南山刀


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 南山(なんざん)

太刀
備前国住義次(号 南山刀)
二尺三寸一分
個人蔵(福岡市博物館寄託)

  • 「南山刀」、「斃秦(へいしん)

 由来

  • 黒田二十四騎の一人、菅正利の所持。
  • 菅正利は文禄・慶長の役でも数々の戦功を挙げ、その際にこの「南山」が登場する。
  • 黒田家が全義館まで進出していた頃、ある夜に陣中に騒ぎが起こり、敵の夜討ちかと警戒していたところ、虎が厩に紛れ込んでいたと判明する。
  • 虎に恐れ出るものがないなか、菅正利が刀を引っさげ走り向かったという。虎が飛びかかるところを飛び越えて腰骨を深く斬りつけ、虎が立ち上がり危うくなったところに後藤又兵衛が駆けつけ、肩先から乳下にかけて斬り付けると、菅正利が得たりと虎の眉間を斬り割って倒したという。

    二月二十三日長政公又山に入て虎を狩給ふ、此時長政公鉄砲を以てかけ来る虎を間近く寄て打殺し給ふに其後猛き虎一つかけ来りしを長政公又鉄砲を構へ待給ふ所に虎脇に人有を見付け長政公の方へは来らずして正利か興の足軽列居たる所にかけ来り一人をば方をくはへて後へなげ一人をば其腕をくらって倒す是を見る者恐怖せずと云者なし、此時正利は朱塗の鎧を着たりしかば人多き中にもいちじるしくや見えけん正利をめがけ懸来りけるを正利二十八歳是を見て少もさわかず刀を抜てすすみ寄かけ来る虎を一刀切る刀能きれて虎一聲啼て即時に倒れんとする所を又一刀切て終に首を打落しぬ、此時正利の希代の勇と其刀の利成るとにあらずんば虎口の害をまぬがれがたかるべし此刀備前吉次が作にて長さ二尺三寸一分有り今に相伝て菅の家にあり

  • 長政はこれを見て、汝らは侍大将として下知をする身であるにもかかわらず獣と勇を争うとは、おとな気がないと叱りつけた。
  • 後に、この吉次作の刀に林羅山(林道春)が周処の白額虎の故事にちなんで「南山」と名付けたという。
    周処とは中国三国時代から西晋の武将。字は子隠、呉および西晋に仕えた。若い頃は乱暴者でよく狼藉を働き、郷里の人々に鼻つまみ者として嫌われ恐れられていた。ある時、周処は郷里の父老に今年は豊作なのになぜ皆喜ばないのかと問うと、「南山の白額虎、長橋の蛟、そしてそなたの、「三害」がいなくならない限り喜ぶ事ができない」と答えたという。それを聞いた周処は、南山に赴いて虎を射殺した後、川に入って蛟と戦い、三日三晩格闘し数十里も流された末、ようやくこれを始末した。郷里の人々はてっきり周処が死んだものと思い込み大喜びしたという。その後戻ってきた周処は、自分が郷里のものからどれほど嫌われていたかを知り、悔い改めたという。呉の4代皇帝孫皓の時代には無難督となっている。
  • また一説に、大徳寺の第98世住持春屋宗園(春屋和尚)が「斃秦(へいしん)」と名付け、号をなかごに刻んだたともいう。

 来歴

 菅正利

  • 菅正利(かん まさとし)の所持。
    • 菅正利(菅和泉、菅六之助)は黒田官兵衛の家臣で、黒田二十四騎の一人。通称孫次、六之助。
    • 身の丈6尺2寸の大男で、鼎を曲げるほどの剛力だったという。
    • 早くから小姓として官兵衛に近侍し、黒田二十四騎の吉田長利(初名六之助、官兵衛の乳兄弟)の武運にあやかるよう「六之助」を名乗る。
  • 賤ヶ岳の合戦で初陣、黒田家が豊前を与えられた後、城井氏との戦いの功績により、長政より貞宗の脇差を褒美として与えられている。
    この貞宗は、息子の主水重利の代に茶坊主が盗み出し他国へ蓄電したという。
  • 文禄・慶長の役で本刀を揮い、陣中に紛れ込んだ虎を退治した。

 菅强助

  • 昭和13年(1938年)に重要美術品認定。菅强助は直系の子孫という。

    太刀
    銘 備前國住義次(ママ)(號 南山刀)
    附 文書一巻(人見竹洞筆林羅山銘文及貝原益軒跋文アリ)、采配、軍扇、虎腮、虎爪
    菅强助

    人見竹洞とは江戸初期の儒学者。人見卜幽軒の甥で、林鵞峰(林羅山の子)にまなび幕府の儒官となる。「本朝通鑑」の延喜年間以降の編集に加わる。元禄9年(1696年)1月14日60歳で没。
     林羅山銘文は上記由来通り。

  • 現在は個人蔵で、福岡市博物館寄託。

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