京極正宗
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京極正宗(きょうごくまさむね)
由来
- 京極家所持にちなむ。
来歴
秀吉→京極高次
- 京極高次が、秀吉から贈られたものとされる。
将軍家
- 元和8年(1622年)9月に京極高知が死んだ際に、子の高広から将軍家に遺物として献上される。
十二日丹後國宮津城主京極丹後守高知卒しければ。その子采女正高廣に遺領七萬八千二百石襲しめ。二子六丸高三に三萬五千石。三子主膳正高通に一萬石分たしめらる。高通實は朽木兵部少輔宣綱が二子にて。高知が養子となり。小姓をつとめ三千石給ひしかば。これより一萬三千石になる。高廣父が遺物正宗の刀を獻じ。大納言殿にしつ(志津)の脇差。御臺所へ茶壼。忠長卿へ行光の刀をさゝぐ。
紀州徳川家
- 寛永元年(1624年)正月廿三日、大御所秀忠が紀州頼宣邸に御成になった際に、吉平の太刀、松前貞宗の刀とともに秀忠より拝領する。
大御所けふ紀伊中納言頼宣卿の邸に臨駕あり。前日より雪ふかくして。ならせ給ふほどいさゝかやみたり。早朝にかしこにわたらせたまへば。中納言頼宣卿拝謁せらる。吉平の御太刀。松前貞宗の御刀。京極正宗の御脇指。(略)給ふ。(略)御成書院にて七五三の御祝二獻の時に。鳥飼国次の脇差。郷義弘の刀。国次の脇差獻ぜられ。
皇室御物
- 昭和3年(1928年)、京極高修が亡父京極高徳の遺志により献上。
- 以後皇室御物であったが、昭和天皇崩御後に国庫移管された。
樋口正宗(ひのくちまさむね)
- 日本刀大百科事典では、同じく秀吉から贈られた「樋口正宗(ひのくちまさむね)」と同一とする。
- もとは堺の樋口屋という商人所持。
なお「樋口藤四郎」についても同様に、樋口屋から石田三成を経て京極家に伝わる。
- こちらも秀吉の所持を経て京極家に伝わる。
- 明暦の大火で将軍家所蔵の刀が焼けたため、諸侯の名刀を召し上げる事となる。京極家ではそれを避けるため、本刀を無いことにした。
- 享保17年(1732年)に、にっかり青江を吉宗の台覧に供した時にも、この短刀は見せていない。
- 京極高徳子爵は、松平頼平子爵の強い勧めを受け大正8年(1919年)4月27日華族会館においてようやく本刀を公開し、その後皇室に献上。宮内庁保管となるとする。
- 一方で同物とされる「京極正宗」は元和8年(1622年)9月に遺物として献上された後に紀州家に渡っており、真贋はさておくとして2つ存在したことになる。
アゼン正宗
- 明治30年(1897年)頃、いわゆる「正宗封殺論」が起こったころ、この京極正宗はまだ知られていなかった。その後本刀が出てきたことから松平頼平氏が「この短刀をみたならば、敵も味方も唖然たらん」と記した。
- そのことから陰で「名物アゼン正宗」などと呼ばれたという。
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