薄緑
薄緑(うすみどり)
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長円作
- 豊前の長円の作という。
- 長円については、この「薄緑」の作者という他はほとんどわかっていない。同銘数代いたとされる。
居住地
- 豊前:本阿弥長根による
- 豊後
- 大和:千手院の長円が豊前紀氏の招きで下ったとも、あるいは豊後長円とは別人ともいう
- 薩摩
年代
- 永延年間(987-989年)
- 鎌倉初期に「長円 建保元 千秋万歳」と切ったものがあるというが、当時そのような添え銘は切らないとされる。
- のちに宮津藩主となった本庄松平家に伝来した太刀に、長円銘があるという。佩表に素剣、裏に梵字。将軍綱吉から拝領という。
銘
- 「長円」二字銘
- 円の字は、略字。
由来
- 薄緑の号の由来は平家物語 剣巻で語られる。
湛増別当申しけるは、「源氏は我等が母方なり。源氏の代とならん事こそ悦ばしけれ。兵衛佐頼朝も湛増が為には親しきぞかし。その弟範頼・義経、佐殿の代官にて木曾追討し、平家攻めに下らるる由、その聞えあり。源氏重代の剣、本は膝丸、蛛切、今は吼丸とて、為義の手より教真得て権現に進らせたりしを、申し請けて源氏に与へ、平家を討たせん」とて、権現に申し賜ひて都に上り、九郎義経に渡してけり。義経特に悦びて「薄緑」と改名す。その故は、熊野より春の山を分けて出でたり。夏山は緑も深く、春は薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば、薄緑と名付けたり。この剣を得てより、日来は平家に随ひたりつる山陰・山陽の輩、南海・西海の兵ども、源氏に付くこそ不思議なれ。
来歴
源義朝→源為義→熊野別当
- 平治の乱で源義朝が所持。
- のち源為義が教真(湛快)に贈り、その子で21代熊野別当の湛増が源義経に贈ったという。
【熊野別当】 15長快─16長範─17長兼─18湛快─19行範─20範智─21湛増─22行快─23範命 源為義─┬─源義朝──┬─源頼朝 └─鳥居禅尼 └─源義経 │ 【新宮別当家】├────┬─範誉【那智執行家】 長快┬─長範─┬─行範 ├─行快【新宮大門家】 │ └─範智 ├─範命【鵜殿家・高坊家・滝本家】 │【石田家】 ├─行遍【宮崎家】 ├─長兼 ├─行詮 │ ├─行増 │ └─女子 │【田辺別当家】 ├──┬─湛顕【小松家】 └─湛快─────────┬─湛増 └─湛真 └─湛政
21代湛増別当の妻の母が源為義の娘という関係。
源為義の娘の鳥居禅尼は、熊野速玉大社の社僧や神官などを束ねていた行範(16代熊野別当長範の長男で19代熊野別当)と結ばれ、「たつたはら(立田原)の女房」とよばれた。のち範誉、行快、範命、行遍、行詮、行増らの男子と、数人の女子をもうける。娘のうちの一人が18代熊野別当湛快の次男湛増の妻となっている。
義経
- 義経はこの刀を「薄緑」と名付け、所持したという。
熊野より春の山を分けて出でたり。夏山は緑も深く、春は薄かるらん。されば春の山を分け出でたれば、薄緑と名付けたり。
箱根権現
- 義経はのち、この薄緑を箱根権現に納めたという。
又源義經西征之日、奉納利劔于玉扉名薄緑、併施策略于天下、動雄名于古今
建久二年七月二十五日 別當行實
南都興福寺住侶信救誌焉
(筥根山縁起)
建久2年は1191年。寛正5年(1464年)の写本が残る。別當行實とは、箱根権現(箱根山東福寺)の別当行実のことで、父良尊の代から源為義・義朝父子と関係があり、行実も流人となった頼朝を援助し、のち伊豆山権現を併せて二所権現と呼称され、鶴岡八幡宮に次いで関東武士の信仰を集めた。
曽我五郎→箱根権現
- その後、曽我兄弟が仇討ちする際に蘇我五郎時致が仇討ちする際、別当行実は薄緑を与えた。仇討ちが終わった後、頼朝が再び箱根権現に納めたという。
此故に拂塔神社□寺院舊跡の記又至て少く今□に墜簡を拾て以其勝れたるものを記して以て衆人の見やすきに備へるものなり。
