式部正宗
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式部正宗(しきぶまさむね)
刀
磨上無銘
名物 式部正宗
二尺二寸七分
焼失
- 享保名物帳所載
式部正宗 磨上長二尺二寸七分半 代金七百枚 松平大和守殿
榊原式部少輔所持、家康公へ上る、中切先表樋切込ありこぼれの響あり、寛文八年七千貫、元禄右の代になる
- 表裏に棒樋、物打ちのちり角に1か所切り込みがあり、敵の刀の刃が食い込んでいる。
- 鋩子は小乱れ、焼き詰め。中心は大磨上無銘、目釘孔3個。
由来
- 徳川四天王榊原康政(従五位下・式部大輔)の所持にちなむ。
来歴
中村一氏
- はじめ中村式部大輔一氏の所持。
中村一氏は豊臣政権で三中老と呼ばれた一人とされている。天正13年(1585年)従五位下式部少輔に叙任される。小田原征伐後に駿河府中14万石。関ヶ原で東軍に属すが、合戦前の7月17日に病死。榊原康政の没年を考えると、遅くともこの頃までに本刀を手放したと思われる。
子の一忠が慶長14年(1609年)に死ぬと、伯耆米子17万石を領した中村家は断絶した。
榊原康政
- その後榊原式部大輔康政が入手する。
榊原康政は慶長11年(1606年)5月に館林で病死している。
将軍家
- 将軍家に献上。
松平忠輝
- 年月は不明ながら松平忠輝が拝領したという。
但し家康死後の元和2年(1616年)7月6日、兄である将軍秀忠より改易を命じられ、まず伊勢朝熊、ついで元和4年(1618年)には飛騨高山金森重頼、そして寛永3年(1626年)4月24日に信濃諏訪の諏訪頼水に預けられた。つまり拝領は家康生前の元和2年(1616年)までとなる。
- 忠輝は従四位下・右近衛少将の位階官職のまま配流されており、「刀脇差所持仕り候儀御赦免」として入城した。
- 配流中に手元不如意になったのか、年月不明ながら道具のうち三腰を(預かりの諏訪氏経由で)本阿彌に鑑定に出したようだ。ただし(前田利長より贈られた)左文字については秘蔵品であるため手元に残し、残り二腰については売り払うよう依頼している。しかも式部正宗については拝領物ではあるが売り払いたいと明記している。
尚々御無事之由目出度存候
其已後者久々御音信も不承候處に其地御堅固之由珍重存候、爰元無相替儀候間可被御心安候。随而刀ノ儀本阿彌申分爲御知忝存候、然共左文字之義、手前秘藏ニ候間、此方ヘ御返可被下候。殘貳腰は拂せ可給候。將又 、右申入候、拝借金之義御老中ヘ被仰入難叶候ハヽ、拝領道具に候へとも式部正宗ノ刀御老中へ被入仰拂申度候、御六ヶ敷 候共頼存候。委は圖書助與惣左衛門に申渡候 恐々謹言
上総介
四月六日 忠照(花押)
諏訪因幡守殿
人々御中昨日被仰聞候上總介殿御道具御拂之儀相談申處、御望次第被御肝煎何方へ成共御拂候様にと被仰候間、其御心得可有候上總介殿ゟ之御狀返信申候 以上
四月十二日 土屋但馬守
諏訪因幡守殿覺
上總介殿拂道具之義各江申達候處、苦間舗候間跡々之通被御肝煎候而御拂尤之由ニ御座候間左様御心得可被成候 以上
六月廿一日 土屋但馬守
諏訪因幡守様
この「諏訪因幡守」は、諏訪藩初代諏訪頼水(因幡守、在位:1592-1640)とされるが、どうも年代から考えて高島藩3代藩主の諏訪忠晴(因幡守、在位:1657-1695)のようだ。もし初代であれば寛永17年(1640年)までに売り払ったことになるが、拝借金を頼まれた土屋数直が老中になるのは寛文5年(1665年)である。※それ以前に土屋家では老中を出していない。
3代諏訪忠晴は明暦3年(1657年)父・忠恒(出雲守)の死に伴い家督を継いでいる。元禄8年(1695年)3月2日に諏訪で57歳で死去しており、跡を三男の忠虎(安芸守)が継いだ。
