小豆長光


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 小豆長光(あずきながみつ)

  • 「小豆長光」は、古来上杉謙信の愛刀であったとされる刀。
  • 元は、ある男が小豆袋を背負って歩いていたところ、袋から小豆がこぼれ落ち、それが鞘の割れた本刀にあたって真っ二つに割れていたという。それを見た謙信の家臣(竹俣三河守)が買上げ、やがて謙信の愛刀になったという。
  • その後川中島の戦いにおいて、白手拭で頭を包み放生月毛に跨がった謙信が、自ら本刀を奮って床几に腰掛けた武田信玄に数度斬りつけ、信玄はそれを軍扇で払い除けたという。
  • 特に後者の「三太刀七太刀(みたちななたち)」は、戦国時代屈指の名場面として数々の創作物に描かれてきた。「小豆長光」は、これらの特徴的な逸話から謙信の愛刀中でも代表的なものとして登場することが多い。
  • しかしその実態はよくわからないところが多く、調べれば調べるほど闇の中に消えてしまう。その為、実際には別の刀のことを指しているのではないかと思われる。
    赤小豆粥」の項と重複する内容が多いのですが、検索が多いようなので新たに立項しておきます。
Table of Contents


 景勝愛刀における長光

  • まず謙信の跡を継いだ上杉景勝が自ら記した「上杉景勝自筆腰物目録」には、「小豆長光」なる刀は登場しない。
  • 長光作で見れば目録には次の5口があり、号のつかないのは新身長光だけとなる。
  1. 高木長光
  2. 日光長光
  3. 高瀬長光
  4. 久世長光
  5. 新身長光(荒身長光
    ※「新身長光」は上杉家文書一〇四五と一〇四六の両方に登場しており、景勝が愛刀中でもよほど気に入っていたことが伺える。
  1. 竹俣兼光
  2. 三日月兼光


  • この自筆腰物目録から考えると、「小豆長光」は謙信の時代に誰かに贈られたか失われた、あるいは別名になっている(別物と混同している)可能性が考えられる。
    ただし「小豆長光」は謙信と共に語られる代表的な刀でもあり、もし謙信の生前に誰かに譲渡されていたのであればその履歴がどこにも記述されていないのはかなり不自然であり、それが現在まで見つからない以上、別の号に代わっている可能性が高いと考える方が自然ではないかと思われる。
     もちろん、景勝愛刀に入らなかった可能性もあるが、28口もあげて小豆長光が入らない理由を見つけることも難しい。たとえ毀損したなどであったにしろ、下記「竹俣兼光」の場合には京都を巻き込んだ騒動にまで発展している。「小豆長光」がそうした騒動すらなく消えたとすれば疑問が残る。

    なお「竹俣兼光」は後に秀吉が召し上げているため、この景勝の目録は、「御館の乱」で跡を継いだ天正6年(1578年)以降、天正14年(1586年)以前のものとわかる。

 逸話の元

  • 上記により、「小豆長光」にまつわる逸話は別の刀の逸話が混じった可能性が高いとされる。以下、順にそれらの刀について述べる。

 竹俣兼光

  • 常山紀談では次のように記し、小豆が割れる逸話は「竹俣兼光」であるとする。

    謙信の許に赤小豆粥竹俣兼光、谷切とて三の刀あり。
    竹俣兼光は、もと越後の百姓持ちたりしに、(略)又或時大豆を袋に入れて帰るさに、袋の綻より一粒づゝこぼれけるが、鞘にあたりて二ツに成りしかば怪しみ見しに、鞘のわれて刃は纔に出たりしに当し故なり。
    (常山紀談)

  • この逸話は文化6年から文政8年頃の刊行とされる「絵本甲越軍記」などでも踏襲され、「第九十四回 小豆長光之伝」には、現在「竹俣兼光」の逸話として伝わる「雷」「小豆」「竹俣」「偽物騒動」などの逸話が続く。

    爰に長尾の麾下竹俣三河守初め諸士たりし時、一ツの銘劒を得たり是を竹俣長光とも小豆長光とも云り、抑此刀の奇特を尋るに初此刀は越後の國の百姓代々家に傳へて更に大切にもせず常に山に入里へ出るにもさして出けるが(後略)