一、曽我十郎祐成持する所の微塵丸と云へる太刀木曽義仲の次男志水冠者義隆鎌倉に住し日當社に納む。同氏五郎時宗(時致)所持の薄緑と云へる太刀は義經西征の時當社に納む。右二振ともに別當行實僧正曽我兄弟に與ふ。彼兄弟親の敵を討得し後、頼朝公再び當社に納め給へり。今に於て寺の重寶とす。其外事跡多しといへども只大略を著記し畢ぬ。
相州小田原侯儒預
樋仰高年八旬而書之
(箱根山略縁起)同五郎時宗の薄緑の太刀は長さ二尺七寸、一名
漆 (膝か)丸又蜘斬また吼丸と號て太平記劔巻につまひらか也、源爲義朝臣熊野別當教眞にあたへ、教眞これを源義經に授く、此時名を薄緑と改む。平家追討の後當社に納。建久四年別當行實彼二振の太刀を曽我兄弟に授く、又赤柄は工藤祐經筥王にあたふ。執讐の朝祐經が喉を刺の短刀なり。其後源頼朝御教書及三振の刀を當社に奉納給ふ所なり。
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│坂田文庫│
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(舊南葵文庫所蔵)
(箱根山略縁起)
「箱根山縁起」の前者は後世に簡略化されたもの。後者は太平記(平家物語か)剣の巻について記しており、それより後ということになる。
坂田文庫は筑前秋月藩士の坂田諸遠の所蔵本。坂田諸遠は明治30年(1897年)没。南葵文庫とは明治35年(1902年)に紀州徳川家当主徳川頼倫が開設した私設図書館。大正13年(1924年)に東京帝国大学附属図書館に寄贈され閉鎖された。
江戸時代
- 寛文7年(1667年)、参勤交代の道中を記した池田綱政の「丁未旅行記」に登場する。
寛文丁未七年仲夏始の十日餘り。五月雨降りすさむ頃。
聊 の晴間に江府を出てゝ。(略)
岩の隙を過て峠に着きぬ。箱根の御社新に御造営 と聞けば。日も高し今日 は道の程も近ければとて征きぬ。別當の坊へ行て。此度伴ひし人々初めて當社に詣り侍れば。願はくば寶物を見せて給 べと。ほうしゆんといふ法師に頼めば。ことなく取出して見せ侍りぬ。見ぬ人の為に概略 書附け侍りぬ。
一、太刀 二腰。(一は薄緑とて時宗が太刀。往古 源氏重代の太刀作り。宗近と云銘あり。一は微塵。祐成が太刀。鍔本に二個切込あり。備前物の由)
(丁未旅行記)
- 元禄10年(1697年)の菊本賀保による「國花萬葉記」に登場する。
箱根權現相模國箱根山社領二百石別當東福寺金剛院
祭神 本社 彦火火出見尊也神社考社家説
又駒形權現 白和龍王 右鵲王 左鵲王(及ひ)客人宮有 孝謙天皇天平寶治年中に草創 開基満月上人
千載 ともしして箱ねの山に明にけり二より三より逢とせしまに 俊綱
當社寶物之品々
宗近之太刀 友切丸無銘 長サ二尺五寸拵ハたからくさ
淸符之太刀 赤胴作り也時宗 此太刀にて祐經をうちしと也
長栄之太刀 無銘長サ三尺所々切々之有 これ十はん切に打あひし太刀也
赤木之さすり くさり付てさやよりぬけす拵は赤胴作り也 波に竹ひしをほり付たり これ祐つねニとゝめをさしたるさすり也
時宗か自筆之文有、其詞に云
夜前之隣忽消貴寺安穏悦千萬委曲可申謁恐々謹言
萬福寺方丈と有、其外寶物多し、
- 文化5年(1808年)の箱根山什物帳には記載がない。
右之通り相改申候處相違無御座候 以上
箱根山雑掌
文化五辰年十二月廿九日 菅沼伊織(印)
役僧智行院(印)
院代榮勝院(印)
- 文政3年(1820年)発行の大田南畝の「一話一言」の、恐らく文化4年(1807年)の4月17日に登場する。
深川開帳
同じ日、深川八幡宮に相州箱根権現の開帳あれば、ゆきてみしに本地拂地蔵尊也、霊寶あまたあり
一、曽我十郎所持微塵丸備前長圓作長三尺三寸
一、同五郎所持薄緑太刀長二尺七寸一名膝丸又赤柄小刀あり
一、大夫坊覺明筆筥根山縁起古冩本とみゆ
一、時宗書五郎時政にあらず北條時宗なるべし
一、大石内蔵助勘錄といへる古文書勘定帳の如きもの也