この時拝借金を頼まれた老中「土屋但馬守」は、土浦藩初代の土屋数直(但馬守、在位:1662-1679、老中:1665-1679)と思われる。※土屋政直の子・土屋政直も老中になっているが(1687-1718)、能登守ついで相模守である。
まとめると、式部正宗が売られた時期は、土屋数直が老中になった寛文5年(1665年)~延宝7年(1679年)までの間ということになる。
鑑定に出した3口は、どうも左文字刀、来国俊小脇差、式部正宗であったと思われる。忠輝が死んだ際にまとめられた「上總介御道具貞松院江被遣候覺并御香奠御布施覺」には、うち式部正宗だけが見当たらない。
- それぞれ年月は不明ながら、松平忠輝が所持していたと思われる期間は、遅くとも家康生前である元和2年(1616年)迄に拝領、遅くとも土屋数直が没する延宝7年(1679年)までに売却ということになる。
但し代付けが出てる以上、寛文8年(1668年)頃に売却した可能性が非常に高い。
松平大和守家
- 寛文8年(1668年)に七千貫(三百五十枚)の代付け、宝永3年(1706年)卯月3日付で七百枚に上がった。
- 松平大和守が2729両3分2朱という途方も無い金額で売買した記録が残っているという逸話で有名である(2375両2朱ともいう)。
- ※買上年月には異説があり、寛文8年(1668年)あるいは正徳2年(1712年)12月という。寛文8年(1668年)に代付けがあり、さらに上記で見たように松平忠輝が式部正宗を手放した時期(1665年~1679年)から考えると、この時期に本阿弥家で代付けが行われ同時に売却が行われた可能性が高い。
- ※そうなると、買い上げたとされる人物も松平基知(白河藩2代、在位:1695-1729)ではなく、その父である松平直矩(在位:1648-1695)の可能性が高い。
松平直矩は、越前大野藩主であった松平直基の長男として生まれ(結城秀康の孫。叔父に松平忠直や松平忠昌がいる)、父が姫路藩15万石への転封途上で死去したため慶安元年(1648年)5歳で家督を継いだ。幼齢を理由として直矩は、翌慶安2年(1649年)に越後村上藩15万石へと転封されている。成人すると寛文7年(1667年)に姫路15万石へと戻された。式部正宗を寛文8年(1668年)に買ったとすればこの頃である。なお次男・基知が白河藩2代藩主となり、三男・矩栄(宣富)は一門である松平光長の養子となった。
親族である越後高田藩松平光長の越後騒動に際して松平近栄と共に一族を代表して騒動の調整を行うが、両名共に不手際を指摘され、直矩は領地を半分以下の7万石に減らされ、閉門の上で天和2年(1682年)2月7日に豊後国日田藩に国替を命じられた。貞享3年(1686年)7月、3万石加増の上で出羽山形藩、さらに6年後の元禄5年(1692年)7月27日には5万石加増の上で陸奥国白河藩へ移され15万石へと戻った。
なおこの話にはからくりがあり、肝は単位が揃っていない点にある。(代附十枚が七拾五両で、百貫が五枚相当であることから)350枚はすなわち2,625両ということになる。それを大和守家では2,729両で買い上げたということになるため、代付けよりちょっと高く(104両=4%弱増)買ったに過ぎない。もちろん庶民からすれば「ちょっと高」い分だけですら目の飛び出るような価格であったろうが(当時十両盗めば死罪であり、庶民は一生小判を見ることがなかったともいう)、庶民生活を差し置けば名物刀の正宗で三百五十枚は並と言える価格帯である。後には七百枚つまり5,250両へと値上がっており、大和守家としては40年後に倍に値上がったのだからむしろお買い得であったとも言える(結局は焼失したが)。