  • この「竹俣兼光」は謙信の死後景勝に伝わる(上杉景勝自筆腰物目録)が、京都に研ぎに出したところ偽物騒動に巻き込まれ、結果的に天正14年(1586年)に秀吉に召し上げられてしまう。大坂落城のおりに行方不明になり、徳川家康(秀忠)が黄金三百枚を出す事を条件に探させたが、見つかっていない。
  • なお「竹俣兼光」は太閤御物となったことから記録が残されており、それによれば「備前長船兼光 延文五年六月日」と銘が入っていたことが確認できる。
    • 「光徳刀絵図集成」一二二番(61ページ)

      御物 たけのまた 二尺八寸分半

      なお「本阿弥光悦押形」には別物の押形が載るが、銘は「備州長船兼光 元徳三年十一月日」となっている。光徳刀絵図とは銘文が異なっているが、いずれにしろ兼光作であることは確実であり、長光作ではない。

  • 逸話から考えると、「竹俣兼光」こそが「小豆長光」ではないかと思えるが、太閤刀絵図に「兼光」作と記載されている以上、長光作とされる「小豆長光」とは別物であることになる。
    いっそのこと、「小豆長光」ではなく「小豆兼光」であり、その後「竹俣兼光」と名を変えたと考えるほうが楽なのだが、昭和に佐藤寒山が鞘書きするほど「小豆長光」で名が通っている。

 赤小豆粥

 信玄との一騎打ち

  • 川中島において、謙信と信玄が一騎打ちしたという話も古来有名で、一番盛り上がるシーンとして描かれてきた。しかしこれは「甲陽軍鑑」ならではの脚色であるとされる。

    然ば、萌黄の銅肩衣きたる武者、白手巾にてつふりをつつみ、月毛の馬に乗、三尺斗の刀を抜持て、信玄公の床机の上に御座候所へ、一文字に乗りよせ、きっさきはづしに、三刀伐奉る信玄公たって、軍配団扇にてうけなさる。後みれば、うちはに八刀瑕あり。(略)後きけば、其武者、輝虎なりと申候

  • いっぽう敵方である上杉家側の資料によれば、

    謙信は信玄旗本へ切って懸る。謙信の士大将荒川伊豆守(、、、、、)、信玄と太刀打、切付くる

  • としており、謙信も本陣へ斬ってかかったが、肝心の信玄と太刀打ちしたのは謙信ではなく、「荒川伊豆守」であるとしている。
  • また太刀打ちがあった場所についても、当初信玄が本陣を置いた場所ではなく、武田方の本陣が崩れて甲斐方面へと退きつつあった御幣川での小競り合いの際のものとしている。いずれにしろ、三太刀七太刀の逸話とは食い違ってくる。
  • この「荒川伊豆守」とは越後十七将の一人荒川伊豆守長実のことで、謙信の影武者を務めた人物とも言われている。荒川氏は揚北衆のひとつで、元は相模国足柄郡河村郷を領していた河村義秀が荒川保(現在の新潟県関川村一帯)の地頭に任命されて越後に入国し、室町時代には垂水氏を称するようになったという。

    弘安十年丁亥 十二月十一日
    幕府、河村余一ニ、亡父道阿ノ例ヲ守リテ、越後荒川保引綱ノ事ヲ沙汰セシム

    元亨元年辛酉 六月廿日
    幕府、河村秀久ニ、亡父秀綱ノ遺領越後荒川保ノ地ヲ安堵セシム

    元亨三年癸亥 八月七日
    河村秀久、相傳ノ所領越後荒川保惣領職ヲ嫡子政秀等ニ譲ル

    元弘二年壬申 八月十五日
    河村政秀、其所領越後荒川保ノ地ヲ二男瀧熊丸ニ譲ル

  • 垂水氏(荒川氏)は垂水城を根城として上杉謙信に仕え、川中島の戦いでは「垂水源二郎」の名で血染めの感状を拝領している。この感状は現存しており新潟県関川村のせきかわ歴史とみちの館に展示されている。

    去る十日、信州川中島に於て、武田晴信に対し一戦を遂ぐるの刻、粉骨比類なく候、ことに親類被官人等余多これを討たせ、あい稼ぎにより、凶徒数千騎討ち捕り大利を得、年来の本望を達し、又面々の名誉、この忠功政虎在世中曾て忘失すべからず候、いよいよあい嗜まれ、忠心を抽んでらるゝこと簡要に候
                 謹言
     九月十三日   政虎(花押)
      垂水源二郎殿

