籠釣瓶


 籠釣瓶(かごつるべ)

  • 截断銘の一種で、同名の刀が複数ある。
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 籠釣瓶の由来

  • 籠で作った釣瓶が水滴さえ留めることができないことから、水も漏らさぬほどの切れ味の刀を意味する。
  • 篭瓶、籚𢴲(手偏に絜)

 立袈裟籠釣瓶(たちげさかごつるべ)


銘 濃州関住兼定
金象嵌 立袈裟籠釣瓶 武州江戸於神田 甲賀町出井仁左衛門切之祐正(花押)
群馬県県指定重要文化財
刃長70.6cm(二尺三寸三分)、反り1.4cm
群馬県立歴史博物館蔵所蔵(横田忠一郎氏寄贈)

  • 2代兼定(ノサダ)作。磨上。
  • 附 茶石目地塗庇護打刀拵
    • 「立袈裟」とは立ったままのものを袈裟斬りにすること。立袈裟・籠釣瓶とは切れ味の凄まじさを意味する。

 兼定(之定)作


銘 兼定
金象嵌 号籠釣瓶 小須賀帯刀喜政所持
長66.8cm
重要刀剣指定

  • 和泉守兼定(之定)作
  • 金象嵌にある「小須賀帯刀喜政」は、岡山津山松平藩十万石の家老と伝わる。
    結城秀康の孫であり、松平忠直の子であり母は勝姫という松平光長は越後高田25万石を領していたが、越後騒動を受けて将軍綱吉の親裁により高田藩の改易・光長配流が決まった。のち許されて江戸に戻るが隠居。養子・長矩(松平宣富)が元禄11年(1698年)正月、美作10万石を与えられ津山藩が立藩した。
    • 小須賀帯刀喜政は、元禄11年(1698年)正月14日以降家老職、元禄16年(1703年)8月13日免職。
    • 元禄16年(1703年)8月13日、藩主・松平長矩こと松平宣富は、小須賀帯刀とその子・一學が「切腹をも仰付けらるべく候へども」渥美権左衛門および伊藤喜八郎へ御預けとなったとする。理由は仕置が不順(不純)であり、我儘なる願をして不届きであり、近年不行跡であるためとする。追放・暇が34人、格下げ12人、遠慮3人、隠居1人など関係者50人近くが処罰されたという。首謀者は、松平光長の松山流罪の随行者とその継嗣であるとされる。ただし津山市史でも「この真相を明らかにする資料はない」とする。(津山市史)

 肥後守秦光代作

肥後守秦光代の作
一尺九寸八分

  • 風鎮切光代とともに柳生厳包(連也斎)の愛刀
  • 刃長60センチほど。「肥後守秦光代 かこつるべ」の切り付け銘。鍔は一本竹透。
    • 脇指には笹の露の異称を刻した同作で刃長41センチ弱。鍔は鬼車透。
  • 目釘孔が3つあり、2回磨上たことになる。

 柳沢家

河内守国助
二尺三寸四分
金象嵌銘 籠釣瓶 二ツ胴

  • 大和郡山藩主柳沢家に伝来したが、家臣・中村良作が拝領した。
  • 鍔は柳生鍔”三十六歌仙”の一「一本竹」。

 村正

歌舞伎の演目「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」で登場する刀
村正作と言う

  • 豪農佐野次郎兵衛は、遊女お清を妻に迎えるが妻が病気(梅毒)になったため捨て、後に惨殺してしまう。息子の次郎左衛門は父の悪業のたたりで疱瘡に罹り、一命は取り留めるもあばた面になる。
  • ある時、次郎左衛門は金を奪われそうになったところを浪人都筑武助に助けられる。浪人武助を家に招き世話をしたところ、そのお礼に「籠釣瓶(村正作)」という刀を授かる。
    • 実は備前長船国光であるという。
  • 次郎左衛門は江戸に絹を売りに来たついでに吉原を見物する。次郎左衛門は花魁道中の花魁八ツ橋に一目惚れしてしまい、八ツ橋の元に通い詰めて遂には八ツ橋を身請けをする話がまとまる。
  • しかし八ツ橋の養父釣鐘権八には借金があり、吉原の茶屋の主人立花屋長兵衛に金の無心を頼むが断られてしまう。八ツ橋の情夫である浪人繁山栄之丞の家へ行き、次郎左衛門の身請けの話を伝え、話を御破算にしたばかりか、満座のなか次郎左衛門に恥をかかせてしまう。
  • 花魁八ツ橋に手酷く振られたことを恨み、次郎左衛門はついにはこの籠釣瓶を使い手にかける。
  • 三世河竹新七の代表作といわれる演目だが、元々は江戸時代享保年間に実際に起きた事件「吉原百人斬り」をもとにして作られた講談を歌舞伎に仕立てたものであるという。

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