例えば「小松正宗」や「八雲正宗」なども同様に代付け七百枚だし、富田江は一説に八百枚の代付けが提案されたとも言う(結局は不知代)。もちろん無代、不知代というのはそれ以上という評価である。名物刀の価値がもともと(世間一般からすれば)余りにもかけ離れているという話に過ぎない。現在、国宝刀剣が少なくとも億単位の値付けになるということである程度想像が可能である。
松平大和守家代々
- 同家は何度か転封され、直基系越前松平家5代のときには武蔵川越藩に転封となる。
元は前橋藩。利根川の洪水被害により、明和4年(1767年)閏9月15日に居城藩庁を前橋から川越に移した。
- 幕末、時の殿様(松平直克か)の差料となったが、差料とするためには大小を揃える必要があり、正宗に合うほどの脇差が手に入らなかったために備前盛光の作を脇に指したという。
- 昭和10年(1935年)8月3日に重要美術品指定。松平直富伯爵所持。
- 昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で5つあった土蔵は灰燼に帰し、この式部正宗のほか、御手杵の槍など名宝が消失した。
処があの二十年の五月二十五日の空襲で、一度は御蔵から出し防空壕に入れて助けたのだそうであるが、更に御蔵に入れるという結果から見ての不手際から見る影もなく焼いて了ったのである。その丁度一週間程前に、同家の御家職の厚木という方が私共の疎開地に来られ、式部をはじめ全部お預かりする事に相談して置いたのであるが、連日のはげしい空襲の為にそれも成し得ず、遂にあんな結果になってしまったのである。(中略)
そして町中の研磨場で働いて居た宮形氏がこの弟子を連れて私共の家まで来て、「先生、之を此の儘鑑定して下さい」と焼身を七本出し、その中の一本を示したのである。「何か相州物の上位のものじゃあないかな」「之が式部なんですよ」「ええ」という様な次第で、側に居た私も仰天して了った。御邸でも、又私共もあれ程大切にして来たのが、今見ると無残な姿で机の上にのって居る。そして「お邸で何とか焼直せないでしょうかという事なんですが」と附加えた。処が物打の辺が横手幅の半分程も焼けて朽込んでしまっていて、何うにもなりそうもない。(中略)
刀身の修正に非凡の技術を持ち、あくまでも強気の流石の宮口(引用注:刀匠)も、如何とも成し難いとの結論を述べて居たのであって、こんな様な次第で万策尽きてしまったのである。
此の時の七本というのは式部正宗と則光の大小、宇多国宗、南紀重国の大小、相州行光と盛光の大小、それに三条吉家の太刀で、この外にお手杵の槍があった。之迄にお邸では数々の名刀を整理して出してしまい、これだけが残って居たのでこの七本は皆出来の優れたもの許りであった。(中略)
その焼身は相当に長い間伊勢原の私共の家に御預りしたのであるが、如何にしても残念で堪らず、火膚のみは一所懸命取り去ったが、最早昔日のあの刃文も、あの美しい刃色も全然見られなかったのは当然である。私自身にしても自分の祖先を一時に焼失してしまった様な気がして。
(名刀後日譚 本阿弥光博)
レプリカ
- 2016年、松平直基が創建した前橋東照宮において、この「式部正宗」の復元プロジェクトが開始されたとアナウンスされた。前橋在住の刀工高橋恒厳氏と、師匠の上林恒平氏が鍛刀するということである。
- 2020年(令和2年)4月26日、「第3回 前橋藩主 松平大和守家顕彰祭」にて初お披露目される。
式部正宗
刀
刃長二尺三寸一分
金象嵌 榊原式部太輔上之
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