杉原祥造

杉原祥造(すぎはらしょうぞう)  

明治から大正にかけての刀剣研究家

生涯  

  • 明治16年(1883年)尼崎に生まれる。
  • 歯科医を志し、大阪で歯科医院の書生となったのち、東京で歯科医専に進んだが中退する。
  • 明治35年(1902年)神津伯と出会い、その後刀剣研究に没頭する。
  • なお刀剣研究の資金を得るために、競馬に没頭し、これについても科学的研究を行い巨額の資金を得たという。
  • 自分が見た刀は真贋に関わらず押形を採り、それまで最多の刀を見たと言われていた今村長賀を凌いだとされる。今村が享保名物帳について及ばざること七刀といっていたのに対して、杉原は自分は悉く見たと豪語したという。
  • 大正7年(1918年)から國學院大學で毎月日本刀の講義を行っており、大正9年(1920年)3月には中央刀剣会の評議員、さらに同年10月には同会の幹事および審査員に任じられている。
  • 大正7年(1918年)3月淀藩主稲葉子爵家の売立入札では享保名物鳥飼来国次」を大枚をはたいて購入し、これを終生携帯して愛玩した。
  • また同9年(1920年)には、「日本刀を学術的に研究してその成果を発表、愛刀趣味の国民的普及を図ること」を目的として、杉原日本刀学研究所を設立している。
  • 大正9年(1920年)10月には数珠丸恒次を華族の売立の中から発見して買い入れている。この時には東京大阪で新聞記者を招待し、数珠丸についての講演を行ったほどである。
  • 大正11年(1922年)40歳で古社寺保存法による古社寺保存会の委員に任命されるに至る。また同年、国学院大学での講演草稿をまとめた「日本刀講話」を出版。
  • 大正12年(1923年)埼玉の新刀蒐集家で貴族院議員であった野口褧の蔵刀200本余を三万円で買収している。
  • しかし同年、関東大震災で麹町六番町にあった家が罹災し、そこに保存していた刀剣類を消失してしまう。
  • 大正14年(1925年)に「長曽根虎徹の研究」(乕徹の研究)をまとめあげ予約募集を開始する。
  • しかし、その完成を待つことなく、翌15年(1926年)2月に44歳で死去。
  • 杉原の刀剣研究に対する態度は微細な点をも見逃さず、銘では一点一画にまで比較して理屈をつけるものであった。ある人をして、作者(作刀した刀工)自身到底そこまで注意しなかったであろうといわしめたという。

刀剣  

関連項目