青山孝吉


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 青山孝吉(あおやま こうきち)

昭和前期の実業家、愛刀家

Table of Contents

 概要

  • ※氏に関する情報は少ないが、氏が所蔵した刀剣類の重要性に鑑み立項しておく。
  • 「人事興信録. 第14版 上」によれば次のように簡潔なものとなっている。※便宜のため句読点を追加した。

    青山孝吉 砂町製作所(株)代表 東京在籍
     妻 鶴子 明四三、六生
     男 幸治 昭一五、一二生
    東京府金之助の男にして明治四〇年十一月出生す、月島機械勤務を経て昭和十二年砂町製作所を創立す。 [宗]佛教 [家]尚ほ長女みどり(昭五、一〇生)二女春子(昭一三、九生)あり
    (後略

    • 昭和8年(1933年)3月創立、昭和12年(1937年)8月株式会社に改組。
  • 氏は北軽井沢町(長野原町北軽井沢区)に大きな貢献があり、検索すると引っかかる唯一の情報となっている「青山孝吉翁之像」という碑が、北軽井沢に残る。主要部分を引用する。※便宜のため句読点を追加した。

    青山孝吉翁は明治四一年十一月十日東京都で生まれた。青年期に工作機械に興味を持ち、学業終了後欧米先進国で更に技術を研鑽習得して帰国後昭和十二年八月三〇日(株)砂町製作所を設立して業績を進展させた。
     翁は必需品の総ては人間の知能と努力で創作することは出来るが最も必要な土地は作ることが不可能なことを悟り、その収得に努めた結果、膨大な資産の形成を得る事が出来、北軽井沢の所有地六〇〇ヘクタールも知人の紹介で入手し、現在に至っている。この土地内には北軽井沢中心部及び周辺の区画道路や住民が日常利用している場所が多く点在して居るにも拘す、何等の干渉もなく寧ろ地域発展の為に貢献して頂き、地域住民は常に恩恵に浴している現状である。また戦後開拓農民の入植開拓農協設立に際し開拓農協事務所他諸施設用地四三〇〇平方米の敷地を農協合併移転する迄の四十余年自立農業確立迄無償で利用させて頂き、なお旧町施設公民館等の施設敷地も現消防詰所駐車場として地域発展の為に以前同様無償で貸して頂いた翁の遺徳は区民一同永久に忘れません。翁は昭和六十二年十月二十七日逝去されたが、多くの住民より当地発展に貢献した功績を後世に残すよう切望があり、区会にも諮り審議の結果胸像の建立が可決し建設委員会が設置された。(後略

  • これでわかるのは、二文ですでに生年(月日)が食い違っていることである。人事興信録では明治40年(1907年)11月、石碑では翌明治41年(1908年)11月とちょうど一年ズレている。仮に前者を正とすれば、享年80ということになる。
  • 昭和11年(1936年)12月18日渡欧。

    青山幸吉氏(日曹技師)は高壓工業視察のため獨逸汽船シヤルンホルスト號で神戸港出帆渡歐した

    高壓=高圧。本来”孝吉”が正しいようだが、刀剣本などでも”幸吉”とされていることが多い。氏の下の名前のよみがなも不明なのだが、この間違いを見るに、おそらく「こうきち」氏だったのではないかと思われる。項目頭の読みは刀剣本でのよみがなに従っている。

  • 欧米に修学して技術を磨き、帰国後に月島機械勤務を経て昭和12年(1937年)に株式会社砂町製作所を設立した。のち財産を築き北軽井沢において多くの土地を所有するも、住民に提供したことからその死後胸像と石碑が建立されたということになる。
  • 石碑によれば、昭和62年(1987年)10月27日死去。
  • とある人物の自叙伝に青山氏が登場し略歴が書かれている。

    保の熱交換器製作工場に協力した砂町製作所の持主は、青山孝吉君である。君は月島機械のトレーサーから身を起こし、中野有礼氏に見出され、日本水素工業小名浜工場建設用機械購入の為め、中野氏に随伴して旅立つや、各商社は自社推薦の機械購入方を願い、莫大な袖の下を貢いだ。二十万円にも及んだと言う。是を親父の経営する砂町工場に注ぎ込み、兄と共同経営した。自らは帰朝後日本水素入社を断り、砂町製作所の社長となり、工場経営より不動産買入れを志し、北軽井沢に八百万坪に及ぶ土地を所有し、隣接する野村氏所有の百四拾万円也、現金払である。百四拾万円の大金を耳を揃えて支払う青山君の手腕は、悪評ありと雖偉いものである。
    (ジグザグ人生 大坪佐八)

    「中野有礼」という人物は、日曹コンツェルン創業者である中野友禮(友礼)氏のことである。青山孝吉氏自身、渡欧した際には日曹技師という肩書で渡っている。
     中野友禮は中野式食塩電解法の開発を契機に、傘下企業は42社という日曹コンツェルンを築きあげた。中野氏は「ゆうれい」と名乗っていたらしく、かなりの数の書籍において、「友禮(友礼)」と「有礼」が混在している。例えば幕末・明治・大正・昭和日本人物百年史 - 国立国会図書館デジタルコレクションでは、見出しは「友禮(友礼)」で写真キャプションは「有禮(有礼)」と、同じページ内で混在が確認できる。

