江雪左文字
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江雪左文字(こうせつさもんじ)
太刀
銘 筑州住 左
刃長2尺5寸8分(78.2cm)、反り2.7cm、元幅3.3cm、先幅2.1cm。
国宝
福山市所蔵(小松安弘興産寄贈、ふくやま美術館保管)
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- 短刀の製作を得意とするため、現存する有銘の太刀は本作だけである。
- 長二尺五寸八分四厘(磨上)、反り八分九厘。
- 表裏に丸留の棒樋、中心磨上、表先棟寄りに「筑州住 左」の銘。目釘孔5つ。
由来
- もとは北条氏政の家臣板部岡江雪(江雪斎)の愛刀であったため名付けられた。
南紀江雪左文字ノ刀ハ、板部岡江雪所持之佩刀也、以故後人呼之、云江雪左文字、
来歴
板部岡江雪
- 元は板部岡江雪の所持。
- 江雪は、天正17年(1589年)7月に上京し、真田家の上州沼田城を北条氏にくださるならば、翌年北条氏政を上洛させるという約束を取り付け、秀吉はこれを了承する。
- しかし天正17年(1589年)11月、沼田城を受け取った北条家臣猪俣範直が、真田領とされた名胡桃城まで奪取してしまう。
- これに激怒した秀吉は、同年12月13日に朱印状を発布し北条討伐(小田原征伐)を決行する。
- 江雪を捕らえ約束違反を尋問したところ、「北条氏が約束を違えたのではなく、家臣の猪俣が勝手な振る舞いをしたもの。たとえ約束違反だとしても、主家がそれを敢えてしたものならば家臣はそれに従うのが筋である。今さら何を申開きしても詮無きことであり、すみやかに首を刎ねられよ」と動じるところがなかったため、秀吉は江雪斎の才能を気に入り、罪を赦し、自ら茶を点てて与えたという。のち豊臣秀吉の御伽衆となる。
- 秀吉の死後、江雪は長男房恒が仕えていた徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでも家康に随従した。慶長14年(1609年)6月3日に伏見で死去。
なお一説に、小田原落城の際ではなく関ヶ原の戦いの際に、江雪が家康の上使として小早川秀秋の陣へ赴き、裏切りをさせたために家康から本刀を与えられ、その後慶長9年(1604年)に家康の招きにより江雪次男の岡野三右衛門房次が紀州家頼宣に仕えたため献上したともいう。この場合、家康はどこから入手したのかは不明となる。また報奨として与えられたのは、本刀ではなく筑前信国派の鎌十文字の槍だともいう。
徳川家から紀州家
- この太刀は、のちに家康の指料となり徳川頼宣へ与えられ、頼宣は、大坂の役でこの江雪左文字を帯びて出陣したという。
一、江雲所持ノ佩刀左文字ノ刀
権現様へ奉獻候後
南龍院(頼宣)様へ被進候由ニ御座候
- 以来紀州徳川家に伝来。
- 昭和4年(1929年)3月の日本名宝展覧会でも紀州徳川家の第16代当主の徳川頼貞侯爵所持。
- 昭和8年(1933年)1月23日に旧国宝指定。
太刀 銘筑州住 左 一口
東京府東京市品川區 侯爵徳川頼貞
(昭和八年 文部省告示第十五号)
長尾よね
- 昭和9年(1934年)2月に行われた紀州徳川家の入札で、「名物 江雪左文字刀」は24300圓で落札された。それを、わかもと製薬の長尾よねが3万圓で購入し長尾美術館(扇湖山荘)所蔵となる。移転申請は昭和10年(1935年)10月20日付け。
太刀 銘筑州住左 一口
旧所有者 東京府東京市品川區 侯爵徳川頼貞
新所有者 東京府東京市世田谷區 長尾欽彌
(昭和10年 文部省告示第四百十一號)
- 昭和33年(1958年)~昭和36年(1961年)時点で青山孝吉氏所持。
- 2018年11月22日、小松安弘興産より広島県福山市に寄贈された。
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