大包平


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。

OFUSEで応援を送る

 大包平(おおかねひら)

太刀
銘 備前国包平
名物 大包平
長89.2cm 反り3.4cm、元幅3.7cm、先幅2.5cm
国宝
東京国立博物館所蔵

  • 平安時代末の古備前派刀工包平の作。
    • 包平は、助平(すけひら)、高平とともに「備前三平(びぜんさんひら)」と呼ばれる名工の1人。
  • 鎬造り、庵棟、切先詰り。身幅広く、腰反り高く踏ん張りあり。
  • 表裏に棒樋をかき流す。中心うぶ。佩表に「備前国包平作」と長銘が入る。
    包平は二字銘が通常であるが、この大包平に関しては六字銘を切る。名工包平にして会心の出来であったのではないかと思われる。
  • 享保名物帳所載

    大包平 在銘長二尺九寸四分 無代 松平大炊頭殿
    表裏樋寸長き故名付

    • 本阿弥の「名物控」には、古庄兵衛というものが元禄5年(1692年)に池田家で拝見した話として載っているに過ぎず、本阿弥家で実見したものではないとみられる。
  • 詳註刀剣名物帳

    此傳簡短にして詳ならず、此太刀いつの頃より池田家の重寶となりしや詳かに知り難し一説に太閤薨去の時遺物として池田輝政に賜りしと云ど然らず、太閤遺物として池田が賜りしは吉光の短刀なり包平にはあらず、この包平、新太郎少将光政に傳りしに少将いまた幼稚の時、因州鳥取の松平忠雄(同家なり)より大包平を所望せしに、家老日置豊前強く拒みて遂に與えず、今も池田家にあり、別役少将曾て此太刀を一見し語りて曰く、長サ二尺九寸四分、表うら共に樋を掻通し生忠(うぶなかご)にて備前國包平太刀銘に切り、一點(いってん)の疵なく、地荒なく地鐵極て精美、丁子交りの亂刃にて言語同斷の名刀なりと激賞せり。

    「別役少将」とは、今村長賀と並び刀剣研究の大家であった別役成義のこと。一度拝見し言語道断の名刀であると語っていたという。

Table of Contents

 由来

  • 包平の中の包平」という意味で「大」が冠せられている。
  • 現存する全ての日本刀中の最高傑作として知られ、「童子切安綱」と並び称され「日本刀の東西の両横綱」と例えられることもある。

 来歴

  • 池田輝政の代から池田家に伝わり、輝政に「一国に替え難い」と云わしめたほどの名刀という。享保名物帳にも記載される名物だが、池田家以前の伝来はまったく不明である。

    大包平の池田家の所藏となりし由来明かならす。或は云ふ輝政公甚だ刀劍を愛し大に之を蒐集せられたりと。

  • 俗説で3代藩主の新太郎光政が購入しようとした時に陽明学者の熊沢蕃山が反対したという逸話も伝わるが、祖父の三左衛門輝政が佩用したと伝わるため誤りとされる。

    此の太刀が享保名物牒に搭載されてより以來備前池田家の重寶であるが、俗間新太郎少将が購入したと傳へてゐるが誤りであつて光政の祖父三左衛門輝政の随一の愛刀であつたらしく、池田家の記録に存する所である。

  • いずれにしろ、確実に記録で追えるのは池田光政の代からとなる。

    近頃備前新太郎(光政)も。傳來の大兼平(ママ)も何の用かあらん家中の刀を殘らす用に立てさせんには向ふ敵は有るまじ。大名の身にて刀一腰を賴むこと口惜しかるべしと、御家督へ戒め教へられし。

