松平宣富


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 松平宣富

江戸時代前期から中期にかけての大名
幼名源之助。初名矩栄、長矩。のち宣富。
美作津山藩初代藩主
津山松平家の祖

  • 越前松平家のひとつ、大和守家の陸奥白河藩主松平直矩の子として同藩愛宕下邸に生まれ、のち改易された高田藩主・松平光長の養嗣子となり、津山藩初代となった。
    父である陸奥白河藩主松平直矩、および兄の松平基知は、「式部正宗」の来歴に登場する人物。
Table of Contents

 生涯

  • 延宝8年(1680年)10月9日、陸奥白河藩松平大和守主松平直矩の三男として江戸で誕生。幼名源之助。生母は村上氏ともいう。
                 本多成重の娘
    長寿院奈和          │
    ├──────松平直良──松平直明───松平直常【明石藩2代】
    │ 【木本→勝山→大野藩】【大野→明石藩】
    │
    │ 徳川秀忠──勝姫
    │ 清涼院岡山  ├──┬松平光長【越後高田藩】
    │  ├─┬─松平忠直 ├永見長頼──松平綱国
    │  │ │      ├亀姫(高松宮好仁親王妃)
    │  │ │      ├鶴姫(九条道房室)
    │  │ │      └閑(小栗正矩室)
    │  │ │
    │  │ │      【越前松岡藩初代】
    │  │ └─松平忠昌─┬松平光通【福井藩4代】
    │  │        ├松平昌親【福井藩5代・7代】
    │  │        └松平昌勝───松平綱昌【福井藩6代】
    │  │ 
    │  │  
    結城秀康   【信濃松本→出雲松江藩初代】
    │  ├───松平直政─┬松平綱隆【出雲松江藩2代】
    │ 月照院       ├松平近栄【出雲広瀬藩】
    │           ├松平隆政【出雲母里藩初代】
    │           └松平直丘【出雲母里藩2代】
    │
    │    (結城家)   【越後村上→姫路→豊後日田→山形→白河藩】
    ├──────松平直基──松平直矩──┬松平基知【陸奥白河藩2代】
    品量院                │【美作津山藩初代】
                       ├松平長矩(松平宣富)──松平浅五郎━━松平長煕
                       └松平知清──松平長煕
    
    
    ※越前松平家:結城秀康→松平忠直→松平光長→松平忠昌→松平光通
    ※結城家:結城秀康→結城直基(松平)
    
  • 元服して「矩栄」と名乗る。

 光長養嗣子

  • 元禄6年(1694年)12月18日に元越後高田藩主松平光長の養嗣子となる。
    越後高田藩は延宝9年(1681年)に改易となっており、光長は伊予松山藩主松平定直へお預け(蟄居処分)とされた。のち貞享4年(1687年)に赦免され、江戸柳原邸に戻っている。
  • 元禄6年(1693年)12月28日、将軍綱吉に初めて御目見得する。
  • 元禄7年(1694年)12月18日従四位下左衛門督に叙任。
  • 元禄7年(1694年)12月23日に「長矩」へ改めた。
  • 元禄8年(1695年)6月18日執前髪、兜始。
  • 元禄8年(1695年)12月7日に備前守に改める。※水戸家の世子が左衛門督に任ぜられたためとする。当時、越後守、三河守は2人とも存生であったため。
    越後守は光長、三河守は松平綱国(永見長頼子、光長養子世継。備後福山配流)か。
  • 元禄10年(1697年)5月6日、光長が官を辞して隠居したため家督3万石(蔵米)を継ぐ。同年12月18日侍従。

