後藤又兵衛

後藤又兵衛(ごとうまたべえ)  

安土桃山時代から江戸時代初期の武将
従六位下・隠岐守
又兵衛
黒田二十四騎、黒田八虎
後藤基次

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生涯  

  • 父は別所氏の家臣で、後に小寺政職の配下となった後藤新左衛門という。
  • 幼くして父が病死したため、黒田官兵衛(如水)に拾われ養育される。

出奔と帰参  

  • 天正6年に如水が有岡城に囚われた際に、叔父の後藤基信、その子でいとこにあたる基徳・基長兄弟、母方の叔父藤岡九兵衛などが荒木村重に属したため、一族追放となり仙石秀久に仕えている。
  • のち、天正14年の九州征伐で仙石秀久が逃げ帰った後に栗山善助の与力となって黒田家に復帰している。

再出奔  

  • 朝鮮の役で多くの武功を上げ、戦後は黒田家重臣の一人として筑前六端城の一つ、大隈城(益富城)の城主となり、16,000石の所領を与えられている。しかし長政との折り合いは悪いままで、如水の死の2年後には再度一族揃って出奔している。
  • すでに又兵衛の武名は鳴り響いており、細川忠興に召し抱えられた。その後も福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、旧主黒田長政から「奉公構」が出されたために浪人となった。

大坂の役  

  • 大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称された。
  • 大坂浪人の名簿を見た家康は、「大阪方の浪人衆の中で、武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語ったという。

最期  

  • しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し又兵衛は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。


刀剣  

  • 後藤又兵衛はその豪遊さと奔放な性格から講談物で多く取り上げられ、そこに多くの刀剣が登場する。
  • いずれも刀剣書などに記載されるものではないため、どこまで本当かは知る由もない。

行光  

  • 大坂夏の陣で討ち死にした際に、金万(こんま)平右衛門が、秀頼より拝領の行光の短刀を用いて首を掻き切り、その後行光は秀頼に返したという。この時、首を持ち帰れなかったために又兵衛の折れた「指物」(旗印、あるいは刀)を討ち死の証拠として秀頼に差し出したという。
    このことを記した書付が、平右衛門の子孫により写し一通とともに保管されており、2016年になって岡山博物館の調査により判明した。

日本号の槍  

  • 名槍「天下に二ツの槍(日本号)」は、虎退治で母里友信の窮地を救った又兵衛が譲り受け、これを後の出奔時に、友信の弟の野村祐勝の息子、野村祐直(又兵衛の娘が嫁いでいた)に渡されたとされる。

了戒作薙刀  

  • 黒田家重臣の野村家に伝来したもので、刃長一尺七寸七分。銘は表「豊後国住了戒藤原家能作」、裏「後藤又兵衛尉基次所持之」。

無銘刀  

  • 大磨上無銘で「後藤又兵衛尉捕ス之」と切付たものがある。
  • 刃長二尺二寸九分五厘。
  • 嘉永元年(1848年)に彦根藩士の大塚沢右衛門が山田浅右衛門方に持ち込んだところ、山田は脇毛の辺は落ちると鑑定したという。

青江助次  

  • 後述の朝鮮の役での虎退治の際、又兵衛が用いた刀は青江助次であるとされる。

左安吉  

  • 黒田家を退転した又兵衛は細川家に使えるが、これは黒田家から強硬な抗議があり徳川家からも仲裁の使者が送られたために細川家でもやむなく放出する。
  • この時細川家では餞別の席を設け、黄金五十枚、米五百石、左安吉の刀を贈ったという。

保昌貞宗  

  • 細川家を出て大坂から伊勢の藤堂家を目指した又兵衛は、道中乞食姿で放浪する。この時に携えていたのが保昌貞宗であるとする。

逸話  

  • 多数の逸話が残る人物である。

戦に勝敗はつきもの  

  • 城井氏との緒戦での敗戦である城井谷崩れの後、一揆鎮圧軍を率いていた長政は、頭を丸めて父如水に詫びた。
  • それに追従して物頭以上の他の武将達も頭を丸める中、又兵衛は従わなかった。周囲から危惧されたが、特に悪びれる様子もなく平然とし、次のように言い放ったという。