 刀剣愛好家として

  • 氏は刀剣界では愛刀家としてその名前が知られている。
  • 著名な所持刀剣には次のものがある。
太閤左文字
長尾よねの後に所有していたようだ。昭和中期以降も所持していたことがわかっている。現在は小松コレクションを経て小松安弘興産より広島県福山市に寄贈。
会津新藤五
中島喜代一の後に所有していたようだ。これも同様に昭和中期以降も所持していたことがわかっている。現在は小松コレクションを経て小松安弘興産より広島県福山市に寄贈。※この会津新藤五は昭和26年(1951年)の新国宝指定第一弾の一口となっている。
姫鶴一文字
上杉家御手選三十五腰のうち。昭和43年(1968年)の「名物日本刀展」にも出品されており、青山孝吉氏蔵となっている。上杉憲章伯爵所蔵品は、本刀と高木長光がある。
高麗鶴光忠
昭和9年(1934年)7月31日に重要美術品に認定、昭和16年(1941年)7月3日に旧国宝指定。昭和43年(1968年)の「名物日本刀展」にも出品されており、青山孝吉氏蔵となっている。
明智近景
昭和期には青山氏が所有していたことがわかっている。現在は森記念秋水美術館所蔵。
  • 遺愛刀は、一括して日本刀装具美術館に移動したという。

 その他所蔵刀一覧

  • ※上と重複あり。これが全てではない。
    特徴としては、長尾欽彌(長尾よねの夫)氏旧蔵品が目立つこと、さらに重要文化財国宝含む)指定品が多いことである。
太刀
銘則房。昭和6年(1931年)12月14日旧国宝指定。昭和28年(1953年)3月31日新国宝指定。徳川家達旧蔵
刀剣博物館開館記念の「国宝日本刀特別展」に、「江雪左文字」及び「会津新藤五」と共に出展されている。
太刀
銘筑州住左(江雪左文字)附 打刀拵。昭和8年(1933年)1月23日旧国宝指定、昭和26年(1951年)6月9日新国宝指定。徳川頼貞旧蔵
短刀
銘国光(名物 会津新藤五)昭和8年(1933年)1月23日旧国宝指定、昭和26年(1951年)6月9日新国宝指定。徳川家達旧蔵
太刀
正恒。昭和8年(1933年)1月23日旧国宝指定、昭和27年(1952年)3月29日新国宝指定。蜂須賀正氏旧蔵
蜂須賀正恒」と思われる。
短刀
銘左 筑州住。昭和9年(1934年)1月30日旧国宝指定、昭和27年(1952年)11月22日新国宝指定。長尾欽彌旧蔵 ※「太閤左文字
太刀
銘久国。昭和9年(1934年)1月30日旧国宝指定。河瀬寿子旧蔵
太刀
来国光。昭和9年(1934年)1月30日旧国宝指定。松平直頴
※旧播磨明石藩主の家系で松平直徳の三男
太刀
銘備州長船住長義長尾欽彌旧蔵
太刀
銘国宗。昭和13年(1938年)7月4日旧国宝指定、昭和28年(1953年)11月14日新国宝指定。長尾欽彌旧蔵
太刀
長光 附打刀拵。上杉憲章旧蔵。昭和12年(1937年)12月24日重要美術品、昭和15年(1940年)5月30日旧国宝指定。 ※上杉家御手選三十五腰のうち。「高木長光
無銘伝光忠 高麗鶴ト金象嵌あり。森栄一旧蔵
無銘伝国俊長尾欽彌旧蔵
太刀
銘国清。長尾欽彌旧蔵
※元佐竹家→小泉三申へと移ったものだと思われる。
太刀
銘一 附打刀拵。上杉憲章旧蔵
※これが恐らく「姫鶴一文字」と思われる。昭和12年(1937年)12月24日重要美術品認定、昭和24年(1949年)5月30日旧国宝指定。
太刀
銘国行。岡野光弘旧蔵 ※岡野多郎松氏参照
無銘伝貞宗 附打刀拵
太刀
銘備州長船兼光/延文三年ニ月日
短刀
銘備中国中守家作/延文二年八月日
太刀
銘備前国住長船盛景
短刀
銘光包
太刀
銘備州長船景光/金象嵌銘本多平八郎忠為所持之
”本多忠為”とは、平八郎忠勝の孫で姫路新田藩の初代藩主である本多忠刻のこと。千姫の夫で、娘の円盛院勝姫は池田光政(新太郎少将、備前岡山藩初代藩主)の正室となり池田綱政を生んだ。本多忠刻自身は31歳で死んだが、この系譜は徳川慶喜までつながっている。
無銘伝来国光
無銘伝行光

 正宗とその一門

 関連項目


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