鷹の巣宗近


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 鷹の巣宗近(たかのすむねちか)


銘 三条
鷹巣宗近
1尺5寸3分

  • 享保名物帳所載

    鷹巣宗近 三条ト在銘一尺四寸 無代 松平薩摩守
    何れの國とも知らず山中大樹の上より光りさすに付、上りて見れば鷹の巣あり、右の中に脇差あり總して鷹の巣を落し跡へ刃物を入置事あり、何者が入置しや平造り刀樋三條と銘あり光刹極めなり秀吉公より島津殿拝領

  • この「鷹の巣宗近」と「三日月宗近」を、昔より宗近中の傑作と申し伝えるという。
  • 平造り。菖蒲造りとも。刀樋に添え樋をかき流す。
  • 刃長については、1尺4寸、1尺4寸4分、1尺4寸9分など諸説あり。
  • 刃文は直刃。目釘孔3個または4個。中心先に「三条」二字銘。
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 由来

  • どこの国かはわからないが、山中の大樹の上から光が差すので登ってみると、鷹の巣があったという。
  • その巣の中に脇指があり、それ故に名づけたという。
    当時は鷹の子を取った後に、巣の中に刃物を入れておく習慣があった。

 来歴

 秀吉

  • 掘り出されたのは秀吉の頃で、本阿弥光徳または父の本阿弥光刹が三条宗近の正真の作と極めた。
  • 太閤御物刀絵図の毛利本(紙本墨書刀絵図)では一番目に「鷹の巣宗近」が載る。

 島津義久

  • 天正15年(1587年)秀吉の九州征伐に降伏した島津義久は、5月8日に剃髪したうえで水引の泰平寺(薩摩川内市)において秀吉に謁見する。
  • 白洲で平伏する義久に対し、秀吉は「腰回りが寂しかろう」とその時に佩いていた備前包平太刀と、この宗近、さらに小袖を与えたという

    同八日到太平寺(ママ)因佐々陸奥守。堀左エ門佐。見于秀吉公。乃賜備前之包平。三条之宗近二柄。皆腰間所親帯之劒也。自解授焉翌日賜朱印。

    太平寺白州ニ御拝伏有ケル時、太閤是ヘ/\ト御意也、縁頬迄御進ミ時龍伯慇懃ナリ、腰ノ廻淋敷トテ自ラ帯シ玉フ備前包平・三条宗近ヲ引拔投出シ賜フ、義久公謹テ御頂戴也、扨盃出ケルニ、太閤盃コトハ酒ハ盛ルニ及バスト宣ケル、此酒ハト不審ラシキ御心不圖浮󠄁ヒケルニ、早氣ヲ付テ如此也ケルユへ義久公今迄ノ御敵對甚御後悔ニテ、凡慮ノ及フ所ニアラスト感シ玉フ

  • ※この備前包平も「御納戸御道具」の「御腰物五拾弐腰」の2番目に載っている。

    御腰物五拾弐腰
    一腰 包平作、長壱尺九寸三部(
    但於泰平寺関白秀吉公より 義久公御拝領、当分御小サ刀御拵有
    (島津家「御納戸御道具之事」)

 島津家久

  • 島津義久はのち家久(薩摩侍従島津忠恒、初代薩摩藩主)にこれを与えている。※西本誠司氏の研究により慶長4年(1599年)2月頃とされる。
    当初義久は、弟である島津義弘の次男・島津久保に娘・亀寿を嫁がせ継がせようとしたが、久保は文禄2年(1593年)朝鮮の巨済島で病死してしまう。そこで島津久保の弟・島津忠恒に亀寿を再嫁させて後継者とした。

    本刀を含めた重物が、義久から義弘には渡らず家久(忠恒)に渡っていることが、義弘17代当主説を否定する材料ともなっている。ただし「島津氏正統系図」では義弘を17代当主としており、島津宗家および当の尚古集成館自体は義弘を島津家第17代当主としている。

 島津光久

  • さらに寛永14年(1639年)に島原の乱が勃発した際、家久が病気になったために嗣子の島津光久(薩摩藩2代藩主)が代わりに参陣するために帰国の許可が降り、初めて薩摩に下っている。この時に家久が与えたと思われる。

    一、鷹之巣之ちいさ刀・真利之御太刀光忠之刀、御持せ被成候
    (島津家文書 一五八八 寛永14年(1637年)2月29日)

    この「真利之御太刀」は、寛永14年(1637年)2月に島津家久(忠恒)から島津光久へと贈られた御譲道具であると思われる。この真利作の太刀は、昭和期に島津家の売立で13,189円の値がつき、三井家に渡る。昭和11年(1936年)9月18日重要文化財指定。

 島津綱貴

  • 3代藩主・綱貴が家督をついで初入国する際に、重物之目録を贈られており、その中に本刀がある。

    一、系圖、
    (略)
    一、源氏重代、膝丸之御太刀、一腰小十文字、光世作
    一、頼朝公、御太刀、一腰号大十文字、無銘
    一、頼朝公、御守脇差一腰、鳩作、無銘、
    (略)
    一、太刀一腰(綱切)、兼永作、
    (略)
    一、般若之劒、一振、波平行安
    一、太刀一腰、宗近作
    一、劒一振(血吸之劒)弘法大師作之由
    (略)
    一、脇差一腰(鷹之巣)宗近作
    右従太閤様、龍伯公へ於泰平寺、御拝領、名物御脇差之由候、
     
    右先祖傳來之重器、此節譲渡之間、被致秘蔵、可被相傳、于子孫萬代、無彊候、仍如件、
       貞享五年八月十二日

 4代島津吉貴→5代島津継豊

  • 享保7年(1722年)7月に納戸方が調べた調書にも入っている

    一、御腰物  一腰包平作但當時御短刀拵ニ而候
    一、御脇差(鷹之巣)  一腰宗近作但當時御短刀拵ニ而候
    天正十五年五月八日於泰平寺
    秀吉公え 義久公初而 御目見被遊候砌
    秀吉公被帯候右包平仍御腰物、宗近御脇指 御手自義久公え御拝領被遊候、右宗近は名物仍御脇指ニ而從義久公 家久公え被進之、寛永十四年二月從 家久公平田清右衛門を以
    光久公え 御譲爲被進御脇指ニ而候、

 島津家代々

  • 以後も島津家に伝わった。「御脇差弐拾六腰」の2番目に載る。※1番目は頼朝公より拝領の無銘七寸八分の「鳩作」

    御脇差
    一腰 鷹巣御中脇差、三条宗近作、長壱尺五寸三部(
    但関白秀吉公より 義久公御拝領
    (島津家「御納戸御道具之事」)

  • 太平洋戦争で焼失。

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