鳴狐
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鳴狐(なきぎつね)
- 「啼狐」
- 「光山押形」の第一巻一番目に登場する。
国吉作
- 平造り、真の棟、表裏に棒樋。鋩子乱れこんで深く返る。中心うぶ、反りがあり、鑪目は勝手下がる。
- 銘は大振りに「左兵衛尉藤原国吉」。
由来
- 鳴狐の号の由来は明らかではない。
- 一説に障子に映った狐の化物を切ったためという。
一夜怪しき影が障子に映りしを、この国吉を以て障子越しに切付れば怪物は一刀にて両断され、其の瞬間に狐の聲がせりと云ふので此名があると云ふ
- なお「本阿弥光心押形集」には異名の記載がなく、号がついたのはそれより後とされる。
来歴
- もと播州姫路藩2代藩主池田利隆の家臣、石黒甚右衛門という馬術の名人の所持。
松平武藏守利隆ノ家士石黑甚右衛門ハ、於御妙ヲ極ム、少カリシ時、馬ノ道ニ名ヲ得サセテタビ候ヘト、深く観音ノ力を憑テ、祈願ヲ起シ、刀ノ把ニ帨ヲカケ、其兩端ヲ韁ノ如ク、左右ノ手ニ執テ、丑ノ時参リヲ始ム、行程往還四里ナリ、カクスル事三年、烈風大雨トイヘトモ、一夜モ不怠、又佐貫又四郎ト志ヲ同ス、晝ハ卯ヨリ酉ニ至ルマデ、只御馬ノ事ノミ學習シテ精力ヲ盡ス、夜寝ル時ハ、仰臥テ足ヲ合、相踏テ鐙トシ、帯ノ端ヲ互ニ執テ韁トシテ、其術ヲ鍛錬ス、遂ニ其比天下ニ名ヲ顕シタリ
輝政様御代被召出、於備前武藏守様より高二百石の御折紙、慶長十八年十一月七日、御加増五十石被下、同十九年大阪御陣の節は、甚右衛門病氣にて御供不仕候。祖父久兵衛御供仕候。甚右衛門へ大阪御陣所より御達書兩通頂戴仕、于今所持仕候
池田利隆は天正12年(1584年)生まれ、慶長18年(1613年)に家督を継いで姫路藩主となる。元和2年(1616年)病死。享年33。
石黒甚右衛門は荒馬も自在に御したといい、石黒流馬術の開祖となる。
- のち出羽国山形藩主から上野館林藩主となった秋元家に伝来した。
- 昭和5年(1930年)4月の第2回日本名宝展覧会では秋元春朝子爵所持。
- 昭和6年(1931年)1月19日付で旧国宝指定。
刀劒
刀 銘 左兵衛尉藤原國吉
子爵 秋元春朝
(昭和六年文部省告示第九號)
- 昭和6年(1931年)5月の秋元家の売立では出品されていない。
- 昭和10年(1935年)時点でも秋元春朝子爵所持。
刀 銘 左兵衛尉藤原國吉 一口
子爵 秋元春朝
- 昭和13年(1938年)5月10日付けで斉藤茂一郎氏に譲渡。
刀 銘左兵衛尉藤原國吉 一口
旧所有者 東京府東京市瀧野川區 子爵秋元春朝
新所有者 東京府東京市品川區 斎藤茂一郎
(昭和13年 文部省告示第二百三十二號)
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