鳴狐


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 鳴狐(なきぎつね)


銘 左兵衛尉藤原国吉(号 鳴狐)
一尺七寸八分(53.9cm)
重要文化財
東京国立博物館(渡邊誠一郎氏寄贈)

  • 「啼狐」
  • 光山押形」の第一巻一番目に登場する。

 国吉

  • 山城国の粟田口派の国吉は、則国の子と伝える。
  • 国吉は「左兵衛尉」を受領。国吉作と確認できる太刀は数振りのみで短刀が多く、また大平造の打刀であるこの鳴狐は、鎌倉時代の作としては珍しいものと言われる。
    建治(1275~1277年)、弘安(1278~1287年)の年紀銘から活動年代が知れる。また同時に国吉の子あるいは弟子と伝わる藤四郎吉光の活動年代を推定する手がかりともなっている。
  • 平造り、真の棟、表裏に棒樋。鋩子乱れこんで深く返る。中心うぶ、反りがあり、鑪目は勝手下がる。
  • 銘は大振りに「左兵衛尉藤原国吉」。

 由来

  • 鳴狐の号の由来は明らかではない。
  • 一説に障子に映った狐の化物を切ったためという。

    一夜怪しき影が障子に映りしを、この国吉を以て障子越しに切付れば怪物は一刀にて両断され、其の瞬間に狐の聲がせりと云ふので此名があると云ふ

  • なお「本阿弥光心押形集」には異名の記載がなく、号がついたのはそれより後とされる。

 来歴

  • もと播州姫路藩2代藩主池田利隆の家臣、石黒甚右衛門という馬術の名人の所持。

    松平武藏守利隆ノ家士石黑甚右衛門ハ、於御妙ヲ極ム、少カリシ時、馬ノ道ニ名ヲ得サセテタビ候ヘト、深く観音ノ力を憑テ、祈願ヲ起シ、刀ノ把ニ帨ヲカケ、其兩端ヲ韁ノ如ク、左右ノ手ニ執テ、丑ノ時参リヲ始ム、行程往還四里ナリ、カクスル事三年、烈風大雨トイヘトモ、一夜モ不怠、又佐貫又四郎ト志ヲ同ス、晝ハ卯ヨリ酉ニ至ルマデ、只御馬ノ事ノミ學習シテ精力ヲ盡ス、夜寝ル時ハ、仰臥テ足ヲ合、相踏テ鐙トシ、帯ノ端ヲ互ニ執テ韁トシテ、其術ヲ鍛錬ス、遂ニ其比天下ニ名ヲ顕シタリ

    輝政様御代被召出、於備前武藏守様より高二百石の御折紙、慶長十八年十一月七日、御加増五十石被下、同十九年大阪御陣の節は、甚右衛門病氣にて御供不仕候。祖父久兵衛御供仕候。甚右衛門へ大阪御陣所より御達書兩通頂戴仕、于今所持仕候

    池田利隆は天正12年(1584年)生まれ、慶長18年(1613年)に家督を継いで姫路藩主となる。元和2年(1616年)病死。享年33。
    石黒甚右衛門は荒馬も自在に御したといい、石黒流馬術の開祖となる。

  • のち出羽国山形藩主から上野館林藩主となった秋元家に伝来した。
  • 昭和5年(1930年)4月の第2回日本名宝展覧会では秋元春朝子爵所持。
  • 昭和6年(1931年)1月19日付で旧国宝指定。

    刀劒
    刀 銘 左兵衛尉藤原國吉
    子爵 秋元春朝
    (昭和六年文部省告示第九號)

  • 昭和10年(1935年)時点でも秋元春朝子爵所持。

    刀 銘 左兵衛尉藤原國吉 一口
    子爵 秋元春朝

  • 昭和13年(1938年)5月10日付けで斉藤茂一郎氏に譲渡。

    刀 銘左兵衛尉藤原國吉 一口
    旧所有者 東京府東京市瀧野川區 子爵秋元春朝
    新所有者 東京府東京市品川區 斎藤茂一郎
    (昭和13年 文部省告示第二百三十二號)

    斎藤茂一郎氏は昭和初期の実業家。明治14年(1881年)茨城県結城市小森の生まれ。満州で満洲棉花の専務取締役、撫順炭販売会社取締役、朝鮮銀行天津支店長、南昌洋行の専務取締役から社長などの役職に就いている。篠原三千郎や中島喜代一と並び、多数の刀剣を収集したことで知られ戦前の三大コレクターと称される。のち日本美術刀剣保存会の発起人となっている。昭和33年(1958年)没。


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