  • また山形県鶴岡市の曹洞宗證玉山大昌寺は證岳宗徹が開祖だが、寺伝によればその示寂後に二世を継いだ水天運大和尚は、上杉謙信の幕下にあった荒川伊豆守義遠(、、)の長子として生まれ、かの川中島の合戦にて、武田信玄の軍と戦ったという。その後庄内へと流れ、のち出家して證岳宗徹の法を継いだとする。

 典厩割

  • この信玄との一騎打ちに似たシーンに、信玄の弟武田信繁を斬ったというシーンがある。こちらについては、上杉側の資料でも謙信が斬ったと書かれている。

    此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸、赤胴作りに候、只今当家に相伝有之候、異名を赤小豆粥と號し候、是れ天文廿三年甲寅八月十八日なり、謙信太刀に切込有之候
    (上杉将士書上)

    一方武田方文書では、信繁は宿敵である村上義清の手によって討ち取られた、あるいは死の直前に討死を覚悟し春日源之丞に形見を託したなどの逸話が残る。

  • ただし、引用で分かる通り「小豆長光」ではなく、「赤小豆粥」である。
  • なお同じ場面を描く「謙信記」では次のように書かれており、長光なのか兼光なのかがあいまいである。

    長光兼光とも申し候長さ二尺九寸の刀を下げ、

  • しかも現存する「典厩割」は「無銘 伝国宗」であり、いずれの逸話とも矛盾する。

 波泳ぎ兼光

  • 江戸時代に柳川藩主立花家に伝わった「波泳ぎ兼光」は、元は上杉謙信が所持するところの「小豆兼光(、、、、)」であり、それが景勝の時代に小早川秀秋羽柴岡山中納言、金吾中納言)から懇望されて同家に伝わり、そこで「波泳ぎ」の異名が付き、その後立花家に相伝したという。

    右は往古上杉謙信秘蔵の道具也、上杉家にては小豆兼光(、、、、)と申重宝にて有之候処景勝時代羽柴岡山中納言、依所望、彼家に相渡波游を改有之候由、其後年数経払物にて被為召候由

  • 立花家文書では、小豆長光ではなく小豆兼光(、、)になっている。
  • この立花家伝来の「小豆兼光(、、、、)」には「竹俣兼光」の逸話が誤って混同した可能性が高いと思われる。
  • なお「竹俣兼光」は「備前長船兼光 延文五年六月日」と銘が入り、一方の「波泳ぎ兼光」には「羽柴岡山中納言秀詮所持之 波遊ぎ末代の剣 兼光也」という金象嵌が入る。いずれも享保名物であり、まったくの別物である。

 足利長林寺

  • この記事によれば、以下のような経緯になる。
  1. 明治18年(1885年)10月5日:長尾家関係者が舞沢玄龍住職に「御宝刀」や鎧などを預けた。この時の預り証が今も残る。
  2. (間を置かず)長尾家関係者が寺を訪れ「宝刀は返して欲しい」と持ち出した。この時鎧は残され、今も寺に残る。
  3. 昭和42年(1967年)夏:長尾家関係者が「あの刀は先祖が売ってしまった」といい、代わりに刀の写真を置いていった。鹿の角の刀架に刀と鞘が架けられたもので、この写真は今も寺に残る。

 長林寺

  • この足利の長林寺は、足利長尾家の初代とされる長尾景人が菩提寺として建立した寺である。
               【犬懸長尾氏】
    ┬長尾景忠─┬景直─┬満景──実景
    │ 左衛門尉│   │   
    │     │   │【鎌倉長尾氏】
    │     │   └景英──房景─┬景仲 【足利長尾氏】
    │     │           └実景─┬景人─┬定景
    │     │               └房清 └景長─憲長─当長━顕長
    │     ├忠房【総社長尾氏】
    │     └清景【白井長尾氏】
    │
    │【越後長尾氏】
    └長尾景恒─┬高景【府中長尾氏】…景虎(上杉謙信)
          ├景晴【古志長尾氏】
          └長景【上田長尾氏】…上杉景勝
    
