本阿弥長識
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本阿弥長識(ほんあみちょうしょく)
生涯
- 妻は北川氏出身の留意子。
- 本阿弥の若手を連れて前田家に赴き、同家の蔵刀で鑑定会を開いたという。
- 明治2年(1869年)宮内省に御剣係が設けられると一員に選ばれている。
- 明治9年(1876年)に妻留意子を亡くしている。
- 明治17年(1884年)には「空中斎草鈔」を出版して本阿弥全家の系譜を明らかにし「本阿弥行状記」上巻を転載して先祖顕彰に務めた。ほかに「経鑑名刀録」も出版している。
- 明治期の刀剣界を本阿弥成重(平十郎)と二分する。長識の門下としては竹中公鑒、石川周八、大藪久雄などがいた。
- 明治26年(1893年)12月13日没
系譜
子:本阿弥親善
- 奔放な性格で、派手な生活を贈った結果多額の借金を作ってしまい家計を傾けてしまう。
- 父の長識はこのために様々な金策を行うはめになった。
光山押形
- 本阿弥光山の子の本阿弥光貞の著である古刀2727本の押形が載っている押形本が本阿弥長識の代まで伝わった。
- 親善が借金を作ったときにこれも売り払ってしまい、それを松方正義の舎兄である久保之昌が買い取っている。
- 後に大正6年(1917年)に中央刀剣会で出版したときに、誤って「光山押形」と名付けて頒布したという。※正確には本阿弥光貞押形となる。
逸話
- 焼き直しを看破するのが得意であったため「焼直し本阿弥」とあだ名されたという。
- 子の本阿弥親善が放埒な生活を送り家計を圧迫したため、やむなく求めに応じるままに正宗や郷義弘など著名刀工の極めを鞘書や折紙、鑑定書などとして乱発した。このために世間から不評を買うばかりか人格まで疑われることとなった。晩年は不遇をかこったという。
関連項目
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