振姫
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正清院 振姫(ふりひめ)
徳川家康の三女
会津藩主蒲生秀行の正室、のち和歌山藩主浅野長晟の正室
生涯
- 父は家康、母は家康の側室穴山氏(お竹の方)。
- 文禄4年(1595年)2月、豊臣秀吉の命により蒲生氏郷の嫡子蒲生秀行と婚約し、慶長3年(1598年)11月5日に輿入れする。
蒲生秀行の母は織田信長の次女冬姫。
蒲生家
- 蒲生秀行との間に、慶長7年(1602年)に蒲生忠郷、崇法院(加藤忠広正室)、慶長9年(1604年)に蒲生忠知の2男1女をもうける。
- ところが夫の秀行が慶長17年(1612年)に30歳の若さで急逝する。10歳の長男忠郷が跡を継ぐが、後見していた振姫と、家老岡重政との間で藩政を巡って対立が激しくなり、結果、家康の命により岡重政は切腹となる。
この家老岡重政の息子が岡吉右衛門で、祖心尼の娘おたあと結婚しお振の方が生まれた。お振の方は長じて将軍家光の側室となり、家光の初子となる千代姫を産んだ。
浅野家
- 元和元年(1615年)、振姫は父家康の命により紀伊和歌山藩2代藩主の浅野長晟と再婚することとなり、子を置いて蒲生家を去る。
- 元和2年(1616年)4月に輿入れし、翌年に長晟の次男浅野光晟を産むも、その16日後に死去した。享年38。
- 振姫は和歌山の吹上寺で火葬され、金戒光明寺に葬られた。
浅野長晟が元和5年(1619年)に安芸広島42万石に加増移封されたため、広島正清寺に回葬されている。
- その報を聞いた蒲生忠郷は、会津の融通寺に寺領を寄付して母振姫の菩提を弔うよう命じている。
なお忠郷は寛永4年(1627年)に25歳で死去する。嗣子がなく蒲生氏は断絶しかけたが、冬姫が信長の娘であることと、秀行の妻が徳川家康の娘(秀忠の妹)振姫であったことが考慮され、振姫の子(冬姫の孫)で忠郷実弟の忠知(上山藩4万石の藩主となっていた)が、会津から伊予松山藩20万石へ減移封の上で家督を継ぐことを特別に許されている。しかしその忠知も寛永11年(1634年)に嗣子なく早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となった。
- また、後に紀州に移封した家康の十男徳川頼宣は、姉にあたる振姫の菩提供養のため、光恩寺(和歌山市大垣内)に墓を建立している。
- 浅野氏の方は現代まで振姫の子孫が続いているが、蒲生氏の方は息子2人が夭折し無嗣改易、娘の嫁いだ加藤氏も改易されている。
孝勝院 振姫(ふりひめ)
生涯
- 振姫は慶長12年(1607年)4月に姫路城で生まれている。
- 父は姫路藩主池田輝政、母は徳川家康の次女督姫。2代将軍秀忠は叔父、3代将軍徳川家光や水戸藩主徳川光圀は従兄弟にあたる。
- 元和3年(1617年)10月には叔父である2代将軍徳川秀忠の養女となっている。
伊達忠宗との婚姻
- 振姫には、慶長12年(1607年)に伊達忠宗と婚約していながら慶長15年(1610年)2月に4歳で夭折した叔母、清雲院 市姫(家康五女)がいる。
当初嫁ぐ予定であったのは徳川家康が66歳のときに生まれた五女市姫。母はお梶の方(英勝院)。信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女に育って欲しいと願い市姫と名付けたという。生後1ヶ月の慶長12年(1607年)2月に伊達忠宗と婚約するが、3年後の慶長15年(1610年)2月4歳で急死。野苺を摘んでいた際に毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言う。清雲院。家康が嘆き悲しんだのは言うまでもないが、幼い婚約者を亡くした伊達忠宗に対し、同じ慶長12年(1607年)生まれで自分の孫にあたる孝勝院振姫を婚約させたのである。
- 振姫はこの身代わりとして、元和3年(1617年)12月13日に伊達忠宗に輿入れした。
十三日甲辰 公方御養女振姫御年十一 嗣君ヘ御婚禮、申刻御城ヨリ御入輿、土井大炊助殿利勝渡邉山城守殿茂伊丹喜之助殿康勝ヲ差副ラル(略)振姫實ハ播磨宰相源輝政卿池田三左衛門尉ノ御娘英勝院殿ノ御養女ナリ 大神君御在世ノ時 嗣君ヘ御縁約仰出サル 今度 公方御養女トシ玉ヒテ嫁セシメラル
- 12月18日に御礼言上のために登城すると、秀忠から伊達政宗に「別所貞宗」が、また忠宗には長光の刀と「太鼓鐘貞宗」の短刀が贈られている。
十八日己酉 公嗣君御登城今度御婚姻ノ御禮仰上ラル時ニ 公方ヨリ御脇指別所貞宗ヲ 公ニ賜フ御腰物長光御脇指
大 鼓磬貞宗ヲ 嗣君ニ賜フ
- これほどまでして徳川将軍家が伊達家と婚姻を結んだのは、当時伊達家が外様大名中最大の勢力を持っていたためである。
- しかしその後、振姫の息子で3代将軍家光の従兄弟である伊達光宗が19歳で早世。これにより徳川家血縁となる振姫の子が二人共早世してしまい、結果的に
櫛笥隆致 の娘で天皇家とつながりを持つ貝姫の生んだ綱宗(後西天皇の従兄弟)に家督が移ることになったことが伊達騒動の遠因となったとも言える。 - 万治2年(1659年)、53歳で死去。
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