北野肩衝
北野肩衝(きたのかたつき)
漢作茶入
大名物
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由来
- 元は烏丸大納言家に伝わっていたために「烏丸肩衝」と呼ばれた。
- 天正15年(1587年)の北野大茶湯に烏丸家から出陳したところ、秀吉の目に留まり「北野肩衝」と称されるようになった。
夫より方々圍ひ道具御覧あらんとて、御小姓衆十人斗り召連れられ、まづ蜂屋出羽守が圍へ御入、御茶あがる、又出羽守も召連れられ方々御覧あり、烏丸光廣卿の數寄屋の前御通りの時、利休この内に好き肩衝御座候とて、御進め申、御入あり。
(茶事秘録)秀吉北野にて茶の湯の時、利休此亭にも能き肩衝候と申候故、秀吉行過候へども、立帰り一覧候も、此肩衝故に、又北野とも申候。
(大正名器鑑 北野肩衝由来)
- なお「松屋会記」で天文11年(1542年)の茶会に「北野肩衝」が登場しており矛盾しているが、これは松屋源三郎が後に追記したためという。
松屋筆記天文十一年四月四日宗達茶會の條に、北野肩衝の名を掲ぐ、案ずるに北野肩衝の名稱は天正十五年十月一日北野大茶湯の時に始まると云へば、此時の名は松屋源三郎の追記に係るものと見るべし。
来歴
東山御物
- もとは足利義政所持という。
三好宗三・天王寺屋
- のち三好宗三を経て、天王寺屋津田宗達に伝わった。
天文十一年四月四日堺天王寺屋宗達
久政 又五郎 小清
床に長盆に北野肩衝 天目
土靑黑目也、藥の内になだれあり、惣藥黑めなり、うすかきあり、ヘラ六つあり、糸切
(松屋会記)
天文11年は1542年。
- 子の津田宗及に伝わる。
烏丸家
三木権太夫
三井八郎右衛門家
- 元文年間(1736~1740年)に、三井八郎右衛門家に譲渡した。
三井八郎右衛門第4代の三井高美ではないかと思われる。美術品蒐集で多額の借財を抱えてしまったため、祖父三井高房から弟の新町家3代高弥へ家督を譲るよう命じられている。
- 松平不昧がこれを拝見し、譲るようにいってきたことがあったが、三井家では売らなかったという。
北野は本宗小堀共一覧は致不申事、天明寛政の頃より一覧の者は、不昧殿隠居後、八郎右衛門方被相越而、相伴に根土宗静一人、此砌伏見屋甚右衛門共為願候へども不相叶、宗静計りに候事、甚右衛門は八郎右衛門方に彼是有之而拝見は不致候事
(大正名器鑑 北野肩衝由来)
根土宗静(ねづち そうせい)は出雲広瀬藩茶道方で、不昧の弟子。号 孤輪庵、江山。
伏見屋甚右衛門は不昧の出入り商人のひとつ。不昧が三井家に拝見を申し入れた際に、根土宗静と伏見屋甚右衛門も同伴を願ったが、伏見屋甚右衛門は断られる。そこで偶然同じ日に三井家を訪問したことにしたが三井家ではこれを断ったという話が詳しく記述されているという。
- 江戸時代に、この北野肩衝を拝見したのは、不昧公のほかに、姫路藩の家老・河合準之助(寸翁)の2名だったともいう。
- ※元文以降の三井家での話だと思われる。
小浜酒井家
- 安政2年(1855年)12月、若狭小浜藩主の酒井忠義が三井宗六よりこの北野肩衝と虹天目、三好粉引、高麗筒花入を四千八百五十両にて購入した。
覺
一金四千八百五十兩也
北野肩衝茶入
虹天目茶碗
三好粉引茶碗
高麗筒花入
右之四點御道具為御代り御下け被下置、難有慥に奉請取候、為後日依而如件
安政二卯年十二月 三井八郎右衛門(印)
高橋有無様
三井宗六とは三井八郎右衛門第7代の三井高就のこと。天明5年(1785年)生まれ、安政4年(1857年)72歳で没。
宛名の高橋有無は、若狭小浜藩酒井家家臣。
- 酒井忠義の曾孫である酒井忠道伯爵まで伝わる。
- 大正8年(1919年)4月25日、高橋義雄(箒庵)が実見している。
三井家
- 大正12年(1923年)6月14日の酒井家売立に出品され、金十五萬九千二百圓で落札され、三井高棟がこれを購入したため、再び三井家に戻った。
品目
大名物北野肩衝茶入 金十五萬九千二百圓 山澄紳士好事家側に於て今度の第一大手筋は三井宗家八郎右衛門男であつたが、是は安政年間酒井忠義侯が京都所司代たりし土岐、三井八郎右衛門より買上げられた品々を今度當代が買戻された者で、大名物北野肩衝茶入、名物粉吹茶碗、二徳三島茶碗等が即ち夫れである。
三井高棟は、三井八郎右衛門第10代。安政4年(1857年)生まれ、昭和23年(1948年)没。
落札者の「山澄」は、東京の札元山澄力蔵のこと。
- のち三井文庫所蔵となり、現在は三井記念美術館で保管・展示している。
- 平成15年(2003年)5月29日に重要文化財指定。
関連項目
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