    朝三左(綱政)と祝申候 大兼平(ママ)太刀 助眞ノ刀 國光ノ脇指 遣

       松平新太郎殿
    黒 大包平 二尺九寸四分
    本阿弥光瑳名物刀記

 池田光政

  • 池田家所伝によれば、三左衛門輝政の佩刀で、正月の具足始めには甲冑とともにこれを飾る習わしであったという。
    「具足初」とは「鎧着初」のことで、通常は武家の男子が適齢に達した際に初めて具足を着用する(つまり人生一度きりの)儀式をいう。しかし備前岡山藩では、藩祖池田輝政の栄誉をたたえ毎年正月11日または20日に「具足祝」として具足と大包平とを飾るしきたりがあったという。
    1. 慶安2年(1649年)1月20日「例年の如く具足祝い」
    2. 慶安4年(1651年)1月20日「具足之祝あり」
    3. 慶安5年(1652年)1月11日「御城、具足之祝あり」
    4. 慶安5年(1652年)2月16日「池田綱政(輝政嫡男)、具足着初をする」
      ※綱政は寛永15年(1638年)生まれ。これは通常の儀式であり、年初儀式とは別。

      二月十六日 三左衛門具足初之節
      一、朝三左と祝申候 大兼平(ママ)太刀 助眞ノ刀 國光ノ脇指 遣 其後御影三幅せう香仕候事

      御鎧着初あり其朝まづ御祝として烈公より大兼平(ママ)の御太刀御眞御刀國光御脇指をまゐらせ玉ふ

      ※この時の記述が「遣」、「まゐらせ玉ふ」となっており、この際に初代池田光政から2代池田継政への譲渡が行われたという指摘もある。
    5. 承応2年(1653年)1月11日「具足之祝あり」
    6. 承応3年(1654年)1月11日「具足之祝」
    7. 承応4年(1655年)1月11日「具足之祝」
    8. 明暦2年(1656年)1月11日「具足祝い」
    9. 明暦3年(1657年)1月11日「具足餅祝の覚」
    10. 明暦3年(1657年)1月12日「池田光政二男池田政言(輝政次男、綱政の弟)、具足着初」※政言は正保2年(1645年)生まれ。この年も前日の年初儀式とは別に行っている。

以下略。寛文7年(1667年)まで池田光政日記に記録がある。例年行う「具足祝」と適齢を迎えた子の「具足着初」の2種類がある。

  • このうち例年行っている「具足祝」はいわゆる「具足開き」といわれる行事(現代でいう鏡開き)と思われ、加賀前田家などでも利家の代から同様の「具足の鏡餅直」と呼ばれる儀式が行われている。この儀式を池田家で「具足始」と呼んでいたのかどうかは不明だが、ここでは佐藤寒山氏の著に従うものとする。

    ところが、池田家の記録によれば、この雄刀大包平は、光政の祖父である池田三左衛門輝政の第一等の愛刀で、具足始めの儀式には毎年、その着用の具足と、この大包平の太刀とを飾ることが輝政以来のしきたりとなっているという。

    なお「大兼平(大包平)」の文字が見えるのは慶安5年(1652年)の嫡男綱政の具足着初の際のみで次男のときにはない模様。寒山がどの記述を見て毎年の具足始としたのかは不明。

    なお当初1月20日に行われていた具足祝が、慶安5年(1652年)以降は1月11日に行われている。これは家光薨去までは天正3年(1575年)の長篠合戦前のとある吉事を例日として行っていたためであるとする。家光が慶安4年(1651年)4月20日に亡くなると、20日を忌日として避けるために、松の内が終わった後の11日へと変更された経緯がある。※ただしこれはあくまで徳川家の説であり、例えば秀吉の初子鶴松の具足祝が天正18年(1590年)正月20日に行なわれている。恐らくもっと古い時代の鎌倉もしくは室町期において、武家で慣例化するに至った出来事があったものと思われる。


          細川忠興──細川忠利【肥後熊本藩】
                  ├──細川光尚
                ┌千代姫
          小笠原秀政 ├小笠原忠真【豊前小倉藩】
             ├──┴万姫
     ┌松平信康──登久姫  ├──┬蜂須賀忠英【阿波徳島藩】
     │        蜂須賀至鎮 └三保姫
徳川家康─┴──督姫            ├───池田光仲【因州鳥取藩】
         ├──┬─池田忠継━━池田忠雄   ├───┬池田綱清
         │  ├─池田忠雄         │   └池田仲澄──池田吉泰
         │  └─振姫     徳川頼宣─┬茶々姫
池田恒興     │     │     【紀州家】└徳川光貞─┬綱教
  ├───┬─池田輝政  伊達忠宗              └徳川吉宗
 善応院  │  │
      │  ├────池田利隆──池田光政【備前岡山藩、池田宗家】
      │ 福正院    本多忠刻  ├──池田綱政──池田継政
      │          ├──勝姫         ├───池田宗政
      │    徳川秀忠─千姫      伊達吉村─心定院和子   ├───池田治政
      │                              │
      └─池田長吉──池田長幸           黒田継高──宝源院藤子
         【備中松山藩】