    戦に勝敗はつきもの。負け戦の度に髷を落としていたら、生涯、毛が揃う事がないわい

  • 如水は不問に付したが、先に頭を丸めていた長政は大いに面目を失ってしまった。

朝鮮の役にて  

  • 文禄の役で長政が朝鮮軍の敵将と組み合って川中に落ちた際、又兵衛はその傍に居たが、この一騎打ちにまったく加勢しなかった。不思議に思った小西行長の家来に問われると、又兵衛は「敵に討たれるようなら我が殿ではない」と言って、悠然と見物を続けたという。長政は、どうにか敵将を討ち取ったものの、この一件で又兵衛を非常に恨むようになったとされる。
  • また慶長の役で、長政の営中に虎が出現し馬を噛み殺し暴れまわったことがあった。家臣の菅正利が虎に斬りつけ、虎が逆上して正利に襲い掛かろうとしたところを又兵衛が割って入り斬り、正利が虎の眉間に一撃を加えて即死させた。
  • このとき、夜襲かと疑って井楼に昇り一部始終を見ていた長政は、「一手の大将たる身に大事の役を持ちながら、畜生と勇を争うは不心得である」と二人を叱責したという。
    • 菅正利の刀については「南山」の項参照
  • 戦況判断に優れていた事を示す幾つかの逸話を残している。斥候中に上流から日本の馬の沓(くつ)が流れてくるのを見つけ、既に味方が渡河を開始していると判断した。また山かげで敵に遭遇した先鋒部隊の鬨(とき)の声が近付いてくるのを聞き、圧されていると判断している。さらに遥か向こうの敵陣の馬煙を見て、近付いてくるなら黒く見えるはずだが、白く薄くなっているので、敵の敗北と判断したといい、このいずれの判断もあたっていたという。

長政の性格について  

  • 再出奔ののち細川家に士官した時に、旧主黒田長政について聞かれた又兵衛は、次のように答えたという。

    明日にも長政と一戦するという状況になっても、何の謀り事も要りません。鉄砲隊50挺に申し付け、構わずに敵の先頭をやってくる槍前槍脇をとにかく御撃ちなさい。五人も撃ち倒せば、真っ先では無いかも知れませんが、二人目か三人目には長政を討ち留める事でしょう。黒田長政という人は天性剛強な生まれつきで、どんな合戦でも先手に出、物脇の二人目か三人目にあって諸士と先を争う将であるので、この先陣争いの連中を御討ちなさればそのまま安々と黒田長政を御討ちになれます。

    要するに、長政の性格からして戦場では必ず先駆けて突出する。だから先陣争いの兵を鉄砲で撃てばその中に長政が混じってるであろうということ。

  • これを聞いた細川家の諸人は、「長政に不満を持ち黒田家を立ち退いたというが、古主を悪く言うように見えて、実は古主の武威を語っていた。忠義の厚い、見事な侍である。」と褒め称えたという。

「奉公構(ほうこうかまい)」  

  • 主家を見限って出奔した又兵衛を長政は深く恨んでおり、又兵衛の仕官先である細川家への抗議を行っている。これに両家の対立を懸念した家康も介入することになり、又兵衛は細川家を退転する。
  • 次に仕えたのが池田家で、池田輝政の勧めに従って輝政の息子池田忠継に仕えた。
  • 頭にきた長政はこれに対してついには「奉公構」を出している。これは、大名が出奔した家臣又は改易した者について他家が召抱えないように釘を刺す回状を出すことをいう。猛抗議を受けて居場所のなくなった又兵衛は、慶長18年(1613年)1月に池田輝政が死ぬと池田家を退転している。
  • その後も、福島正則・前田利長・結城秀康など諸大名が又兵衛に関心を示したが、黒田家との争いになることを恐れ、召し抱えることを断念したという。
    奉公構を受けた人物は多いが、旧主が徹底的に嫌ったために他家にも仕えることなく浪人せざるを得なかった例としては、この後藤又兵衛(黒田長政)や渡辺勘兵衛了(藤堂高虎)、塙団右衛門(加藤嘉明)の例が高名である。
     このうち渡辺勘兵衛は大坂の役で徳川方に属したために役の後も生き残るが、旧主高虎の子の藤堂高次が引き続き奉公構の方針を維持したため仕官はかなわず、その才を惜しんだ細川忠興や徳川義直らの捨扶持を細々と受けながら、「睡庵」と号し京都に隠棲した。渡辺勘兵衛は寛永17年(1640年)死去。

刺客  

  • 「奉公構」で満足しなかった長政は、遂に又兵衛に対して刺客を差し向けている。
  • 刺客が送られたことを忠告に来た者に対して、又兵衛は「噂に怖気づいているようでは武士の名折れである」と動じずに語ったとされる。
  • ある時外出中に2名の刺客の存在に気付いたが、刺客は又兵衛を恐れて手が出せず、筑前に逃げ帰った。しかし長政はそれを止むを得ないものとして、逆にその刺客に100石を加増したという。

大坂の陣にて  

  • 大坂の陣で又兵衛に近侍した長沢九郎兵衛が、大坂の陣の様子を書いた「長沢聞書」を遺している。
  • そこには、「又兵衛の体は全身傷だらけであり、傷を風呂で数えてみると、53ヶ所もあった。」「指揮の声が通りやすいように、外していた面頬を持たされていた。」「真田丸の戦いは偶発戦ではなく、城兵と内通していた松平忠直を偽矢文で誘い出したもので、又兵衛も采配を振るって雷のような攻撃を行った。」などと記されている。

    又兵衛儀、深淺の疵、風呂にてかぞへ候處に、五十三ヶ所、慥に有之候。

関連項目