    足利長尾家は関東管領上杉家の家宰職を務めた家系で、戦国時代末には「山姥切」で登場する長尾顕長が当主となっている。

 長尾当長

  • 戦国時代、足利長尾家の当主長尾当長は、山内上杉家の上杉憲政に仕えるが、後北条氏の圧迫を受けた憲政が1557年ごろに越後の長尾景虎(越後長尾氏のうち府中長尾家当主。後の謙信)を頼って落ち延びると、長尾当長は後北条氏の北条氏康に仕えることとなった。
  • その後、上杉憲政が景虎を養子にして家督を譲り、上杉政虎と改名した謙信が関東出兵を行うようになると、長尾当長は上杉方として動き、越相同盟を締結した際には軍事・外交的な折衝にあたっている。

 長尾顕長

  • この長尾当長には子がなく、婿養子として迎えた長尾顕長が家督を継いでいる。長尾顕長は後北条氏に属するが、秀吉の小田原征伐後に所領を召し上げられて浪人となっており、一時佐竹義宣に仕えたがのち流浪の身となったという。
    小田原征伐の前に、国広に命じて「山姥切」を写した「山姥切国広」を打たせている。
  • 子の長尾宣景が土井利勝に仕えて家老職となったと言い、その子孫が上記「長尾家関係者」ということになるのではないかと思われる。
    土井利勝は早くから家康に仕え、寛永10年(1633年)には下総古河16万石を与えられる。この後、兄弟に分与するなどで7万石となり、6代利実のときに肥前唐津へと移される。しかし8代利里のときに再び下総古河に7万石で戻り幕末を迎えた。
     長尾宣景は始め1200石で土井利勝に召し抱えられ、これが古河藩長尾家初代となる。のち子孫は代々土井家に仕え、6代景威、7代景澄、8代定次が家老となっている。
  • 謙信の愛刀が、いかなる経緯で足利長尾家に渡ったのかは知る由もないが、可能性を考えると関東出兵の際の折衝の恩賞として長尾当長に贈られたものではないかと思われる。

 重要美術品長光

  • 昭和12年(1937年)12月24日に、文部省告示第434號で重要美術品に認定された長光がある。これが「小豆長光」であるともいう。
    ただし、佐藤寒山著(本間順治監修)の「日本名刀図鑑」では、「信玄に切り付けた太刀は、あづき長光と称する名刀であったという。」として現在「竹俣兼光」のものと伝わる伝承を紹介した上で、「それ等はいずれが正しいかは不明であるが、我々が上杉家の刀剣を初めて全面的に調査した昭和の初めにはこの太刀はなかった。但し長光在銘の太刀は数本あって、それぞれ皆名刀揃いであった。」と記している。この「昭和の初め」というのは恐らく昭和12年(1937年)12月24日付において、上杉家の刀剣が一括して重要美術品の認定を受けた際の事前調査を指しているものと思われる。
  • 表裏に丸留の棒樋。長光二字銘。
  • 「上杉家刀剣台帳」乾 第六号

    一、備前長光刀 白鞘
     銘 長光  両面棒樋
     長 二尺四寸四分
     御由緒
      謙信公御差料、御重代三十五腰ノ内

  • 昭和12年(1937年)12月24日、重要美術品認定。伯爵上杉憲章所持。

    太刀 銘 長光
    附 打刀拵
    伯爵 上杉憲章
    (昭和12年 文部省告示第434號)

    太刀
    刃長二尺四寸四分
    附打刀拵

  • この太刀には、その後佐藤寒山が鞘書きした物が残っている。

    所伝不識庵謙信所佩愛刀之一而世弥小豆長光永伝来上杉家終戦後出於同家者也 万為珍重者也
    昭和三十四年仲秋吉日於芸州広島城下 寒山

  • 昭和34年(1959年)に寒山が鞘書きしたときには既に同家を出ており、広島城下にあったという。
  • ただしこれが「小豆長光」であるとすると、少なくとも昭和12年(1937年)までは上杉家にあった(昭和17年時点の目録でも伯爵上杉憲章蔵)ということであり、上記の足利の長林寺に預けられたという話とは矛盾してしまう。
    上杉家の蔵刀は、江戸時代においても他家に砥に出されることもなく、享保名物にも指定されておらず御家名物として深く秘蔵されてきた。明治以降もその管理は徹底されており、国宝保存法による旧国宝制度ができた際にも、相談役である黒井大将が法律の不備を指摘して認定させなかったという逸話が残るほどである(「上杉家伝来の刀#国宝指定について」を参照)。このことから、「小豆長光」ともあろう刀が他家の人間がおいそれと持ち出せる状況になかったことは想像に難くない。

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