  • 光政の代のとき、準譜代の鳥取藩主池田忠雄から寄越せといってきたが、日置豊前が断固として渡さなかったという。

    興国公(利隆)薨去の後、芳烈公(光政)未だ幼少におはしませば日置豊前國政を司れり。興国公の弟宮内大輔忠雄後見たり(略)其子細は新太郎殿之家に傳たる大包平之太刀を、宮内殿預かり用ひられんとの義に候を殿拾五歳以後之事、今は幼き時某計ひがたしと申ければ不機嫌なりき、此外に少も心に懸る事なしと荒々しくにいへば宮内も甲斐等も打笑て兎角の詞なかりしとぞ

    この日置豊前とは享保名物日置安吉」を所持して名前を残した人物である。
     池田忠雄は光政の叔父にあたる人物で、7歳で姫路藩主となった光政の後見役を務めた。相続の翌年、光政は幼少を理由に姫路藩から鳥取藩へと転封を命じられる。しかし後、その忠雄が亡くなると今度は忠雄の嗣子光仲が3歳の幼少であることを理由に、光仲を鳥取藩に、光政は岡山藩へと領地替えすることになった。

 池田継政

  • 享保名物帳に記載される「松平大炊頭殿」とは、岡山藩3代藩主池田継政のこと。
  • 池田継政は岡山藩2代藩主池田綱政の子。正室は伊達吉村の娘、心定院和子。享保7年(1722年)4月23日に輿入れし享保12年(1727年)には嫡子宗政も生れているが、元文2年(1737年)10月5日に突然離縁している。

    私妻儀、致離縁、今日松平陸奥守(伊達吉村)方差戻シ候、就右、陸奥守父子私父子共致義絶候、右御届申達候、且又此已後、利根姫君様御守殿私父子共奉伺御機嫌候儀等、奉憚相止申候、以上

    後半に登場する「利根姫君様」とは、吉村の嫡子伊達宗村正室の雲松院利根姫(紀州家徳川宗直娘、将軍吉宗養女)のことで、この将軍養女に対してすら今後ご機嫌伺いは行わないとまで通告している。

  • この離縁や通告は事前に幕府や伊達家に相談なく行ったため、伊達家では驚愕し、両家は断絶状態に陥った。孫の池田治政の代、天明4年(1784年)にようやく両家は和解している。
  • なお、「大包平」が岡山藩2代池田継政から3代池田綱政へと譲渡された記録は見当たらない。※上記「具足着初」の際であるとすれば、慶安5年(1652年)ということになる。
  • のち3代池田綱政から4代池田宗政には、宝暦4年(1754年)正月に譲渡されている。この時には、「大包平」、大原安綱作の太刀郷義弘の刀の三点となっている。
  • 宗政は急死したためか、4代池田宗政から5代池田治政へは没後に「御譲物」として譲渡されている。この時にも、大包平、安綱刀、郷刀の三点。

 重美・旧国宝・新国宝指定

  • 明治24年(1891年)鑑査状

      鑑 査 状
    第五七八七號      侯爵 池田章政
    一、太刀、備前大包平作六字長銘亂刄表裏樋入 長貳尺九寸四分 壹口
    右優等ニシテ美術工藝上ノ模範トシテ要用ナルベキモノト認定ス
     明治二十四年八月一日
      臨時全國寶物取調局臨時鑑査掛 正七位 今村長賀
      臨時全國寶物取調局書記兼鑑査掛    川崎千虎
      臨時全國寶物取調局書記兼鑑査掛    小杉榲邨
      臨時全國寶物取調掛      正七位 黑川眞賴
      臨時全國寶物取調委員  従四位勲四等 川田 剛
      臨時全國寶物取調委員長 正三位勲一等 九鬼隆一