一、太刀二
此外數多ありしが覺ず
深川八幡(富岡八幡宮、江東区富岡)で行われた出張御開帳に出品されたという。
- 天保12年(1841年)成立の「新編相模国風土記稿」にも記載される。
薄緑太刀一振曽我五郎時致所持ノ品ニテ、亦頼朝卿ノ奉納ナリ、太刀由来記曰、薄緑者三條宗近作、長二尺七寸、一名膝丸、又名蜘斬丸ト、又名吼丸。戴太平記劔巻具ナリ。源爲義與フ熊野別當教眞、與ノ源義經授、是時改名薄緑ナリ、平氏没落以後義經奉納當社ナリ
(中略。義経が腰越で引き返した際に和睦祈願として奉納したという)
ここでは三条宗近作の2尺7寸となっており、以後、薄緑は宗近作の太刀として定着しているように見える。
明治時代
- 明治期の神道学者、佐伯有義が編纂した「駿府内外寺社記抄」にも登場する。
別當宅にて什物一覧
祐成太刀 微塵丸 備前長船清水冠者義高奉納
時致太刀 薄緑三條小鍛冶作義經奉納
赤木短刀 時致所持工藤祐經ヲ殺害ス
時致書翰 一通北條時宗ト云
- 明治30年(1897年)発行の「校訂増補 凾山誌」にも記載がある。
【神寶】 箱根神社寶物左の如し
微塵丸太刀一振 曽我十郎祐成所持のものにて頼朝卿奉納せらるゝ處なり備前國長圓作にて木曽義仲の重寶
薄緑太刀一振 曽我五郎時致所持のものにて頼朝卿の奉納三條宗近作にして一名膝丸又蜘斬丸又吼丸と云
長円作の薄緑
- 長円作の薄緑は、昭和44年(1969年)の「武将とその名刀展」では石島護雄氏蔵となっている。
刀
折返銘 長円
- 目釘孔3個。
源朝長の薄緑
- 源朝長は源義朝の次男で、頼朝や義経の異母兄にあたる人物である。
- 平治元年(1159年)12月、父義朝が藤原信頼とともに京でクーデターを起こして三条殿を襲撃し、藤原信西は討ち取られる。しかし熊野詣に向かっていた平清盛が二条天皇と手を結んで二条天皇を自陣営に迎え入れ、後白河上皇も内裏を出てしまう。
- ここで藤原信頼および源義朝に対して追討の宣旨が下され平氏の軍勢が内裏に押し寄せると、朝長は兄の源義平、弟の頼朝らと共に内裏の守りについている。
- 「平治物語(金比羅本)」によれば、この時朝長は、朽葉色の直垂に、源氏重代の
澤潟 の鎧を着て、薄緑の太刀を帯び、白鳥の羽の矢を負っていたという。次なん中くうのしんともなか(中宮=姝子内親王の臣源朝長)十六歳くちはのひたゝれ(朽葉色の直垂)にをもたか(沢瀉)といふよろひをきる又ねはなしをもたかをとしなるほししろのかふとのをゝしめうすみとり(薄緑)といふたちをはき
この記述は他の刊本には出てこない。
- 平重盛と平頼盛が押し寄せる中、信頼方が押し返すと平氏の軍勢が退いたため源氏方が門を出て追いかけると、内裏で裏切り者が出て門を閉じてしまう。退路を失った源氏軍は義平を先頭に清盛の本拠六波羅へ総攻撃をしかけるが、疲れ果て力尽きて遂に敗走する。
- 都を出て東国を目指すが、大原での竜下越で落ち武者狩りの比叡山の山法師が行く手を遮ったため合戦となり、義朝の大叔父の義隆は首筋に矢を受けて落馬し、また朝長も左腿に矢を受けてしまい、鐙(あぶみ)を踏みかねた。
- 一行は近江国堅田の浦で義隆の首を埋葬しその後も逃亡を続ける。その間、年若い頼朝は疲れ果てて脱落してしまう。美濃国青墓宿(岐阜県大垣市)に着き、ここで義平は別れて東山道を進み、朝長は義朝と東海道を進もうとするが、傷が悪化したためについていくことが出来ず、義朝に頼み自刃したという。その後、義朝も尾張国で長田忠致の裏切りにあって殺され、父子の首は京へ送られ京の六条河原に義朝とともにさらされた。
畠山重忠の薄緑
- 一方、「源平盛衰記」では、治承4年(1180年)8月の小坪合戦で畠山重忠が佩用したという。
畠山重忠等あまた打せて敵に招かれ安からず思ひければ薄緑と云ふ太刀の三尺五寸なるに虎の革の尻鞘入れててそ帯びたりける
関連項目
- 「膝切」の項参照。
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