立川文庫


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 立川文庫(たつかわぶんこ)

講談文庫本

  • 明治末年から大正中期にかけて、大阪の立川文明堂(立川熊次郎)から発行された少年向けの講談文庫本。
  • たちかわぶんこ、たてかわぶんこ
    立川文庫の読みについては諸説あるが、実際の立川文庫の文中では「此の晴々しい戦ひ振は曩に出版した立川文庫(たつかわぶんこ)中の『真田幸村』『大阪冬之陣』『大阪夏之陣』の中に詳しく書いてあるから本編には省くことゝした。」、「次に發行する立川文庫(たつかわぶんこ)は怪傑梵字太郎」などと複数箇所でわざわざルビを振っていることから、本来は創業者である立川熊次郎氏の読み通り「たつかわ文庫」であったことがわかる。
     しかし、立川文明堂など実際に販売されている現場においては「たちかわ文庫」などと呼ばれていたとの証言もあり、よみがなにブレが有ることも事実である。大衆芸術の伏流 - 国立国会図書館デジタルコレクション
     なお立川氏の出身地である兵庫県姫路市では、現在でも立川を「たつかわ」と呼んでいる企業が複数確認できることから、当地では「たつかわ」読みが一般的だったようである。しかし主に関東地域では立川市(たちかわし)や落語立川流(たてかわりゅう)に引っ張られた読みで呼ばれることが多いようだ。

 概要

  • 第一巻の「一休禅師」(明治四十四年春)以降、水戸黄門、大久保彦左衛門、真田幸村後藤又兵衛、宮本武蔵など実在の人物を主人公にした出版が続いた。
  • しかし第四十巻に登場した猿飛佐助以降、霧隠才蔵を始めとする真田十勇士が特に人気を集めた。

 歴史

  • 明治中頃、講談を速記して本にすることが流行しており、その後旅回りの講談師2代目玉田玉秀斎の妻・山田敬の連れ子である山田阿鉄(山田酔神)が、速記者を使わずに直接講談を筆記する書き講談を思いつく。
  • この書き講談を小型本(文庫本)化する案を、大阪の主要な出版元に持ち込むが相手にされず、唯一企画を受け入れたのが、1904年に立川文明堂を創業した立川熊次郎(たつかわくまじろう)であった。
    立川熊次郎(たつかわ くまじろう)は明治から大正期の実業家。明治11年(1878年)兵庫県揖東郡宮田村(現在の姫路市勝原区宮田)の富農の家に生まれた。しかし明治21年(1888年)に父が米相場で失敗して財産を失う。かんぴょうの販売や水車小屋で働き財を成す。のち、大阪の古書店経営者岡本増次郎の妻となっていた姉かじの誘いで、岡本が「岡本増進堂」の従業員となって貸本屋への卸業務等を務めた。明治37年(1904年)、満26歳時に、大阪市東区唐物町で出版取次業「立川文明堂」を創業する。
     この頃、講談師が行う講談を速記して本にすることが流行っており、旅回りの講談師玉田玉秀斎の妻・山田敬の連れ子である山田阿鉄(山田酔神)が速記者を使わずに直接講談を筆記する書き講談を思いつき、この企画を立川文庫に持ち込んだ。すぐに立川文庫の「講談文庫本」は大人気となる。特に「猿飛佐助」の人気は凄まじく復刻版が出されるほどであったという。しかし大正8年(1919年)に玉秀斎が亡くなると立川文庫は収束に向かっていった。立川熊次郎は昭和7年(1932年)に死去、満53歳。

 内容

  • 主に少年を対象としたこの文庫の内容は、講談や戦記、史伝などであった。なかでも、立川文庫の地元である大阪の役で活躍した武将真田幸村や、その家臣であるとされる猿飛佐助霧隠才蔵などの忍者ものが好まれ流布されるようになる。
  • 山田敬は今治の回船問屋日吉屋の一人娘だったが、日吉屋の先祖の藤堂藩士が伊賀にいた。
  • このことから、阿鉄のアイデアで忍術を武芸十八般に加え、「真田三代記」と「西遊記」をミックスし、真田十勇士の人物像を創造した。これらの作品は、それまでの勧善懲悪的な物語に対して、明朗で人間味溢れる人物像が大衆の人気を集めた。

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