  • この頃に小此木忠七郎が大包平を拝見し、水拓を取っている。拝見は昭和5年(1930年)6月か。

      名物帖所載 大包平   池田侯爵家藏
     長二尺九寸四分 生中心長七寸七分 中心棟丸切鑢目釘孔三 反リ六分中ニテ反ル 幅一寸二分五厘 鎬ヤゝ高シ 帽子高サ一寸二分 太樋中心先迄カキトホス
     
    予ハ昨年六月竹中公鑑君の誘引に應じて岡山市なる侯爵邸に詣り本品を勸るの榮を得たり 其際特に請うて二葉の揩形を手冩し一葉は同邸に留め一葉は齎し還りて予が研究室に収容したるもの卽この冩眞の原圖なりとす、予は讀者のために本品を解説せむが爲に故今村長賀翁を劍話録中より延き來りて諸君の門前にたゝしむべし。
    (略)
    目方も相應に重く肉置のきびヽしたる雄姿髣髴としていまなほ目にありて忘るゝ能ゝはざるなり。
        編輯室にて 小此木忠七郎

  • 昭和8年(1933年)7月25日、重要美術品認定

    昭和八年文部省告示第二七四號
    太刀 銘備前国包平作(名物大包平) 侯爵池田宣政

  • 昭和11年(1936年)旧国宝指定

    昭和十一年文部省告示第三百二十六号
    太刀 銘備前国包平
    附糸巻太刀

  • 昭和26年(1951年)6月9日に国宝指定。池田宣政氏所持。

    文化財保護委員会告示第二号 
    太刀 銘備前国包平作(名物大包平) 一口
    附糸巻太刀
    池田宣政

    池田宣政侯爵の息子が池田隆政氏で、その妻は昭和天皇の第四皇女である順宮厚子内親王(池田厚子)。つまり池田隆政氏は第125代天皇の義理の兄にあたる。

 国の買上げ


 逸話

  • 「薫山刀話」に以下のような逸話が載っており、池田家でいかに大切に扱われたかが伝わってくる。()内の小文字は引用者が加えたもの。

 知事にも持たせない

  • 本間順治氏が、当時の岡山県知事である香坂昌康(本間氏と同郷)を仲介役として池田家に拝見方を頼んだところ、拝見が叶う。しかし同席して拝見した知事には触らせもしなかったという有名な話。

     それで東京の屋敷ではなく、岡山の屋敷へ拝見に行ったのです。香坂知事が自分も拝見したいからということで、いっしょに行きました。ところで刀が出てきたら、なんていったか偉い家令がおりまして、その当時知事なんて地方ではいばったもんですが、私に、あなたは刀のくろうとだから手にとってよくご覧ください、しかしと、知事をさして、こちらはおしろうと(、、、、、)で扱いもなにもわからんのですから、こちらには渡さないでくださいと、最初からお断りでしたよ。だから仰せの通り、香坂さんには渡さないで、こっちがもっておって、こうやって見せました。

  • つまり本間氏が拝見した際にはまだ岡山にあり、その後研ぎを勧めたところで東京に輸送をしたということになる。
    香坂昌康が官選第18代岡山県知事であったのは、昭和4年(1929年)~昭和6年(1931年)の間。昭和6年(1931年)1月20日から官選第24代愛知県知事。
  • ただし、後年高松宮殿下が刀の勉強をなさるということで大包平を所望された際は、池田宣政侯爵が自ら持参したという。

    其の後数年、高松宮殿下が刀のご勉強で、私(本間順治)が講義を申上げた折に、池田侯が自身で大包平を宮邸に持参して私に手渡されたのであるが、その昔、明治天皇の岡山行幸の砌、県当局がこの太刀を天覧に供すべく池田家に依頼したが応ぜず、大切のもの故に心得のない役人の取扱を欲しないと返答したと噂に聞いたことをふと思い出し、さもあらんさもあるべしと感じたのであった。