 美作津山藩主

  • 元禄11年(1698年)正月14日に津山10万石と津山城を拝領。同年5月25日に津山城請取。6月6日御道具受取り。同年に津山で「高倉騒動」起こる。
    • 同年9月6日の勅額火事で柳原藩邸および本所下屋敷が類焼。同18日に鍛冶橋門内の屋敷地七千弐百弐拾坪拝領(蜂須賀飛騨守、安藤長門守、吉良上野介、大久保十郎の旧地)。同21日に金1万両拝領。
    • 同年11月29日深川屋敷地七千余坪拝領。
    • 同年12月6日、初花肩衝、大燈の墨蹟を献上。
  • 元禄12年(1699年)12月25日、左近衛権少将。
  • 元禄13年(1700年)~2年間、家臣への借上。
  • 元禄15年(1702年)5月11日日光参詣
  • 元禄15年(1702年)4月23日帰国の暇賜る。5月11日発駕、6月6日津山初入部(東海道経由)。
  • 元禄16年(1703年)2月3日領内巡見。8日帰城。
    • 同年12月18日参覲。4月5日着府。 ※この辺り前後関係が怪しい
    • 同年11月9日、佐竹右京大夫佐竹義処の娘・岩を娶る。
  • 宝永元年(1704年)帰国、翌宝永2年(1705年)4月5日参府。
  • 宝永元年(1704年)~3年間、家臣への借上。
  • 宝永2年(1705年)11月5日鍛冶橋藩邸類焼。
  • 宝永3年(1706年)3月13日帰国、翌宝永4年(1707年)4月6日参府。
  • 宝永5年(1708年)正月25日越後守。
  • 宝永5年(1708年)5月14日帰国。
  • 宝永6年(1709年)正月26日、正室佐竹氏卒。4月5日参府。
  • 宝永6年(1709年)11月13日登城、文昭公(家宣)より一時拝領、「宣富」と改める。粟田口国安の刀代金三十枚拝領。
  • 宝永7年(1710年)3月12日新橋内屋敷地拝領。※面積不明
  • 宝永7年(1710年)5月11日鍛冶橋藩邸で女子生まれる。母は脇田氏
  • 宝永7年(1710年)6月5日帰国、翌正徳元年(1711年)4月5日参府。
  • 正徳元年(1711年)6月1日櫛笥隆賀養女・桑(実は園池左中将実尚の娘)と再婚。
  • 同年4月3日津山で女子生まれる。母は脇田氏。※早世
  • 正徳2年(1712年)5月18日帰国。
  • 正徳3年(1713年)2月9日津山で女子生まれる。母は脇田氏。※早世
  • 同年4月4日参府
  • 正徳4年(1714年)5月12日帰国。
  • 正徳5年(1715年)2月28日、津山で女子生まれる。母は脇田氏。のち松平山城守信将室。
  • 正徳5年(1715年)3月5日参府
  • 正徳6年(1716年)12月晦日本多中務大輔邸より出火、鍛冶橋屋敷類焼。※正徳5年12月ぽい?
  • 享保元年(1716年)閏2月12日帰国。
  • 享保元年(1716年)5月25日、高田邸で女子生まれる。母は藤田氏。のち織田出雲守信朝室。
  • 享保元年(1716年)9月1日浅五郎(津山藩2代藩主)が江戸桜田屋敷で生まれる。
  • 享保2年(1717年)正月22日、鍛冶橋藩邸類焼。
  • 同年4月5日参府。
  • 享保3年(1718年)11月15日高田邸にて豊之助生まれる。母は藤田氏。※早世
  • 享保3年(1718年)、寸志上納米。
  • 享保4年(1719年)4月5日参府。
  • 同年6月28日、津山で女子生まれる。母は脇田氏。早世
  • 享保5年(1720年)5月9日帰国
  • 享保6年(1721年)2月7日逝去。享年42。號源泉公。
  • 同年5月4日津山で女子生まれる母は脇田氏。のち園井中将房季室

 その後の津山藩

  • その後、長男の浅五郎(知圓公)が継ぐが5年後に早世し、従弟の又三郎(初代宣富の弟・知清の三男松平長煕)が継いだ。
    • この松平長煕にも子がなく、出雲広瀬藩3代藩主・松平近朝の三男・松平長孝が津山藩主4代となった。その後続くが、7代松平斉孝は10万石への復帰を訴え、将軍家斉の十五男・銀之助(後の斉民)を迎え入れることで5万石を加増され、津山藩は10万石へと復帰した。
    • 8代藩主はこの斉民が継ぐが、養子迎え入れ後に実子・慶倫が生まれたため、9代藩主は実子の慶倫が継いだ。
    • 8代松平斉民は隠居して確堂と号するが、家斉の実子かつ誠実な性格で人望が厚く、幕末の幕府で田安亀之助の後見や和宮(静寛院宮)の警護を任されるなどして活躍した。明治政府で従三位に叙され、明治15年(1882年)には麝香間祗候を命じられた。

 系譜

  • 夫人は出羽久保田藩・佐竹義処の娘・岩。元禄16年(1703年)11月婚儀。宝永6年(1709年)正月26日卒。享年23。江戸天徳寺。諡眞覺。
  • 継室は内大臣・櫛笥隆賀の養女(実は左中将・園池実尚の娘)元文5年(1740年)3月11日卒。諡光圓。子に松平浅五郎。

 関連項目


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