田又兵衛(宗伯)御伴。5月21日発、6月11日着府。13日御礼、献上物あり。稲葉美濃守より手紙が来て先年献上した箙などが焼失したため再度献上するようにとの達し。12月常盤橋屋敷完成し、小石川より引っ越し。
  • 万治3年(1660年)正月11日箙などの道具を献上。3月に小笠原忠雄参府、5月28日お目見え。6月13日暇、7月11日忠雄暇、拝領物あり。21日父子共に江戸発。8月15日帰城。この年、尾張大納言、水戸中納言、高松侯、守山侯、酒井雅楽頭、稲葉美濃守、土屋民部少輔、同姓山城守、同筑後守、松平伊豆守に所望に応じて道具贈る。
  • 寛文元年(1661年)細川綱利が肥後に入部する際、小倉に立ち寄っている。8月参府、8月23日黒書院御礼。忠雄同伴、8月6日発、21日江戸着。
  • 寛文2年(1662年)5月19日御召があり登城。「長崎表之御役儀(長崎探題)」を命じられる。6月3日黒書院で暇。同月13日弾正(忠雄?)暇。7月26帰城。28日長崎へ御越。8月3日長崎奉行黒川(黒川正直?)、島田(島田忠政?)と会見。8月8日帰城。
    元は松平定行(掛川→桑名→伊予松山)が正保元年(1644年)に命じられたもので、異国船との交渉を行うものであった。のち子の松平定頼(松山藩2代)が任じられているが、この年の正月に落馬しそのまま死去したため、小笠原忠真に依頼したものと思われる。
  • 寛文3年(1663年)8月15日大明雪峰即非禅師(即非如一)と会見。10月長崎唐船帰帆後、参覲。忠雄同伴。3日発、26日着。11月15日白書院。12月28日従五位下遠江守。29日に忠真は侍従改右近将監。長崎新町に邸舎を構築。
    即非如一は明国福建省から渡来した臨済宗黄檗派の僧。隠元に招かれ明暦3年(1657年)に来日。能書家とし知られ、隠元隆琦、木庵性瑫とともに黄檗の三筆と称される。詩を善くし、禅味のある観音・羅漢・蘭竹を画いたが、これは日本の文人画のさきがけとされる。寿ぎに松を図案化する最も早い作品は、如一が寛文6年(1666年)に小笠原長真の二十歳の祝賀に送った「松下鶴鹿図」(福聚寺所蔵)とされる。
  • 寛文4年(1664年)正月11日遠江守殿糾方伝授。2月28日暇、3月4日江戸発、忠雄同伴、4月9日帰城。5月7日義叟公(小笠原秀政)五十回忌。
  • 寛文5年(1665年)10月長崎唐船帰帆の後、6日参覲乗船、忠雄同伴。11月朔日着付。7日お目見え。
  • 寛文6年(1666年)3月5日黒書院暇。4月帰路で黄檗山(京都萬福寺)に立寄り。隠元老和尚(隠元隆琦)并木庵和尚(木庵性瑫)へ拝謁。12日帰城。6月13日忠雄暇、19日江戸発、7月12日小倉。
  • 寛文7年(1667年)3月江戸鉄砲洲屋敷造営。5月忠雄参府。7月下旬違例、8月少々回復のち再発。9月京都より薬着。15日遠江守着、会見。17日遠江守に遺言。18日逝去。22日広寿山福聚寺に葬る。
  • 戒名は福聚寺殿徳叟紹勛大居士。


  • 大名茶人でもあり、同地の茶湯隆盛の基盤を築いた。上野焼の育成に尽力したほか、茶人の古市了和を召し抱えて小笠原家茶道古流を興した。


 系譜

  • 小笠原家は徳川将軍家の親藩であり、なおかつ有力大名家との縁戚関係を多数持っている。
                ※亀姫
         小笠原秀政    ├────┬小笠原長次[豊前中津藩]
            ├───┬小笠原忠脩 └───────繁姫
            │   │              │
            │   ├万姫(蜂須賀至鎮正室)──蜂須賀忠英[阿波徳島藩]
            │   ├千代姫(細川忠利正室)──細川光尚[肥後熊本藩]
     松平信康 ┌登久姫  └小笠原忠真────小笠原忠雄[豊前小倉藩]
        ├─┴熊姫     ├──市松姫
     徳姫(信長娘)│     │    ├──黒田綱政[筑前福岡藩]
            │黒田忠之─│──黒田光之
            ├───┬亀姫
     本多忠勝──本多忠政 └本多政朝[姫路藩]
    

 将軍家(円照院亀姫)

  • 小笠原忠真の母は登久姫(岡崎三郎松平信康の娘)。
  • また正室は姫路藩主本多忠政の娘(徳川家康の養女。母は松平信康の次女熊姫)亀姫。
    小笠原忠真は家康の曾孫となり、また忠真と亀姫は信康を通じていとこ同士となる。
  • 正室亀姫はすでに実兄忠脩との間に一男(長次、中津藩初代藩主)一女(繁姫、阿波徳島藩2代藩主蜂須賀忠英に嫁ぐ)を設けていたが、兄の戦死に伴い、家康の命を受け忠真に嫁ぎ、さらに二男三女を設けた。
  • ※兄・小笠原忠脩との子
    • ※繁姫:蜂須賀忠英の正室
    • ※小笠原長次:中津藩初代藩主
  • 小笠原忠真との子
    • 小笠原長安:小倉藩の世嗣。正保3年(1646年)廃嫡。
    • 市松姫:黒田光之の正室
    • 小笠原長宣:小倉藩の世嗣。寛文3年(1663年)死去。
    • 嘉禰:松平頼元の正室
    • 娘(名前不詳):夭折

 側室の子など

  • 側室:那須藤 - 永貞院
    • 四男:小笠原忠雄:小倉藩2代。
    • 六男:小笠原真方:豊前小倉新田藩(千束藩)初代藩主。
    • 四女:千代姫
    • 生母不明の子女
    • 長男:坂牧忠増
    • 五男:小笠原長弘
  • 養子
    • 姫松 - 小笠原長安娘、松平定長正室
    • 齢昭院(繁姫) - 兄・小笠原忠脩の娘、蜂須賀忠英正室

 大名家とのつながり

  • 肥後熊本藩初代藩主の細川忠利、および阿波国徳島藩初代藩主の蜂須賀至鎮は義兄弟(姉妹の婚姻相手)である。
  • さらに正室の亀姫を通じ、姫路藩第2代藩主の本多政朝も義兄弟になる。
  • 長女の市松姫が福岡藩3代藩主黒田光之の正室となっている。この時に「博多藤四郎」が黒田家から小笠原家に贈られた。筑前福岡藩の第4代藩主黒田綱政は外孫となる。


 逸話

 宮本武蔵

  • 小笠原忠真には、剣豪宮本武蔵や養子の宮本伊織が長く仕えたという。
  • 宮本伊織は近習に出仕、出頭人となり弱冠20歳で執政職(家老)に登る。寛永15年(1638年)の島原の乱には侍大将と惣軍奉行を兼ね、戦功により1500石加増、都合4000石となり家中の譜代・一門衆を越えて筆頭家老となる。その後、伊織の子孫は代々小豊前小倉藩の筆頭家老を世襲する。

 ぬか床

  • 小笠原忠真は糠漬けを好み、小倉城入封の際にもぬか床を持ち込み、城下の人々にもぬか漬けを奨励した。
  • この影響で、現代に至るまで旧城下の小倉では各家に代々受け継がれた「百年床」というぬか床があるほどである。

 関連項目


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