  • なお研ぎについては名人・平井千葉氏が推薦されてあたったという。

    もちろん、平井の研場ですることはゆるされず、高輪の池田邸にかよって見事に研上げたのであった。平井は元来、出仕事がきらいであったが、出仕事での傑出した研と云えばこの大包平と高松宮家の観世正宗であろう。ところで、後日に池田家の掛の者から聞いた話であるが、大包平の出仕事には連日子息の猛夫君(後の本阿弥日洲)を助手としてつれて来たが、時折その他にも相当年配の大男の弟子を同伴した。然しこの弟子は研は至って未熟らしく、水の運搬ばかりやらされていたとのことである。この未熟者が刀商石黒久呂君であったことが、数年後に自白によって知ったのである。

 国宝指定時の門外不出話

  • 昭和11年(1936年)の国宝指定に先駆けて国宝指定委員が拝見する際の持ち出しの話。細川護立氏を仲介役としてようやく説得できたという。

     岡山へ返す前に、国宝に指定したいからといったところ、妙な話で、岡山から東京までは(研ぎのために)運んできたのに、今度東京の屋敷から文部省までは運べないということです。それは門外不出の掟であるというわけですね。
     門外不出で私は断られたのですけれどもね、それから細川さん(細川護立)に池田家でこういってますといったところが、それじゃ僕に任せろということになって、殿様にお任せしました。殿様が池田家に行ってくださったのか、どこかで池田さんに会われたのかしりませんけれども、その後細川の殿様が、あれは僕が受けとってくることにしたよ、とおっしゃるその談判が面白いですよ。おまえの家では門外不出だから、門から出さなきゃいいんだろう、だから僕が塀の外で待っているから、塀越しに出しなさい、それで話をつけてきたよということなんですね。
     そういうことで殿様のあいだのお話がきまったのですが、しかしその通り殿様が取りに行かれたのではなく、あそこの家令に石坂という陸軍中将で遊就館の館長をやったご家来がいて、その方が文部省に持参してきましたよ。

    石坂善次郎陸軍中将。山本庄五郎の二男として生まれ、陸軍軍医総監・石阪惟寛の養嗣子となる。退役後遊就館館長。

 戦後のドタバタの頃の話

  • 終戦後、GHQにより刀剣類提出命令が出されたときに上野博物館へ疎開した話。

     今度は終戦のときに、岡山の進駐軍がこの大包平を提出せよといってきたのです。それだけでなく、池田家の刀をみんな出せということであったようです。池田家のほうでは、ほかの刀は出すにしても、大包平だけは困るというんで、家令が私のところに飛んできて、なんとかしてくれというわけで、キャドウエルさん(キャドウェル憲兵司令官。赤羽刀の項参照)に話しに行ったのです。そうしたら前の話の通り、それを博物館に運びなさいという。それはいいんですが、博物館へ運ぶにせよ、むこうに進駐軍がおって、それが出せといっているのに、こっちが取りに行ってもってくることはむずかしい、だからあなたのほうで運んでくださいと頼んだのです。よろしいということになって、第八軍の憲兵司令部から兵隊を出して、大包平を運んでくれたのです。
     池田家のものだけじゃなく、ついでにあの先の広島に浅野家があるから、浅野家のものも、その先の九州まで行ってもらって、細川家の刀やら、街道筋の大大名の刀をみんな運んでもらいました。運んできたものはみんな上野博物館に入れておきましたから、大包平をはじめ、その後もこれらのものは上野博物館にあったのです。

  • 国宝指定後、岡山へ戻していたものを、進駐軍による回収を避けるため上野博物館(現在の東京国立博物館)へ一時避難させていたということになる。


 包平(こかねひら)


銘 備前国包平
一尺八寸四分(または二尺一寸五分)

  • 大包平に対して小さい包平ということで名付けられた。
  • もとは泉州堺の豪商樋口屋の所持。
  • 大坂御物名物刀剣押形所載

    包平 長サ弐尺壱寸四分 包平

    伝により長さがバラバラになっている。


Amazonプライム会員無料体験